求めなさい ウイリアム・モーア

マタイ7章7-12

【祈りの大小】
皆さん、今朝、一つの質問を致したいのです。それは、祈る時、神にどのような祈りを捧げますか。つまり、自分のための願いは大きいですか。それとも小さいですか。この質問をするには理由があります。それは、何よりも祈りは神に対する私達の態度と概念の現れなのです。ですから、私達は自分の祈りを調べてみたら、実際にどのような神を私達が信じているかが分ります。

【子供が親に願う事】
子供が親に願う事と、神に祈るのはある面で非常に似ているところがあると思います。実は、アメリカで勉強している次男のポールは今、車を欲しがっています。ロサンジェルスは広くて、また、公共輸送は不便ですから、車があったら活動が随分楽になると考えられます。ですから、ポールは家に電話する時、車の課題がよくでます。この間、彼は、「$2、000があったら車を手に入れられる」と言いました。そして、車を買ってくれたら、アルバイトを探す事が出来るし、その報酬で自動車保険にも入れると更に言ってきました。つまり、ポールは親の予算を考えながら、願っています。間違いなく、もし金持ちの親であったら、ポールは新車の高級スポーツカーを願った事でしょう。しかし、彼は家族の状態が分るから、言われなくてもそれは不可能だとよく知っています。

同じように、私達は神の力が限られていると思ったら、私達の祈願があんまり大きくはないでしょう。神には不可能だと思った事を願うはずがないからです。また、神は私達の願いを出し惜しむ、気難しいお方だと思っていたら、祈りをあんまりしないかも知れません。その反面、神は全てを造り、全てを所有する愛する天のお父さんだと信じたら、きっとその願いは大きいはずです。

【求めなさい。そうすれば、与えられる】
今日の聖書の朗読はイエス・キリストの山上の説教の続きになります。そして、主はこのように私達に命じています。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)

大事な事だと思いますが、ここで主イエスは、

「 求めなさい。小さな願いだったら、与えられるかも知れません」とおっしゃいませんでした。いいえ、主は明快に、「求めなさい。そうすれば、与えられる」

と勧めて下さいます。つまり、祈る時、神には大きすぎるという祈願がない訳です。私達の天の父なる神は天地万物の全能の造り主であります。また、私達の愛する味方ですから、どんな願いであっても神には大きすぎません。

私達一人一人の為に神は御自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わしました。更に、私達の為、十字架でイエスは犠牲になって、私達の最も大きなニーズに答えて下さいました。すなわち、信じる者に罪の赦しと永遠の命を賜りました。このような憐れみと愛に満ちている力強い神はもちろん私達の一つ一つの願いを聞いて、答えて下さいます。

【探せ、門を叩け】
主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる」と私達に教えられました。祈りを通して神に求める事は誰でも分ると思います。無神論者さえも大変な時、祈るでしょう。しかし、「探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言うお勧めはどう言う事でしょうか。やはり、願いやニーズがあれば、口で主に求める事は必要ですが、更に私達の方から探す事と門をたたく事も大事です。ある時は、私達のお祈りを叶える為、 神は私達の方からの積極的な行動を望んでおられます。宗教改革者マーテイン・ルーテルはこのように言いました。「全ては神次第であるように祈りなさい。そして、同時に全ては自分次第であるように励むべきです。」

【祈り、探し、門を叩く経験】
わが家の車はデイーゼル車なので、国の公害防止対策の為、もうすぐ車検が受けられなくなります。まだまだ丈夫な車を廃車にするのは非常にもったいないと思っても、法律は法律ですから、なんとか対策を講じる必要がありました。つまり、車がないと西谷へ来るのは難しく、他の車を手に入れなければならない事が明白になりました。言うまでもなく、余裕があればその問題は簡単に解決出来ます。ただ代金を持って、デイーラーから車を購入する事です。しかし、それ程の余裕がないので、今年の春から私達は祈り始めました。つまり、主イエスが教えられたように求めました。「今の車は使えなくなります。これからも車がいりますので、どうか備えて下さい」と神に求めました。それは第一歩でした。また、主イエスの教えによりますと探す事と門をたたく事が必要でありました。神はもちろん私の協力がなくても、新しい車を備える力があります。天地万物の造り主には、それは簡単だと信じます。しかし、神がこの願いを叶えるように私の役割りがあると信じ、積極的に適切な車を探し始めました。そして、その車が見つかると色々な予算が分りました。そして、予算が足りないから門をたたき始めました。つまり、私達の働きをサポートして下さるアメリカの教会に手紙を出しました。それから「助けたい」と言う返事を貰いました。私達は現在の車の車検が切れる前に新しい車が手に入ります。それも私達の願いよりも遥かに良い物です。確かに、神は私達の願いを叶えて下さいました。求める事と探す事と門をたたく事、また御自分の民を通して、必要な車を備えて下さいます。この経験を通して「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言う主イエスの約束を私達は新に経験する事が出来ました。

