テントから永遠の家へ ウイリアム・モーア

コリントの信徒への手紙二5章1−10

【避暑地の出来事】
私は韓国で大きくなる間、毎年の事ですが夏になると家族そろって、韓国の南にあるチリ山と言う山で休暇を過ごしました。その高い山の天辺に憩いの場として宣教師達がその所を開拓し、夏の蒸し暑さを逃げて、静かな所で休む事が出来ました。車の道がなかったので、上まで登るのは四、五時間程かかりました。電気や電話やお店なども全くありませんでしたが、特に私達子供はそこで素晴らしい日々を過ごしました。友達と一緒に山歩きとテニスと遊泳でのんびり休みを楽しむ事が出来ました。子供の頃の思い出の中で、その山での思い出は一番心に残っています。実は、今も大人になっても私は山に憧れ、たまに登ります。

【台風でテントは壊された】
山の思い出はとても良いんですが、一つだけとても怖い思い出があります。それは五歳の頃です。その時わたしたち家族には山小屋がまだなかった為、テントを張って夏を過ごしました。それはこの部屋の大きさぐらいの軍用テントでした。朝鮮戦争の残り物で、お父さんが市場で購入したと思います。小さい子供であった私にはその大きなテントで暮らすのは大変面白かったです。しかし、ある夜、台風が来ました。始めは雨が激しく降りましたけれどもテントの中は安心でした。しかし、やがて風が吹き始めました。そして、風は段々強くなると共にその音がひどくなりました。更に、テントがひどく揺れだしました。すると、テントを支えている真ん中の木の柱が曲がって来て、壊れる恐れがありました。お父さんとお母さんが側にいましたので、僕はその時までもあんまり心配しませんでしたが、お父さんが急に、「避難しなくちゃ。早く逃げよう」と叫ぶと、ちょっと不安になりました。そして、五人の家族はその酷い台風の風と雨の中で200メートル離れた友人の小屋へ何とか進んで、やっと無事に着きました。その恐怖は今もよく覚えています。

寝る事も出来なかったけれども、その晩は友人の小屋で過ごし、朝早く台風が過ぎてから、早速家のテントを見に行きました。テントはもちろんその中にある物もメチャクチャになり、被害が少なくありませんでした。避難しなかったら、多分怪我をしたかも知れません。お母さんがぺちゃんこになったテントを見て、お父さんに、「小屋を作ってくれないうちは、この山に戻りません」と言いました。そして、次の夏、その台風の御陰で家の家族は丈夫な山小屋で夏を過ごす事が出来ました。

【テント生活の限界】
今日の聖書の箇所に使徒パウロは私達のこの世での存在をテントに暮らすような存在と比べました。実は、パウロは伝道をしながらテントの職人として食べて行きました。彼は優れたテントを作ったと思いますが、テントの基本的な限界がよく分かりました。今日の朗読、コリントの信徒への手紙二5章1節からもう一度お読み致します。

「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている事を、私達は知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いても、私達は裸のままではおりません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう為に、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」

【この世の歩みはテント生活】
使徒パウロによりますと私達は今、この世では、幕屋即ちテントに暮らしているような存在です。どのようにテントに暮らしているのでしょうか。小さい時の台風の経験を通して、私はテントの事について少し学びました。

【テント生活は不安定で危険】
第一に、テントに住むとは不安定な存在です。天気の良い日なら大丈夫ですけれども、風が強く吹くと、揺れ、倒れてしまう恐れが十分あります。ズックの薄い一枚だけは自分を風と雨から守るのですが、その一枚が倒されたり破れたりしたら、自分は自然の力の猛威にさらされてしまいます。更に、テントは他の危険にもあんまり強くはありません。ドアは布で作られているから、泥棒か野生動物が簡単に入る事が出来ます。いくら言っても、テントの暮らしは不安定です。

私達の人生も同様です。一瞬でこの世での人生が終わる事がしばしばあると言うことに皆さんも承知するでしょう。私は危ない事をあんまりしませんけれども、車に乗る度に大きな危険にさらされています。言うまでもないが、ちょっとしたミスや不注意で大変な結果になります。7年前にロサンジェルスで私と家内とセーラが用事の帰りに事故に合いました。ある男が運転しながら、音楽をかけ、携帯電話をしながら、うっかり赤信号を通って、わたしの車と激しく衝突しました。車はめちゃくちゃになりましたが、奇跡的に怪我は軽かったです。消防署の人によりますと、皆が亡くならなかったのはとても不思議だったそうです。

【地上の住みかである幕屋(テント)は滅びる】
もちろん事故だけではなく、様々な病気も、不幸も私達の命を脅します。そして、どんなに気をつけても、お金をかけても誰でもいつか死に向かわなければなりません。それは我々人間の避けられない状態です。使徒パウロの言葉で言えば、いつか、

