「慰めを豊かにくださる神」ウイリアム・モーア2011.7.10

 

聖書:コリントの信徒への手紙二1章3−7

 

 

【神が下さる慰めとは】

今日は、 御言葉をもって愛する神が私達に下さる慰めについて学びたいと思います。つまり、私達は悩み苦しむとき、神はどういうふうにして、その苦難を慰めて、新しい希望と力を与えるのでしょうか。

 

【今、悩みがない?】

しかし、「慰め」と言うと、恐らく、私達の中のある兄弟姉妹はこう思うかも知れません。「神の慰めはとても良い課題だと思いますが、今、私は別に悩みや苦しみなどがない、元気と希望満々だ。ですから、今日のメセージは私と関係があんまりないと思う。

 

実は、今、悩みとか別に何もないにもかかわらず、今朝のメセージはあなたに当てはまります。なぜなら、必ずいつか、どんな人でも傷つけられたり、失望したり、苦しみと悩みを味わいます。聖書に於ける多くの人物さえも悩みに打ちひしがれて、苦難に直面したのです。ですから、私達は一人も残らず、いつかそう言う辛い事を体験します。そして、信仰の英雄と同じように、その時こそ、主の豊かな慰めが何よりも必要となります。

  

【慰めを必要とする周りの人々】

さらに、私達は現在直接に大きな心の痛みがなくても、今日の学びを通して、苦しんでいる周りの者の助けになれます。実は、この世には多くの人々は何よりも励ましと慰めの言葉を聞かなければなりません。今日、聖書に於ける神の心の癒しと希望の御言葉を学んだら、それを用いて、苦しみの中にいる隣人に主の慰めを分ち合う事が出来ます。ガラテヤの信徒への手紙5章2に記されているように、「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うする事になるのです。」

 

【今ある悩み】

しかしながら、実は、今朝、ここにいらっしゃる私達の群れの中にも、現在、悩みと未解決の心の痛みを負っています。愛する者に死なれた事や、家庭の絆が破れた事や、子供の時傷つけられた事などもあると思います。更に、職場での失敗や道徳上の失敗の為、悩まされ、その過去を引きずって生きる者も少なくありません。

 

【心の痛み】

古くても、新しくても、その心の痛みをちゃんと扱わないと、ずっと残ります。そして、その残った痛みは精神的と霊的なダメージとなり、自分に対して、人に対して、そして、神に対して恨みを生じます。残念ながら、多くの人々は心の痛みを扱わずに忘れようとします。しかし、いくら無視しようとしてもその結果が残ります。私達は後悔と恨みと罪の意識を負って、生きようとします。

 

【間違った解決法】

更に、私達は誤った方法で心の痛みを和(やわ)らげようとします。特に物に頼ってその痛みを無くそうとします。食べ過ぎる事や、いらない物を買う事や、 飲み過ぎる事や、放蕩する事によって痛みを治そうとします。しかし、逆にその方法は更にまた他の問題をもたらしてしまうのです。

 

【正しい慰めとは】

しかし、心の痛みを正しく、又、有効的に扱うと希望と慰めが十分あります。実は、私達は独りでその問題を扱うはずがありません。私達は独りでその問題を解決する能力がないからです。御言葉に導かれ、これから神が教えられ、その正しい方法を学びます。

 

今日与えられた御言葉を見て下さい。コリントの信徒への手紙二1章3を見て下さい。「私達の主イエス・キリストの父である神、慈愛(じあい)に満ちた父、慰めを豊かに下さる神が誉めたたえられますように。」その一節を一緒に読みましょう。

 

【神のみが慰めの源】

この神の御言葉に私達は何が教えられていますか。つまり、悩みと心の痛みに対するどう言う力と慰めが得られますか。やはり、神こそが誠の慰めの源でありますから、私達は確かな希望を抱く事が出来ます。私達の神は 慰めを豊かに下さる神」です。

 

考えて見て下さい。もし自分の自動車が故障した場合、どうしますか。自分で修理しようとしますか。車を近状のパン屋さんへ持って来て、修理をパン屋さんに頼みますか。あるいは、車を近藤診療所に乗って先生に任せますか。更に、皆さんは車の整備を宣教師の手に委ねますか。とんでもありません。

 

もちろん、どうしてもその方法で、車を修理しようとしたら、多分それぞれの人は協力します。例えば、私は優しい宣教師ですから、私はトランクルームから古い道具を掘り出し、一生懸命にあなたの車の修理をしようとします。しかし、その修理の失敗は確実です。あなたの車はもっと駄目になり、多分ついに廃車にしなければなりません。勿論、車が故障の場合、信頼出来る整備工場を頼みます。そうすると、修理の結果が保証されているでしょう。

