2013.6.30.説教「神の言葉に生きる」袴田康裕牧師(神戸改革派神学校教授)


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20136.30.説教「神の言葉に生きる」袴田康裕牧師(神戸改革派神学校教授)

新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一

213 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。

 

(説教要約 文責近藤)

 

【使徒パウロの感謝】

今朝はテサロニケの信徒への手紙一213 節の1節の御言葉に聴きますが、テサロニケの信徒への手紙一は神様への感謝の思いが基調になっています。

 

例えばテサロニケの信徒への手紙一12節から3節で使徒パウロはテサロニケの信徒のことを思い起こして神に感謝を捧げています*。

 

*テサロニケの信徒への手紙一1

2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

パウロはテサロニケの信徒たちが彼の福音宣教により、信仰をもって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを覚えて神に感謝します。また、

 

テサロニケ人へ信徒への第一の手紙16~7節でも、

6 そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、7 こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。

と語りテサロニケの信徒たちが苦しみの中で歓びをもって信仰を受け入れてパウロに倣う者となったことをパウロは神に感謝します。

 

更にパウロは感謝します、

テサロニケ人への第一の手紙19 わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、10 そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである」。

ここではテサロニケの信徒たちが偶像礼拝から離れて、主が再び天から来られることを待ち望みながら多くの信者の模範となったことをパウロは神に感謝を捧げています。

 

更にテサロニケの信徒への手紙一2章でもパウロはテサロニケ宣教を振り返って感謝しています。12節まではパウロの自己弁明ですがここでも神に感謝しています。パウロの敵が彼の宣教はカネ儲けが目的であると言う中傷を広めました。しかしこの中でもテサロニケの信徒たちは本心からパウロを助けてくれたこと、そしてパウロを信頼してくれたことを確信して感謝しました。

 

結局、パウロは彼らの何に感謝したかったと言うと、パウロから聞いた言葉を正しく受け入れ、そしてこれを神の言葉として聞いてくれたことです。

 

テサロニケ人への第一の手紙2章13節に

13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

と話ますがパウロの感謝の中心は彼らが、単にパウロに親切であったとかパウロを愛して心配してくれたからと言うような人間的な思いでなく、パウロの言葉を人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れてくれたことにパウロは神に感謝するのです。

 

【パウロの確信】

パウロの確信は神の言葉を語っているという事でしたが、どうしてその確信をパウロは得たのでしょうか。

 

コリントの信徒への手紙一の210節から12節分をお読みいたします。

コリントの信徒への手紙一2章「10 わたしたちには、神が"霊"によってそのことを明らかに示してくださいました。"霊"は一切のことを、神の深みさえも究めます。11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」。

パウロは神の霊を受けました。それにより神からの隠された知恵を知り、またその深みを知ることが出来ました。それは神の選びにより、使徒として神の真理を伝える器としてパウロたちを選ばれたからです。

 

【歴史の中で語りかける神】

生ける真の神は語りかける神です。これが聖書全体の啓示するところです。語ることで御自身の御心を明らかにされる神。その語り方は歴史の中で様々な形を取りました。

 

ヘブライ人への手紙1章「1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。

 

旧約モーセの時代、神はご自身の臨在を雲の柱、火の柱の中で顕されモーセに語られました。しかしその後十戒を与えられて神の言葉は文書化されました。その後予言者たちを通して語られましたが、ヘブライ人への手紙が語るように、終りの時代には御子イエスにより決定的神のメッセージが語られました。

 

旧約時代に語られた神の言葉は将来のメシアを予言し、主イエスの実際の来臨により預言は実現した。主イエスは十字架と復活の後、天に昇られました。イエス・キリストは神の語りかけの頂点でありました。

 

【新約聖書の完成】

その後を担ったのは使徒たちです。使徒の時代には神の言葉は使徒たちを通して語られたが、使徒たちも人間です。御言葉を間違うことのないように聖霊を与えられて使徒を正しく導かれ、使徒の証言、それが文書化され新約聖書として完結されました。