「私達の地上の住みかである幕屋が滅び」ます。

この世でのテントのような暮らしは不安定です。

【テント生活は苦痛が多い】
そして、テントの暮らしは不安定だけではなく、あんまり楽でもありません。誰でもキャンプ場でテントを張って一晩だけでもテントの中で過ごしたら、その事がすぐ分かると思います。寝袋を地面に広げて横になります。テントの中は蒸し暑く、そして、蚊が入って来て耳の周りで音がします。しかし、テントの中は真っ暗だから探して叩く事が出来ません。更に、そこで横になっている間、地面が固くて寝つけません。また、お手洗いに行きたいですが、わざわざ起きて暗い便所まで歩くのは面倒だから、朝まで自宅のベッドとエアコンとトイレを考えながら我慢します。いくら言っても、テントの中の暮らしは楽ではありません。

使徒パウロは二節の後半にこのように書きました。「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」そして、更に4節に、「この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいております」と記しました。パウロはテントでの暮らしの不便がよく分かったようですね。恐らく、自分が作ったテントを試そうとして、その中で夜を過ごした事でしょう。

【福音のためにパウロは苦難を喜ぶ】
しかし、もちろんパウロはここで、この世での事について語っています。誰でもこの世にいる間に心配や苦難やストレスや悲しみや逆境などを経験します。実は、立派な信仰を持った使徒パウロさえもその事がよくありました。多分彼は誰よりも苦労したと思います。信仰の故に迫害され、そして伝道の為巡回したパウロは色んな危険な目にあいました。その事について彼は次のように書きました。

「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けた事が五度。鞭で打たれた事が三度、石を投げつけられた事が一度、難船した事が三度。一昼夜(ちゅうや)海上にただよった事もありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟達からの難にあい、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さにこごえ、裸でいた事もありました。この他にもまだあるが、その上に、日々私にせまるやっかいごと、あらゆる教会についての心配事があります」(コリント二11:24−28)

とパウロは記しました。

私は時々この個所を読む時があります。皆さん、パウロのような経験がありましたか。パウロの気持ちが分かりますか。

しかし、その全ての苦難は主イエス・キリストと神の福音の為ですから、パウロは喜んで受けたのですけれども、解放される日を切に待ち望んでいました。そして、私達もその希望を抱いているのです。殆ど全ての人間はこの世で皆パウロのような問題を抱えており、より良いところ、天国の希望を持っていると思います。

【私たちの人生は仮のもので一瞬】
使徒パウロのテントのシンボルに戻りますと、一般的に言えば、テントは仮の住みかになります。つまり、人がずっとテントで暮らすはずがありません。短期間テントにいる生活は我慢出来ますが、いつまでもその暮らしだったら、大変だと思います。

前に言いましたように、人間のこの世での存在は永遠ではありません。テントにいる生活のように、この世での人生は一時的のものです。例外なく、私達一人一人はいつか死を経験しなければなりません。そして、私達の死後の存在は永遠です。その永遠と比べると、ここでの人生はほんの一瞬です。

【この世の人生は何のために】
間違いなく、使徒パウロはこの世での人生を大事にしました。この世で神に支えられ、与えられた使命によって、主と隣人に使える事が出来ました。また、人生の色々な経験を通して成長が出来ます。そして、この世にいる間だけは、イエス・キリストの永遠の救いを受け入れる事が出来るからパウロはこの世での時間を大事に、大事にしました。しかしながら、同時にパウロはこれからの永遠の命に憧れ、楽しみに待っていました。そして、その確かな希望はこの世の人生を歩みながら彼を心強くさせました。何故なら、これからの存在は私達が永久の家になるからです。

「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている事を、私達は知っています。人の手で造られた物ではない天にある永遠の住みかです」

とパウロは書きました。つまり、私達は仮の住まいのテントから永遠の家に移ります。

【永遠の天の住みか】
神が準備して下さったその家で愛する主と共に暮らす事になります。そして、不安定なこの世のテントから、しっかり建てられた天の安全な住まいで暮らします。その家に住めば全ての恐れと危険と病気はもうはや過去のものになり、私達は完全に恵まれた状態です。更に、今のテント生活とは違ってその家はとても安楽です。神は私達の全てのニーズに答えてその家を建てて下さいました。その設備についてあんまり分かりませんが、永遠に楽しく過ごすように丁度適切な物が備えられています。今、その永遠の家を見る事が出来ましたら、誰でもパウロのように、その所へすぐでも移りたいと思います。

愛する兄弟姉妹、私達はどのようにして、その永遠の素晴らしい家に住む事が出来ますか。何もしなくても、ただこの幕屋(テント)が滅んだ時、自動的に入る事が出来ますか。つまり、亡くなったら誰でも天に召されますか。神の御子イエス・キリストによりますと、決してそうではありません。主イエスはこのようにはっきりと宣言されました。

「私は道であり、真理である、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。」(ヨハネによる福音書14章6節)。

【主イエスこそ救いの道】
そうです、私達は主イエスのみを通して救われ、そして、この世から去ると、永遠の住まいの天国に歓迎されています。イエス・キリスト以外に他の方法がないのです。自分が罪人である事を告白し、主イエスの贖いの死は自分の為であると心から信じ、神の助けによってこれから主イエスに従えば、救われます。この道以外には全くないのです。どうか私達は一人も残らずその救いと恵みの道を選びましょう。(おわり)

2006年07月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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