神のお答え ウイリアム・モーア(受難節1)

コリントの信徒への手紙一1章22-25

【受難節】
先週の水曜日から私達は受難節に入りました。受難節は復活祭、すなわちイースターの前の40日の間です。その40日間はイエス・キリストが公の働きを始めた直前、断食と祈りをする為に荒れ野で過ごされた40日間に相当します。特に、受難節に、私達は主イエスが私達の為に負われた苦しみと十字架の死に集中します。

そして、その主の犠牲は私達の罪の贖いになりましたので、受難節は私達一人一人の悔い改めの機会になります。自分自身の生き方と信仰生活を吟味し、神の助けによって足りない所を治す時期にもなります。

私達がこの受難節を守って過ごすとき、主イエスの復活の意味と喜びがより深く分かって来て、心から祝う事が出来ます。

実は、受難節と言う伝統は聖書には載っておりません。しかし、初代教会が今から約1800年前、イースターの準備の為に受難節を守り初めました。教会の大事な伝統になり、世界中ほとんど全てのキリスト教会が受難節を重んじて来ました。私達は大きな世界教会の一つの群れですが、私達も心から受難節を覚える事によって、大きな恵みになると信じております。主イエス・キリストの十字架の死は本当に私自身の救いの為であると新たに悟らされます。すなわち、受難の出来事を通して、愛する神は私と全人類の最も重要なニーズを叶えて下さいました。また、その贖いの死は、人生についての私達の大きな質問に答えてくださいます。

【コリントの信徒への手紙一1章22ー25】
今日、与えられた御言葉に使徒パウロはイエス・キリストの贖いの死についてこのように書きました。 

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシヤ人は知恵を探しますが、私達は、十字架につけられたキリストを伸べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを伸べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙一1章22ー25)

一般的に言えば、人は人生において大きな質問に向かう時、その答えを何処に探すのでしょうか。使徒パウロの時代、

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシヤ人は知恵を探しました。」 紙一1章22-25

【ユダヤ人にしるしを】
実は、主イエスはこの世を歩んだ時、ユダヤ人の為にしるしを公に行いました。

奇跡的に水を葡萄酒に変え、僅かな食べ物で5千人の群集を食べさせました。更に目の見えない者の目を開きました。足の不自由な人を癒され、死んだ者も蘇らせました。そのしるしによってイエスは神の独り子としての権威をはっきりと現しました。しかし、当時のユダヤ人は他のしるしを好んで求めました。もし主イエスが敵であるローマ帝国と戦って奇跡的にイスラエルの自由を回復させたら、皆が彼に従った事でしょう。もし国王としてイエスが力でイスラエルの敵を征服し、国民を物質的に豊にさせたら、全ての国民は喜んで主を救い主として認めた事でしょう。

【イエス・キリストの十字架は躓きに】
しかし、力は十分であったにもかかわらず、イエス・キリストはその希望を拒否して十字架への道を選びました。そして、当時の多く人々には、決して力と勝利と成功の道とは思えませんでした。却って、彼等には十字架は弱さと敗北と失敗のしるしになったのです。軍事的で政治的な救い主は喜んで受け入れますが、十字架の苦しみを経験する霊的な救い主はいらないと思いました。彼等は自分の長所と義に頼って霊的な救い主を求めませんでした。ですから、イエス・キリストの十字架は躓きになってしまいました。結局、ユダヤ人は繁栄と軍事的なしるしを求めましたが、しかし、十字架のような霊的なしるしは気に入りませんでした。

【ギリシア人は知恵を】

「ギリシア人は知恵を探します」

とパウロは更に書きました。ギリシア人は当時のインテリでした。世界中ギリシアの知識人は高く評価されました。ギリシアはソクラテスとプラトンとアリストテレスのような哲学者を生み、現在も彼等の影響が残っています。ソクラテスによりますと、人間の最も深いニーズは教育にあると答えます。教育を受けると人々は理屈の分る者になります。ですから、全ての人に優れた教育を与えると人間は段々良くなって、問題などは少なくなると説きました。使徒パウロは伝道の為、ギリシアの首都アテネへ行って哲学者の前で証を立てました。初め、彼等は喜んでパウロの新しいお話を聞いてくれました。しかし、パウロは宇宙の創造主と全能の神が乙女によって人間としてこの世に生まれ、十字架で死なれ、そして復活された事について語ると、それは愚かな事だと判断して、信じられませんでした。なぜなら、それは彼等には不合理なことでした。人間の理屈によりますと、乙女に赤ちゃんは生めないし、神は人間になりません。その上、全能の神は御自分の独り子の十字架の死を許すはずがありません。そして、更に復活は不可能な事です。死んだ者は蘇りません。それは人間の経験に外れた不論理的な事と思って躓きました。

