2013年7月21日説教「いちばん偉い者とは」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校),森田姉庭でばーべQ 昼食会

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2013721日説教「いちばん偉い者とは」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)。

聖書:マルコによる福音書930-37

30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 

33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。

37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

【イエスは人に気付かれるのを好まれなかった】

今朝は930節以下の続きから御言葉に聞きましょう30「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。」

「そこ」、といわれる場所は、827節のフィリポ・カイザリア地方のことである。イエスはそこを立ってガリラヤを通られるが、多くの人たちに気付かれることを好まれなかった。それはこれから話すことが弟子たちだけに向けられた言葉であったからである。

 

 31節のおわりに「と言っておられたからである」とある。この翻訳では抜けている言葉があります。それは「教えられた」という言葉である。イエスはただ何となく弟子たちの耳に入ればよいと語っておられたのではなく、はっきりと教えておられたのである。

 

 その内容は何か。31「それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、三日の後に復活する」と言っておられたからである」イエスは御自身の死のことをはっきりと知っておられた。そしてそれは受難の死であり、聖書に基づいて起こるであろうことを弟子たちに、とくとくと諭し教えられたのである。

 

 【メシア受難預言】

受難の内容は旧約聖書に記されている。一つにはイザヤ書53章が挙げられる。苦難の僕と言われる箇所である。その苦難の僕がイエス・キリストなのである。53章「:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」。

 

そしてもう一箇所はダニエル書7章である。そこには「人の子」という終末にあらわれるメシヤ救い主のことが書かれている。イエスは旧約聖書を基にして、御自身の受難としての死を弟子たちにはっきりと示された。

 

 31節の「人々の手に引き渡される」という言葉は、文字通り読むならば、イエスが弟子のユダの裏切りによって引き渡されたことをさす。ユダによってこの世の支配者たちの手に引き渡され、この世の支配者たちによって有罪宣告を受けることになる。しかし、この「引き渡される」という受け身の表現には、やはり隠された主語がある。それは神であり、神によって十字架へと引き渡されたのである。ローマ832「わたしたちすべてのために、その御子をさえ死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」

 

 イエスは御自身の死をはっきりと知っておられ、そこに顔をむけてまっすぐに歩まれる。イエスの十字架での死は偶然でも失敗でもなく、天におられる神の御心の成就である。

 

 【怖くて尋ねられなかった】

しかし、このときイエスから教えられた弟子たちはどうであったか。32「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とある。弟子たちはこれから起こるとをうっすらと分かっただけであった。そして怖くなってしまった。なぜならイエスの十字架の死はただ残酷だけでなく、その残酷さは自分たちに原因があることを示されるからだ。十字架の直視は、自分の醜さと残酷さの直視となる。このことに人は耐えられない。だから弟子たちはこれ以上尋ねることはできなかった。

 

そのようにして旅を続けた一行は、ガリラヤを抜け、カファルナウムに到着した。カファルナウムとは福音書の初めから登場する町で、イエスの伝道の拠点であった。

 

【だれがいちばん偉いのか】

さて、イエスは弟子たちに何を議論していたのかとお尋ねになる。しかし、弟子たちは返答に窮してしまう。なぜなら、彼らの議論していたことはだれがいちばん偉いのかという内容だったからである。だれがいちばん偉いのかという議論はこれまでのイエスの教えに明らかにそぐわないものであったからだ。

 

イエスは弟子たちの心を知っておられた。イエスは「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム16:7)のである。そして弟子たちに自分たちの愚かな思いを振り返らせるため、イエスはあえて問われたのである。

 

弟子たちは誰がいちばん偉いのかという議論をしていた。「だれがいちばん偉いのか」よりも「だれが、より、偉いのか」というのが直訳である。弟子たちの中で順番をつけようとしていたのである。この種の議論は、この世ではよくあることである。しかしこの議論は弟子たちの中、教会の中で起こったのである。しかもイエスが十字架へと向かっていくその緊張の中で起こった。終末が近づいている緊張の中、弟子たちは愚かにも順番にこだわったのである。

 

イエスは弟子たちの心を調べられる。人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」エレミヤ17:9-10)。イエスによって心を調べられるなら、弟子たちは黙るしかない。人は皆罪人で、神に心を問われるなら自分の罪を前にして沈黙をもって答えるしかない。

