2013年7月14日「信なき我を助けたまえ」西堀元(はじめ)神学生

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2013714日「信なき我を助けたまえ」西堀元(はじめ)神学生

 

聖書:マルコによる福音書914-29

14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。

27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。

28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

【光を求める草木】

今朝も御言葉に共に聞いてまいりたいと願います。西谷では草木を沢山見かけます。わたしはほとんど草木の名前が分からないことを残念に思います。沢山の種類の草木があるわけですが、どれも一つの共通点があるのだと思います。それはどの草木も光を求めるということです。木は光に向かって枝を伸ばします。木が光を受けようとするのは、木として当然のことだからです。もしも光がないのなら木は枯れていってしまいます。

 

【人にとっての光】

 そこで考えたいのは人間にとってこの木の光に当たるものが何であるかということです。それが今日ともに考えていきたいことなのです。それは祈ることです。祈りが人にとって生命的に重要だからです。木にとって光がなければ枯れてしまうように、人は祈ることがないのなら死んでしまいます。あるキリスト者が次のようなお話をしています。

 

 「ある無神論者がいました。その人は大学で助手として仕事を手伝っていた男の人です。その人はキリスト者の大学の先生の手伝いをしていました。無神論者の人は年配の人であったようですが、よくこう言っていたそうです『先生の信仰というものは、結局は苦しいときの神頼みにしか過ぎませんね』というふうにあざ笑うわけではないけれども、信仰についてある距離を置いていました。そして無神論者のお子さんが病気になったときに困っていました。そこでそのキリスト者はよい病院を紹介してあげましたが、いよいよ手術をすることになりました。本当にそのお医者さん以外には、実際にそのお子さんの病気を治す人はないのです。

 

 ですから極端なことを言えば、お子さんが手術室に入られた以上は、あとは無神論者の人も先生も何もすることができないので、相撲の放送を見ていてもよいし、どこかにコーヒーを飲みに行ってもよいわけです。しかしその方は、ジーット手術室の前に座り、ジーットこう手をお祈りするときのように結んで、そしていいます『先生、わたしはこんなふうに祈るということをしたことがないのです。けれども、本当にわたしの命で代わることができるのなら、代わって子どもを助けたい、そう言って祈ってもいいのでしょうか』と。先生は肩をたたいて「わたしもお祈りします。それでよろしいのですよ」と言って時間がなかったために場所を後にしました。そして寒い廊下を歩くとき振り返ると、その人はジーット祈る姿をし続けていました」。

 

 【祈りは人の本分】

木々が光を求めるように、人にとって祈りは本質的なものです。なぜなら人の力には限界があり決して届かないところがあるからです。普段、何事もないときは自信に満ちて生きてはいても、本当の私たちはとても弱い存在です。私たちには出来ることはとても限られています。私たちは神様の御手に信頼して祈るのです。御手に委ねることを知っていることは人間であることの証の一つです。

 

【悪霊に取りつかれた息子の父】

 さて、今朝の箇所ではある父親が息子の命のために助けを求めてやってきますが、助けが得られないことから始まります。幼いときから悪霊に取りつかれて、生命の危機にある子どもが弟子たちの所に連れられてくるのです。マタイとルカによる福音書の平行箇所によりますと、この息子は一人息子であって、てんかんを煩っていたことがわかります。

 

 作家の大江健三郎さんは、脳に障害をもつ息子さんと共に歩んでこられました。ある講演でこう言われます。「障害のある子どもには、毎年のように新しい困難が出てくるものです。それを乗り越えていく喜びもありますけれども。ですから、あれだけ困難があってしかも彼は生き延びてきたということを私どもは喜んでいる」お子さんには、てんかんの発作があります。それに対してお子さんは自分のことをこう書いています。「発作が起こりました。僕は唸っていました。僕はもうだめだ。二十年も生きちゃ困る」と。この言葉は憂鬱にさせたと自分たちの生活の苦しさと苦労を隠さずに率直に述べておられます。

 

【苦しむ子どもを前にして議論】

大きな病気によって苦しむ子どもと共に歩むことはどれほど困難なことでしょうか。そして周りの無理解や無関心にどれほど心くじかれることだろうかと思います。苦しむ子どもを前にして、イエス様の周りには、群衆と律法学者そして弟子たちがいました。彼らは議論していたとあります。苦しむ子どもを前にして議論しかできないのです。弟子たちは無力でした。その議論とは、弟子たちがどうしてこの子供を癒すことができないのかということについてです。苦しんでいる親子を蚊帳の外にして、群衆たちは誰の責任かと議論しています。

 

ここでの群衆は野次馬であって、自分たちの興味関心に流されています。群衆は無責任なのです。また律法学者もいました。彼らも苦しむ親子を前にして議論をしているのです。これは今なすべきことではありません。必要なことをはき違えていると言うことができるでしょう。そこにはさらに弟子たちがいました。しかし弟子たちは無力です。苦しむ子どもと助けを求める父親を前にして何もできないのです。イエス様の名前によって生きているはずの弟子たちが無力なのです。律法学者たちは弟子たちを馬鹿にして、さらにイエス様をけなしていたに違いありません。