 

同じように、心の痛む時、 悩み苦しむ時、私達は癒しと慰めの源へ行かなければなりません。そして、その誠の源は一つしかありません。言うまでもなく、それは愛する唯一の全能の神です。実は、慰めの源へ行かない為、この世の多くの人々は不必要に苦しんでいます。

 

旧約聖書の哀歌(あいか)にこう記されています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそ私の受ける分』と私の魂は言い、私は主を待ち望む。」(3章22−24)

 

【神に心を打ち明ける】

心の痛みの時、慰めと助けが必要な時、私達は先ず慰めの源、愛する父なる神に心を打ち明けるべきです。祈りを通して、自分の気持ちを全部表現します。自分の悲しみと恐れ、自分のいきどおりと失望さえも言います。勿論、自分の罪も告白します。主は私達の事を完全に御存知です。私達は全知の神から何も隠す事が出来ません。

 

【神の愛の確かさ】

その神は私達の味方ですから心を打ち明ける事が出来るのです。父なる神は私達の救いの為に御自分の独り子を十字架の死に至るまでも犠牲にしましたので、その愛が保証されています。更に、全能の神は私達を慰め、そして御自分の助ける力と意志が確実です。

 

御言葉は数え切れない個所に、私達に対する神の愛と憐れみを啓示します。その中の幾つかの個所に聞いて下さい。

「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富、忍耐強く、慈しみとまことに満ちでおられる。」(詩編86篇15)

 

「主は憐れみ深く、正義を行われる。私達の神は情け深い。」詩編116篇5

        

「さて、私達には、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私達の公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私達の弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私達と同様に試練にあわれたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けを頂く為に、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4章14−16)

 

【最高の慰め】

愛する兄弟姉妹、恐らく、私達の最高の慰めはこれです。この世ではどんな事があっても、私達は独りでその事を向かう必要がありません。神はいつも私達と共にいらっしゃるからです。詩編第23編を覚えるでしょう。「死の蔭の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。」(23:4)

 

ですから、私達は苦しい時、悲しい時、困っている時、先ず憐れみと慰めの源、神に心を打ち明かすべきです。信仰をもって、心から主の助けを祈り、その助けを期待します。

 

【慰めの証人】

そして、神から慰めを頂く事はただ私の為ではありません。今日の個所の4節をもう一度聞いて下さい。「神は、あらゆる苦難に際して私達を慰めて下さるので、私達も神から頂くこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰める事が出来ます。」

 

困っている時、心の苦しい時、神の慰めを受けると、私達はその体験の証人になります。そして、その証は苦しみの中の兄弟姉妹に大きな慰めと励ましになります。結局、恵まれた私達はその恵みの証人として、神の慰めを分ち合う事が出来ます。

 

ですから、心の痛みの中の私達は先ず憐れみと慰めの源神に頼ります。そして、同時に私達は兄弟姉妹の証と交わりを通して慰めと力を頂けるのです。

 

LC.モーア先生ご夫妻の交通事故】

今日、私達と共に礼拝に出席して下さる引退宣教師LC.モーア先生ご夫妻は極最近にアメリカの高速道路で大変な事故にあいました。家から何百キロ離れた所ですが、他の車が急に先生の車の直ぐ前に入り込み、奥様が衝突を避ける為、コントロールを失い、車は何回も、何回も、回転しながら、三つの車線を通り、やっと中線に止まりました。車は完全に目茶苦茶になりましたけれども、先生は打ち身位を受けただけで、奥様は何もありませんでした。

 

更に、親しい友人が事故現場からあんまり遠くはない所に住み、すぐに助けに飛んで来て、色んな面でお世話をして下さいました。先生と奥様の証ですが、神様の奇跡的なお守りがなければ、間違えなく二人共、その場で召されたと信じます。また、殆ど傷を負っていない状態で今、日本に戻る事も神の愛と憐れみの徴と信じています。

 

実は、その証を聞いた私は非常に励まされ、慰められました。神様は現在本当に働いておられると新たに悟りました。

 

愛する兄弟姉妹、私達の主は慰めを豊かに下さる神です。そして、主は信者同士を通しても御自分の慰めを授けて下さるのです。ですから、どんな事があっても私達は失望せず、天に召される日までこの世で忠実に主と隣人に仕えながら、神の御名を讃美します。(おわり)

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2011年07月10日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書

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