 

【誰がいちばん偉いか】

弟子たちは主イエスの十字架の受難の予告のあと、すぐさま自分たちの序列を議論し始めた。イエスの教えがあっという間に蒸発してしまったのである。人は不快なこと、十字架を見続けることができない。弟子たちはそれほどに移り気で、薄情であり、なにより不信仰である。

 

 さて彼らが議論していたのは、より誰が偉いかという、人を押しのけて上昇していくことである。上昇志向はその裏に、劣等感が潜んでいることがある。人をうらやむ気持ちには、神が与えてくださったすべての賜物を喜ばない思いが潜んでいる。神からのすべての賜物には弱さも含まれる。弱さや欠けを覚えることが、つらいことではあっても、ほんらい主に頼ることを学ばせる大切な機会だからである。弱さを受け入れないことと、上昇志向はつながっている。

 

この弟子たちをイエスは呼び寄せられる。35「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」座って教える姿は、山上の説教でも見られ、権威を表す。そして権威ある声で弟子たちを御許に呼び寄せる。

 

イエスの弟子たちへの教えは衝撃的である。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。「いちばん先」という語は、聖書の他の箇所で「いちばん上」(マルコ10:44)、とか「指導者」(ルカ19:47)と翻訳される。

 

いちばん上になりたい者、いちばん先になりたい者は、しんがりを歩み、すべての人に仕えよと命ぜられる。このイエスの教えは、価値観の転倒、考え方の上下の入れ替えを求める。そして考えのみならず、生き方の転倒まで求められる。本当に知ることは生き方が変えられることである。イエスの発言は思い上がる者をくじき、惨めな者に自由と回復を与える言葉である。

 

上の者になろうとする弟子たちに、ここで謙遜に生きることが提示さる。しかし謙遜に生きることを自らの力で生きようとすることは傲慢である。ただ神の憐れみに生かされることにより、謙遜はただ上から贈り物として神から与えられる。

 

これまで弟子たちは、すべてを捨てて従ってきた。ペトロは少し後の箇所でいうこのとおり、わたしたちは何もかも捨てて従って参りました」。確かに彼らは、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てて従ってきた。しかし弟子たちの熱心が、彼らの高慢や出世欲と結びついた。神に仕える者が、われこそ誰よりも熱心であるというときほど鼻持ちならない者はない。我こそはという独りよがりの熱心が、同じ兄弟を見下して裁くことになる。

 

【子どものようになれ】

イエスはその時、一人の子をみそばに呼ばれる。36節「そして、一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」。イエスは子どもを真ん中に立たせる。そして言われる。子どものようになれと。私たちはすでに大人になっているのであるが、子どもになれと言われるのである。ある説教者はいう「富を捨てよと、イエスが青年に言われた。それと同じように、このときのイエスは、弟子たちに大人を捨てよと、言われた」と。つまりイエスは弟子たちに大人としてのプライドを捨てよという。これほどまで献身して歩んできたという誇りや、業績を捨てよといわれる。

 

ここでの子どもとは、罪がない存在としての子どもということではない。人は誰もが生まれながらに子どもであっても罪がある。イエスが子どもを評価されるのは、その単純さ、素朴さ、そして何よりも低さである。子どもは名誉やプライドに執着して生きることをしない。マルコにはなくマタイであるが「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とイエスは言われる。   イエスは子どもの低さを愛された。低くして子どものようになる人が天国でいちばん偉いのだと。子どもは自分には助けがなければ生きられないことを知っている。弟子たちも子どもと同じく神に頼らなくては生きられないことを示される。

 

イエスは言われた「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」。子どもを受け入れる人は、イエスを受け入れる。イエスを受け入れる人は、遣わされた父なる神を受け入れるのである。

 

【炊き出しの列にならぶイエス】

ホームレスが配給を待つために列になって並んでいる絵(フリップ・アイヘンバーグ)がある。夕暮れにくたびれた年老いた男女が、うつむき加減で、一列になって配給を待っている。絵からは並ぶ人たちが沈黙して並んでいることが伝わってくる。厚着をしているのでさむい冬だろう。わたしはこの絵を初めて見たときはっとさせられた。イエスがどこにおられるのかということについてだ。イエスは炊き出しを出すボランティアのなかで奉仕しているのだろうか。そこにはイエスはおられない。なんと!イエスはホームレスと共に列に一緒に並んで配給を待っている。その絵のタイトルは「炊き出しの列にならぶイエス」というタイトルである。