 

そしてこの状況はただこのときのイエス様の弟子たちだけのことではないのです。私たちの時代も暗闇に包まれています。そして私たちの所に、教会に来れば何とかなると思って、連れられてくる、また自分からいらっしゃる方もいるのです。それでもその困難な問題を前にして私たちはたたずんでしまう。そしてその方たちを失望と悲しみの中に取り残してしまうことが人ごとのようには思われないのです。これはイエス様のお名前を損なうことになるのだと思います。このときの弟子たちと律法学者や群衆とを分ける違いは何であったはずでしょうか。それは、つまり弟子たちは助けはどこから来るかを知っているという一点です。人は誰もこの苦しむ親子を助ける力は持ち合わせてはいません。ただ弟子たちだけは頼るべきお方を知っているはずなのです。しかし残念なことにこのときの弟子たちはいちばん大切な頼るべきお方のことを忘れていました。神様を信頼することをどこかに置いてきてしまったのです。

 

 今朝の主人公の親子は、誰も助けることの出来ない困窮の中にありました。これまで誰も癒すことが出来なかったのです。これまでに父親は息子をさまざまな医者のところへ連れて回ったことでしょう。そして最期には評判のイエス様の弟子のところに連れていったのです。それでも駄目でした。万事休すという所ですが、まだ連れて行っていないお方がお一人だけいたのです。それはイエス様の御前です。

 

 【おできになるなら】

父親はイエス様の所に息子を連れてきました。子どもは引きつけを起して緊急事態が発生しています。それでも父親のお願いの仕方は、疑いながらです。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」。しかしその救助の求めにはある限定が含まれています。直訳すると「もしあなたが、何か、おできになるなら」というのです。ここにあるイエス様への期待は、ある種のためらいが含まれています。期待しつつも、全幅の信頼を寄せてはいません。なぜならこの父親はこれまで、期待をしては、期待が裏切り続けられてきたからです。ですからこの父親はある留保を保ちつつイエス様にお願いをするのです。きっとまた駄目じゃないだろうか、期待もそこそこにしておこうと思っていたことでしょう。

 

 その父親にイエス様は問い返されます。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」、イエス様の痛烈な問い返しです。「「できれば」というか」、とは「あなたはわたしを信じているのか」と言う、野球でいえばまっすぐなピッチャー返しのような質問です。イエス様は問いをまっすぐに父親へ投げ返されます。ぎくりとする質問をイエス様は父親に向かって問い返されます。あなたはわたしだけを信じるのか。あなたはわたしだけにしか救いはないと信じるのかと。

 

 【救われるべき名はキリストの他にない】

日本人の一般的な信仰はよく山登りにたとえられます。「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月をこそみれ」。これを信仰に置き換えてどのような信仰でも結構であって、何でもよいから信じてさえいれば山の頂上に到達できると言うわけです。

 

 しかしキリスト教はあくまでこれとは正反対のことを主張してきましたし、主張するのです。キリストのお名前だけが私たちを救うことが出来るのです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)

 

 十字架と復活のキリストこそ私たちを救うただ一つの御名です。このわたしの罪のために十字架について下さったお方です。ですからイエス様は父親に対して、キリストにしか救いはないことを信じるのかと問われるのです。この父親や私たちが求めるさまざまな救いは山登りのようにいくつかの方法があります。その方法の中には自分で自分を何とかしたいと思う、自力救済があります。ここでイエス様は自分がほんとうに無力であることを認めなさい。私のほかには救いはない、強がりを捨てて武装解除しなさいと招かれるのです。自分の弱さを認めること、無力であることを認めることは人にとって困難なことです。自分で自分のことは何とかしたい。ここからは先はどうしても触れて欲しくない所があるからです。しかし使徒パウロは言います。「わたしは弱いときにこそ強い」と。私たちの周りにある困窮は、私たちが無力であることに徹し切れていないことに原因があるのであって、キリストは私たちに自分を明け渡すことを求めておられます。

 

キリストの前に出て弱さを告白することを拒むことは私たちの罪のあらわれの一つです。『「できれば」と言うか』。キリストの他に救いの道はないことを認めなさいとイエス様は愛を持って痛烈に心の奥底にまで響く声で問い返して下さったのです。これはイエス様の愛から出たまっすぐな言葉です。この親子が滅んで欲しくはないからです。突き刺すような言葉が、この父親の目を覚まさせるために必要だったのです。

 