【悪い親でも】
次にイエスは短いストーリを用いて、私達に対する神の気前のよさを教えてくださいます。今日の朗読の9節の所を見て下さい。

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物を下さるにちがいない」

と主が言われました。
イエスが言われた通りに、人間の親は誰でも出来るだけ自分の子供に良い物を贈りたいのです。子供がお腹が空いて、パンの代わりに石を与えて、そして、魚の代わりに蛇を遣ると、とても可笑しな親と思われますね。そのような酷い親がいれば、子供が取られてしまう方が良いと思われます。私達人間は本能的に自分の子供に良い物を与えたいのです。自分の子供の良い成長と幸福を何よりも願いたいのです。ですから親による幼児虐待事件を聞くと、びっくりします。大体、人がどんなに堕落しても、どんな酷い犯罪を犯しても、少なくとも自分の子供は守って、良くさせたいのです。ですから、主イエスによりますと、言うまでもなく、完璧である、私達の愛する天のお父さんは私達に良い物を授けたいのです。そのような神は求める者と、探す者と、門をたたく者の願いを聞いて下さいます。

【祈りはどのように叶えられるか】
しかし、だからと言って私達は神に何でもかんでも求めても良いのでしょうか。もし一所懸命に探して門をたたくと、主はどんな物、どんな事でも授けて下さる訳ですか。宝くじで1等に当たるように熱心に祈ったら、きっと叶えられますか。もちろん、もしそれがあなたの為の神の御旨であったら、叶えられると思います。しかし、聖書の全体的な証を見ると、祈りは神から、私達の自己中心的願いを貰える方法ではないと分ります。ですから、願う時、「あなたの御旨であれば」と神に祈った方が良いです。神は全ての心からの祈りを聞いて、答えて下さいます。しかし、その答えはいつも「yes」ではありません。

覚えていると思いますが使徒パウロは「身に一つのとげ」が与えられたとコリントの信徒達に書きました。その「とげ」は多分身体的な病でした。

「離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました」

とパウロは語りました。しかし、その神からの答えは、

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12:9)

とパウロが書きました。更に主イエスは十字架に向った時、このような祈祷を捧げました。


「父よ、出来る事なら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどうりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)

と祈られました。

【万事が益となるように】
ある時は、愛する天のお父さんは私達が願う事の代わりに、丁度必要な事を与えて、あるいは、願ったものよりも、もっと良いものを授けて下さいます。私達に対する神の愛は完璧ですから、どんな事があっても、その愛を信じ、全てを主に委ねる事が出来ます。そして、使徒パウロと同じような証が出来ます。それは、

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くという事を、私達は知っています。」(ローマ8:28)

【人生の黄金律】
神は求める者に良い物を下さいますから、私達は積極的に隣人に良い行動を見せるべきと主が言われました。最後に、主イエスはこのように教えられます。12節を見て下さい。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」

と主は宣言されました。実に、神は先ず私達を愛して下さいましたから、また、私達の全てのニーズに答えて下さいますから、私達は周りの者に手を差し伸ばして、人にしてもらいたいと思う事を、人にする事が出来ます。どうか、私達一人一人は神の愛を豊に受け入れ、その愛の手本を学び、同じような愛を毎日、毎日、隣人に現せるように、助け導いて下さいますように祈ります。
(おわり)

2005年11月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書

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