十字架上のお言葉(その1):「赦し」 ウイリアム・モーア

ルカによる福音書23章32--43節 34父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

【ある韓国人兄弟の物語】
韓国の古い伝説ですけれども、ある貴族に二人の息子がいました。そして、その長男はやがて最高裁判所長官になりました。しかし、次男は不良の道を選び、悪名高い強盗になってしまいました。それにも関わらず、お兄さんは弟思いで本当に愛して、何回も彼を変えようとしましたが、弟は聞きませんでした。そして、弟が遂に捕まえられ、裁判長である兄の裁判に連れられてきました。裁判の結果はもう決まってると皆は思いました。何故なら、兄の長官は弟を深く愛していましたので、手段を選ばず彼を釈放してやると皆は思ったのです。しかし、裁判の結果は、兄長官が弟を有罪と判決しました。兄が弟に死刑を宣告した時、皆は驚きで息が止まりました。

やがて死刑を実行する日が来ました。そして、長官であるお兄さんは最後に弟に会いに刑務所へ行きました。面接の時間が終わりかけた時、お兄さんは弟に、「番人が見てないうちに、私の衣服を着て席を交代しよう。そして、私の代わりに帰ってくれ」と言いました。それで弟は兄の工夫に承知して、言われた通りに逃げました。もちろん当局は囚人が実際に裁判長官である事が分ると処刑を止めるはずだと信じていました。

しかし、弟は事実を確かめる為、近くにある丘に上って遠くから死刑台を眺めました。誰かが死刑台へ連れられてきました。信じられない光景ですけれどもその人は自分のお兄さんでした。そして自分の目の前で兄が処刑され、自分が受けるべき罰を受けてしまいました。

自責の念で一杯の弟は走って刑務所の門を叩きながら叫びました。「間違っている、無罪の人の死刑を先程実行しました。私こそはその処刑すべき囚人です。私を処刑して下さい。」そして刑務所長が出て来ると弟は自分の名前を言って、繰返し、「私を処刑して下さい、私を処刑して下さい」と願いました。しかし、刑務所長はこのように言いました。「帰りなさい。そう言う名前を持っている囚人の刑は、もうすでに実行されたので、全ては済みました。速く帰りなさい」と命令しました。

【イエス・キリストの贖い】
私達は受難節に入りました。そして、受難節の際私達は特にイエス・キリストの十字架の贖いの死の意味を新たに考え思案します。皆さんはいまだに罪の意識を引きずっているのですか。その罪の罰はもうすでに実行されました。全ては済みました。十字架のお陰で、先程の伝説の弟のように、私達は罪の故に支払うべき罰が主イエスによってもうすでに支払われました。使徒パウロが述べたように、

「罪と何のかかわりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)

それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を完全に受け入れて下さいました。受難節にその言い尽くせない程の恵みを覚え感謝したいのです。

【十字架上の7つのお言葉】
十字架に掛けられた間に私達の為、主イエスは七つの御言葉をおっしゃいました。その御言葉は十字架の意味について主イエスだからこそできた解き明かしになりますので、教会によって高く評価されて来ました。そして、その七つの御言葉は神が十字架を通してどのようにして私達人間の最も重要なニーズに答えたかを啓示されます。つまり、主イエスの十字架からの御言葉は愛する神がどのような救いを賜ったかはっきりと教えて下さいます。

ですから、今年の受難節に十字架からのイエス・キリストの御言葉を一緒に学びたいと思います。4月の第三の主の日、復活祭まで毎週、その御言葉一つ一つをくわしく学びたいのです。私達がイースターを迎える為の準備として神様はきっと私達の学びを大きく祝福され私達は主イエス・キリストにより近ずけると信じております。

【第一の御言葉:赦し】
さて、十字架からの第一の御言葉は赦しのメセージです。今日の朗読によりますと、主イエスは十字架につけられるとこのように言われました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