そして同時にイエス様はこの父親に問いかけたのでした。「信じる者には何でもできる」。これはとても重たい言葉です。わたしはいくらかは信仰を持って生きているはずだという土台が崩される言葉です。木っ端みじんに父親の土台を崩す言葉です。なぜなら父親は何もできないからです。自分自身がこの言葉によって調べられるなら、自分のうちに信仰と呼べるものは何もないことを知らされます。わたしは無力であり、何もなすことができない。わたしはただ困窮の中にあるのです。「信じる者には何でもできる」と言われるならば、自分はただ空っぽであること、不信仰であることを告白しなければなりません。このイエス様の言葉は私たちがあぐらをかいて座っている土台を切り崩します。

 

【信なき我を助けたまえ】

ですからこの父親は叫ぶのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。父親は自分には信仰と呼べるようなものは、自分のうちにないことを告白せずにはおれません。不信仰なわたしなのです。自分で自分を救う力は全くないのです。これは論理的には矛盾しているようですが、父親は同時に「わたしは信じます」と叫びます。ある写本ではここが「泣きながら叫んだ」となっています。私たちの聖書ではそうは読みませんが、このときの父親は泣いていたという読みかたの思いが分かります。整って行儀よくイエス様の前に出るのではなく、悔いくずおれて泣きながらイエス様の前に出るのです。

 

父親はイエス様に向かって全面的に必死になって自分を明け渡すことを告白するのです。父親の心の奥底からの救いを求める叫びこそ、ほんとうの信仰の告白に違いないのです。父親の中には信仰と呼べるようなものはありません。ですからこの父親の告白は神様から一方的に贈り物として与えられたものです。困窮の中、心の奥から絞り出す、イエス様に向かって助けを求めるこの叫びこそ真実な信仰告白と呼べるのです。これは教理問答のようにきちんと整った言葉ではありません。しかしこれは真実な信仰のありかたを凝縮した告白です。

 

細かいことなのですが、ここで父親は「信仰のないわたしを助けてください」といったときの「助けてください」は文法的に「助け続けてください」という言葉です。最初はただ子どもの癒しだけが父親の心にあって、それはただ一回子供を癒していただければという求めだったのです。それが変化して、父親はこれからずっとイエス様に自分を助けていただきたいと、自分の存在をイエス様に委ねきっています。ただ一回限りのイエス様との関係ではなく、救いとは永遠にこのイエス様にしっかりと結びつけられることだからです。

 

【悪霊を追い出すイエス】

この告白の後、イエス様は子どもから悪霊を追い出されます。弟子たちの言うことは聞かなかった悪霊がイエス様の言われることには聞き従うのです。この悪霊に対して弟子たちが力を用いることが何故できなかったのでしょうか。イエス様はおできになりました。この違いは神への信仰、神への信頼の違いです。弟子たちは不信仰だったのです。弟子たちよりもむしろ悪霊の方が神様はどのようなお方か知っているのでしょう。しかし悪霊は神がどのようなお方かは知っていても、悪霊は神をまったく信頼していないのです。今朝の箇所での問題は信頼についてのことなのです。

 

弟子たちが悪霊を追いだして癒すことが出来なかった理由を見てきました。それは信頼の欠如、つまりイエス様の言葉では「不信仰」です。イエス様は弟子たちだけになったとき、悪霊を追い出せなかった理由を尋ねる弟子たちに教えて下さいました。「この種のものは祈りによらなければ決しておいだすことはできないのだ」と、イエス様は祈りをすすめられます。祈りとは神様に向かって私たちが心を開き交わることです。冒頭に無神論者であっても祈ることをすることをみました。人は極限に追い詰められれば祈らざるを得ないのだと思います。

 

【なぜ人は祈るか】

なぜ人は祈るのでしょうか。それは創世記によると人が神のかたちに造られているからです。私たちは神との交わりの中に創造の初めから入れられるように造られているからです。だから祈ることは人にとって当然のことなのです。神と共に生きることが人にとって当たり前のことだからです。困ったときは勿論ですが、いつでも祈るように神様は招いておられます。

 

【愛なる神】

それでも私たちは自分の祈りが聞かれているのかどうかが不安になることがあるのだと思います。神様はいるのか。神はおられても無力ではないか、と3・11以降のわたしたちは思います。また神はおられて力があっても、その神様は無慈悲なお方ではないかと。しかし聖書は言います。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と。神はひとり子を犠牲にされるほどわたしを愛してくださるのです。

 

このような大きな愛があるのですから、私たちには、聞かれていないように思える祈りがあるとしても神様は必ず聴いていてくださることを信じます。有限な私たちには理解できないことがあるからです。父親の信仰の始まりは、同時に子どもへの癒しの訪れでした。父親が助けを求めた叫びから家族の回復が始まりました。イエス様の御許にわたしたちの唯一の避け所があります。イエス様は破れを持つまま一緒になって自分のところへと来るように招かれます。イエス様こそ私たちの体と心全体の癒しと、まことの信仰の源であられるからです。イエス様は私たちも招いてくださいます。「その子をわたしの所へ連れてきなさい」。(おわり)

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2013年07月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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