【今の時代も】
これはイエス・キリストの福音に対する大昔の人々の反応ですけれども、今の時代の人はどうでしょうか。私達も「しるし」と「知恵」を求めると思います。多くの人は神を信じる前に確証を要求します。しかし、彼等にはどう言うしるしが確証になるのでしょうか。彼等は神御自身が目の前に現れても信じないと思います。それはただ幻想に違いないと思ってしまう事でしょう。

現在の人々も知恵を探します。そして、この世の知恵は全ての問題を解決出来ると仮定する傾向が強いのです。例えば、知恵を通して経済が発展すると貧困と殆どの犯罪が無くなると思う者が多いです。また、医療の進歩は人類の救いになると信じる人が大勢います。もし人間の知恵で肉体的と精神的な病気が征服されるなら、この世はまるでパラダイスのようになると思い込みます。

【人間の知恵は解決になるか】
人間の知恵によって全ての問題が解決出来る、すべての質問に答えられると信じたい気持ちがよく分りますが、実際にそう言う希望は幻想です。そう言う希望が本当であるならば、人間はもう少し進歩したはずだと思います。我々はまだ戦争で人を殺す事によって国と国の間の問題を解決しようとします。そして、刑務所に収容する人口は段々多くなります。また、この世は発達して21世紀になったと言っていますが、それと比例して貧困はまだまだ大きな問題であります。飢え死にする事は珍しくはありません。更に、治療が良くなったと言っても、病気で悩んでいる者が増えて行くばかりのような気がします。そして、まだ発生していない新しい病気の心配が私達をおそいかかります。

【人生において最も大事な質問】
「私はどのようにして幸福になりますか」、「どうすれば私は心の平安を得られますか」、「どのようにして現在の生き甲斐と将来の希望とを持つ事が出来ますかか」、「死んでも人によって忘れられないように私はどうすればよいでしうか」などと私達はこのような質問を問い掛けているのです。このような質問は大事ですけれども、人生において最も大事な質問ではありません。恐らく私達人間は人生の最も重要な質問を見落としているのです。何故なら、私達を問い掛ける質問は人間の知恵と力に焦点があるからです。「どうすれば私は」、「私はどのようにして」のような質問です。最も大事な質問はこのようです。「神はどのようにして私に御自分の愛を示されましたか。」「神はどのようにして私の罪を贖って救って下さいましたか。」「神は確かな希望と人生の本当の目的をどのようにして私と全人類に授けられましたか。」

人間中心の質問よりも、そのような神中心の質問は最も重要であるし、私達を一番大事な真理に導きます。

【神のお答え:十字架につけられたキリスト】
そして、その質問の答えは何でしょうか。それは使徒パウロが書いたように、「十字架につけられたキリスト」です。イエス・キリストの十字架の死を通して神は私に御自分の愛を示されました。イエス・キリストの十字架の死を通して神は私の罪を贖い救って下さいました。イエス・キリストの十字架の死により神は確かな希望と人生の本当の目的を私と全人類に授けられました。

使徒パウロはその真理をこのように伝えました。

「私達は、十字架につけられたキリストを伸べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを伸べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙一1:23ー25)

【神の力と知恵:キリストの十字架】
「十字架につけられたキリスト。」全能の神が罪人の為に御自分の尊い独り子を犠牲する事は愚かに見えますが、実際にそれは人知を超える知恵です。十字架で神は私達の代わりに罪の全くない御子イエス・キリストを罰しました。その贖い死によって神は御自分の正義を保つと同時に私達の全ての罪を赦して下さいました。「十字架につけられたキリスト。」それは神の力と神の知恵です。この歴史の中の最も重要な出来事を通して、神は私達を罪の力から解放し、私達と御自分との関係を回復し、そして私達の為に永遠の命の戸を開いて下さいました。受難節に、人生の最も大きな質問の答え、「十字架につけられたキリスト」を新に覚える機会が与えられています。更に、受難節が終わると、私達はイースターを迎え、復活の栄光と喜びをもう一度経験出来ます。そして、その復活は「十字架につけられたキリスト」こそが、私達への神のお答えである事を保証します。どうか私達の受難節の旅の上に神の祝福が私達の群れに豊にありますようにお祈りします。(おわり)

2006年03月05日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

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