十字架の激しい苦しみの中で主イエスは御自分の敵の為に赦しを祈られました。言うまでもなく、拷問にかけられると、とりわけ死に至る拷問の場合、その苦しみを起こす人の為に赦しを祈るのは非常に難しい事です。特に、罪を犯していなかったのに、そう言う酷い待遇を受けると、赦しよりも呪いと憎しみを表す方が当然です。しかし、イエス・キリストは肉体的に、霊的に一番難しい時、自分を忘れ、心から敵に赦しの言葉の述べました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」

と祈られました。


【ローマ兵】
主イエスはこの驚くべき赦しの言葉を発せられた時、誰の事を考えていたのでしょうか。十字架の周りには色んなグループがいました。距離的に最も近い人々は死刑実行人でしょう。彼らはローマ兵として、死刑囚を釘で十字架につける恐ろしい本分がありました。また、囚人の死を確かめる義務もあったので、最後まで十字架の現場で待ちました。彼らは無罪である神の御子イエス・キリストの刑を実行しましたけれども、それはローマ帝国の総督ピラトの命令でした。もしその命令に逆らったら大変な事になります。そうだからではなく、彼らは自ら喜んで主イエスの死刑に参加し、今日の御言葉によりますと主を侮辱して、

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」

と嘲りました。ですから、

「父よ、彼らをお赦しください」

と祈られたイエスは、まずそのローマ兵を考えた事でしょう。

【ユダヤ教の指導者達】
また、ユダヤ教の指導者達がイエスの死に大きな責任があったのです。イエスは神の真理を語りましたので、彼らは主を憎んで誰よりもその十字架の死を起こしました。彼らはイエスの裏切り者にお金を払い、主の裁判で偽証しました。更に、ローマの当局に圧力を掛け、主イエスの死を要求しました。間違いなく、主イエスは、

「父よ、彼らをお赦しください」と祈った時、ユダヤ教の指導者を思いました。

【ローマ総督ピラト】
ローマ総督ピラトもイエスの赦しが必要でありました。イエスは無罪であると判断したのに、彼は告発者に負けて、死刑を宣告してしまいました。人の機嫌を取る為、不正な判決を言い渡しました。

【ユダヤの群集】
主の裁判を見た群集にも責任がありました。聖書によりますと彼らは、

「イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。」(ルカ23:23)

彼らは殺人者バラバの釈放を選択し、イエスについて

「十字架につけろ、十字架につけろ」

と叫びました。確かに主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください」と祈った時、群集を思った事でしょう。

【主の弟子達】
死刑を実行した兵とユダヤ教の指導者達と総督ピラトと血に飢えた群集、つまり主イエスの敵は赦しが必要でありました。しかし、主の赦しのお祈りはただ彼らの為だけではありませんでした。主との一番近い者、御自分の弟子達も罪を犯してしまいました。ユダヤはイエスを裏切り、ペトロは主を知らないと三度も言って、そしてイエスが逮捕されると、その残りの者も逃げてしまいました。つまり、彼らはイエスを主と呼んでも、危険な時が来ると「主」をすぐ見捨てました。ですからイエスは

「父よ、彼らをお赦しください」

と祈った時、御自分の弟子達も考えたでしょう。


【全ての人びと】
実に数多くの人々はイエス・キリストの死に責任がありました。しかしながら、彼らはただ全人類の代表であったのです。聖書によりますと我々人間全体に「世の罪を取り除く」主イエスの死の責任があります。私達一人一人は自己中心になり、神の愛と神の支配に逆らい、主に対しても隣人に対しても罪を犯してしまいます。もし当時の者だったら、私達も主の死を求めた群衆に加っていたに違いありません。罪人として私達皆は重い責任があります。

【父よ、彼らをお赦しください】
しかし、そんな私達に対して十字架から素晴らしい御言葉があります。深い苦しみの中にいても主イエスは私達の為に祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