 

神の語りかけの頂点だったイエス・キリストの出来事は時代を超えて誤りなく伝えられるために神様はそのお言葉を文書化されました。今日、神のお言葉は聖書以外にありません。

 

【説教を通して語られる神】

近日では聖書の解き明かしは説教を通してなされ、そこで神は語られるのです。

本来神は語られる神であります。私たちは聴くのです。私たちは聖書を持って読みますが本来そうではありません。かっての時代、聖書は誰も持っていません。神の民は教会で神の言葉に聞きました。神の民とは神の言葉を聞き続けるものです。

 

【読むことと聴くことの違い】

読むことと聴くことの違いがございます。礼拝に於いて神の言葉を聴く、これが何よりも大切です。説教だけでなく聖書朗読も耳を傾けて聞いて頂きたい。ひとりで聖書を読む時も声を出して聴きながら読むことが大切です。

 

【キリストの言葉を聞くことによって始まる信仰】

使徒パウロはローマの信徒への手紙10章で17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と語りました。聴くことは読むよりも心を使います。神の民は心を開いて神の言葉を聞き、信仰の道を歩み続けるのです。

 

【神の言葉の聴き方】

パウロは神の言葉の聴き方を語ります。

テサロニケの信徒たちはパウロが語った言葉を人の言葉なく神の言葉として受け入れたのです。彼に出来たのはそこまでです。

 

問題は聞いた人の対応です。人の言葉としてではなく、すなはち人が心の中で作り出した思想、人の心に源のある言葉、これは人の作り出した言葉です。パウロの言葉を単なる人の言葉として聞くなら世の中の言葉と同じようになります。それは自分に益がないと思えば聞き流してしまいます。

 

【アテネの人たち】

パウロの言葉を人の言葉として聴いた典型的例が使徒言行録に記されています。

使徒言行録17章でパウロがアテネの会堂でユダヤ人と論じ、また広場では居合わせたギリシャの人々と論じ合いました。その中にはギリシャの哲学者もいたと記されています。彼らは新しいことに関心があったのです。彼らの中でパウロは説教しました。その内容は、全能の神による世界と人の創造と神の歴史支配、また人の罪と罪に対する神の裁きを語り、更には主イエスの十字架と復活について語りましたが、アテネの人たちは死者の復活について聞いたときパウロに聞くことを止めました。死者の復活なんてないとあざ笑ったのです。

 

死者の復活は彼らの理性的判断では馬鹿げたことだったのです。その話に価値があるかないかの価値判断をするのは人間でした。彼らは全ての話を人間起源として聞き、自分がその中心に居る、全てを自分に仕えさせようとするのです。自分が真理に仕えるものではありませんでした。

 

【ポストモダン】

現代人もアテネの人たちとあまり変わらない対応をいたします。自分の外にある客観的な神の言葉と言う真理が存在しない。すべては人の主観で決定されるという思いがあります。

 

何年か前です。南アフリカの神学者が来られて講演されましたが、今日の思想状況はポストモダンと言われて、すべてを相対化する。真理は主観的であって客観的真理はなく、聖書解釈にもそのことを当てはめ聖書の意味は読者が主観的に決める、そのような傾向が神学の世界でもあると語られました。

 

【人の言葉としてでなく神の言葉として聴く】

しかしテサロニケの人々はパウロの語る言葉を人の言葉としてでなく、すなはち主観的に神の言葉として受け入れるのでなく、テサロニケの人々はパウロの語る言葉を客観的な神の語りかけとして聴いたのです。彼らの外にある客観的な神の言葉を神の真理として、神の語りかけとして聴いてくれた、その事をパウロは感謝しています。

 