 

イエスはどこに立っておられるのか。低くされた所におられる。最初に見たイザヤ書53章の苦難の僕は、ギリヤ語訳聖書では僕のことを今日の箇所の「子ども」という言葉で扱っている。またイエスの話されたアラム語では「僕」と「子ども」という言葉が同じであるそうだ。イエスは子どもと自分のことを同一視され、低くされた子どものような僕としての御自身を示される。

 

【子どもを受け入れる者】

イエスと弟子たちが議論したのは「家」である。この家とは、ペトロの家のことである。ペトロの家でイエスは集まった子どもの一人の手をとられた。ひょっとするとペトロに子があれば、彼の子どもだったかもしれない。カファルナウムの小さな町で、いずれにせよ、弟子の誰かの近親者だったろうと思われる。その子にイエスは目を留められた。当時子どもの話に耳を傾けるのは時間の無駄だと言われていた。その様な無視されていた小さな存在にイエスは目を留められた。

 

子どもを受け入れる者はイエスを受け入れるといわれた。文字通り受け取るなら、すべての子どもを受け入れているものたちへのイエスの祝福の言葉である。それは両親たちであり、子どもを預かるものへの祝福である。

 

イエスは小さく低くされたものを受け入れるように招かれる。これは私たちの生来の目は大きいものに注がれがちだからです。だから小さなものへ目を向けよと招かれる。しかし忘れてはいけないことは、「わたしの名のために」という言葉である。イエスの名のためにとは、イエスの支配によってということである。もしイエスの名によらないなら、人は小さな者を受け入れることで、反って逆に自分自身が大きくなり、自分を誇り始めるからである。

 

いちばん偉い者とは誰か。イエスは極みまで遜って、謙遜であられた。イエスは子どもの低さを愛された。地上で誰よりもいちばん低くなられたのはイエスではなかったか。受難予告はマルコにおいて3度ある。弟子たちは予告の繰り返しでこれから起こることを少しずつ理解する。しかし3度とも弟子のピントはずれてしまい、イエスの思いはくみ取られない。

 

【人の子は仕えられるためではなく仕えるために】

3度目の受難予告の後、栄光を勝ち取られたイエスの左右の座に座りたいとヤコブとヨハネは言う。その願いは退けられて、イエスは言うそこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである』」。

 

【世の支配者と主イエス】

この世の支配者は自分の思いによってこの世を支配する。この世の力ある英雄たちは、力によってこの世界を結局は駄目にする。彼らは国々を力によって自分自身のために征服するが、そのことによって自分自身を惨めな者にする。しかしキリストはこの世の国々を同じように征服し、その地はキリストが支配されるところとなる。その地に住むもの、神の国に住む者は必ず幸福になる。なぜなら神の国は力ではなく、神の愛と神の正しさによって支配されるからである。

 

さらにイエスはこのような我々の罪のために命を捧げてくださった。そして神が人となって、そして仕えてくださった。この世の物語では人が神となる。聖書はあべこべであり、神が人に仕えるために、また命を我々に変わって献げるために来られたことを説く。人知を超えた神の一方的な愛が我々に注がれている。

 

【キリストに倣って】

だからローマ書でパウロは弱い兄弟を受け入れよという。それなのに、なぜあなたがたは、自分の兄弟を裁くのですか。またなぜ兄弟を侮るのですか」。キリストは私だけのためでなく、我々の兄弟姉妹のためにも命を献げられた。イエスは言われる「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのです(10:45) 。だから私たちは互いに受け入れ合うのである。

 

キリスト者すべては聖霊によってキリストが宿っていてくださる宮である。キリストはどんなに見劣りする兄弟にもおられる。だからその人を私たちは重んじなければならない。その人を重んじないならば、そこに宿られるキリストを拒むことになるのだから。私たちはともに教会で互いに受け入れあい歩める恵みに感謝を覚える。(おわり)

 

2013年07月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

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