そして、不思議にイエスの十字架の贖いの死を通して父なる神はその赦しのお祈りを叶えて下さいました。罪の全くないイエス・キリストは私と、あなたと、そして、全人類の罪の罰を御自分の身にお受けになり、その罪を完全につぐなって下さいました。ですから、私達は清い者として神の御前に立つ事が出来、主の永遠の救いと豊な恵みを受けられます。ヨハネの第一の手紙(1章9)に記されているように、

「もし、私達が自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、全ての不義から私達を清めて下さる。」

赦し。それはイエス・キリストの賜物です。そして、その赦しは全てを新にさせて下さいます。つまり、希望のない私達は大きな、大きな確かな希望を得て、毎日を神の愛された子供として生きる事が出来ます。

そして、私達は神によって赦されているから、私達は人間同士を赦すべきです。私達は主の祈りでこのように祈ります。

「我等に罪を犯す者を我等が許すごとく、我等の罪をも許したまえ。」

【カールと妻エミリー】
1950年代の事ですけれども、カール・テーラーと奥さんエミリーはアメリカの田舎町に住んでいました。カールは公務員で米軍の倉庫関係の仕事に携わっていましたので出張が多かったのです。二人は仲良く暮していました。丁度結婚して23年目の時ですが、カールは数カ月間の出張で沖縄へ派遣されました。出張の時、カールはいつも毎日エミリーに手紙を欠かさず送って来ました。しかし、今回は一ヶ月経っても、二ヶ月経っても手紙がなかなか来ませんでした。そして、ある日突然、こんな内容の手紙が来ました。「エミリーへ。大変言い難い事ですが、私はあなたと離婚しました。」彼は郵便でメキシコで離婚を得て、沖縄で19歳の愛子と言う娘と結婚しました。48歳になったエミリーはもちろん大変なショックを受けたけれども、彼女は何とかして続けてカールの愛を信じたのです。そして、離婚してもエミリーはカールに縁を切らないでと頼んで、彼らはたまに手紙を交換しました。やがて、カールと愛子の間に、ヘレンとマリーと言う二人の娘が生まれました。そして、エミリーはその子供にプレゼントを送りました。そして、数年経ってカールからこのような手紙が来ました。「私は病気になって、あんまり時間が残っていないと告知されました。治療の為に貯めたお金を全部使ってしまい、愛子と子供の将来は心配です。この三人を助けて下さい」とカールが書きました。難しいことですけれどもエミリーはその最後の願いを叶えて、小さいヘレンとマリーをアメリカへ呼び、二人の子供を育てました。その姉妹は新しい国と新しい生活にすぐ馴染んで、エミリーは喜んでカールの子供の世話をしました。しかし、今度は愛子からの悲しい手紙が来ました。と言うのは、ヘレンとマリーがいなくなると、大変寂しいと。ですからエミリーはカールの為にもう一つの事をしなければならないと悟りました。愛子も呼ぶ必要がありました。

1957年に愛子もアメリカに来ました。彼女の飛行機が着陸した時、エミリーはこのように思いました。「もし私から主人を奪ったこの人を憎むなら、どうすれば善いのでしょうか。」愛子は最後に飛行機から出て来ましたけれども、そのまま立って降りて来ませんでした。エミリーは彼女の気持ちが分って、愛子の名前を呼びました。そうすると彼女は走って降りて来て、二人は抱き合いました。その瞬間エミリーは祈りを捧げました。「神様、私を助けて下さい。カールを愛したようにこの人を愛する事が出来ますように。カールの帰りを長い間祈り待っていました。そして今、彼の二人の娘と彼が愛したこの女の人を通しカールはやっと帰って来ました。どうか彼女を許し愛する事が出来るように助けて下さい」と祈りました。

神はエミリーの許しの祈願を叶えて、家族のように四人で暮しました。そして、後で彼女はこのような証を立てました。「愛する主人の命は私から取られましたが、神はその代わりに愛する三人を私に送って下さいました。私は神様から大きな祝福を受けました。」

どうか、私達は神の大きな赦しを受けると同時に周りの者を心から許せるようにと祈りましょう。(おわり)

2006年03月12日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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