【宗教改革者たちの主張】

受け入れる、神の言葉として受け入れる、受容することが大切です。受容するとは、語られた言葉をそのままに歓迎するとも訳されます。テサロニケの人々はパウロの語る言葉をそのまま心に神が語られる言葉として受け入れました。神は語られるお方であります。救済の歴史の中で神は様々な形で語られたことをこれまで話しました。今日すべては文書化され、その完結された時代の生ける神の語りかけの方法は何か?宗教改革者たちは教会での神の言葉の説教こそが神の言葉であると主張しました。

 

改革派教会が作成した代表的信条と言われる第二スイス信仰告白では「神の言葉の説教こそが神の言葉であり、従って今日正しい召しを受けた説教者によって告知される時、神の言葉が告知され、信仰者に受入れられることを信じる」と言われます。改革者たちが強調したのは、神様は使徒たちを通してだけでなく、今もご自身が定められた手段を通して御言葉を語られる。その手段こそ聖書が礼拝に於いて解き明かされるということです。説教こそが神の語りかけの手段であると語ります。神の救済の歴史の中で今という時、教会の礼拝の中の説教でこそ神の言葉は解き明かされるべきです。正しい説教者の説教こそが神の言葉であり信仰者に受け入れられることを信じると第2スイス信仰告白では語っております。聞く者は神の語られた真理として聴くか、アテネの人々のように人間の言葉としてきくか。

 

【御言葉は魂を救う】

ヤコブは言います。

ヤコブの手紙 121 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」。

 

【今も生きて働く御言葉の効力】

最後にパウロは御言葉の効力について、テサロニケの信徒への手紙一213 節後半「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」と言ってもおります。

 

単に聞くだけでなく神の言葉として受け入れるときに私たちを御言葉は救うのです。

神の言葉は生きて働くのです。礼拝で説教者はあくまで忠実に神の言葉を解明かさなければならないという事です。人の作り話をしてはならないのであります。

 

【聴く者に求められること】

その時に神の言葉は生きていると語ります。神の言葉は信仰者の中に生きて働くという信仰を持って聴く必要があります。聴衆者に求められるのはパウロの言うように、人の言葉としてか、神の言葉として受け入れるか、もちろん神の言葉として受け入れることです。聴き方の違いがその人の将来を決する違いとなります。

 

【その使命を果たす御言葉】

旧約聖書イザヤ書55章に10雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」とあります。また、

 

ヘブライ人への手紙 412 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」

 

【御霊の内的照明によって】

ウェストミンスター信仰告白16節で「人間の心は、霊的に真っ暗で、聖書の教えを自分の救いに結びつけて霊的に理解することができません。聖書の教えを自分の救いに結びつけて霊的に理解するためには御霊の内的照明が必要です*」ということを言っておりますが、罪びとである私たちに聖書の教えを自分の救いに結びつけて霊的に理解するには聖霊がわたしたちの心を霊的に明るく照らしてくださって、聖書の教えを自分の救いの教えとして理解できるように助けてくださる御霊の働きが必要です。

 

*御霊の内的照明の必要性(ウェストミンスター信仰告白16節)

生まれながらの罪人であるわたしたち人間の心は、霊的に真っ暗で、聖書の教えを自分の救いに結びつけて霊的に理解することができません。そこで、聖霊がわたしたちの心を霊的に明るく照らしてくださって、聖書の教えを自分の救いの教えとして理解できるように助けてくださる御霊の働きが必要です。この御霊の働きを、御霊の内的照明と言います。内的啓明とも言います。

 

【信仰を持って聴く】

神の言葉を聞く姿勢とは神の御前に謙(へりくだ)って自らを整えること、すなはち信仰を持って聴くことです。謙るとは神の御前に礼拝し祈ることです。これが信仰を持って神の言葉を聞くということです。その時、神の言葉は力があります。これが聖書の約束です。主の約束は確かです。神が語られた御言葉は空しくしに地に落ちることなく救いの約束を果たします。私たち神の民にとって大切な事、それは神の言葉を聞き続けること、そこに神の祝福があります。祝福された歩みをするところ、それが教会であります。(おわり)

2013年07月02日

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