「神はおられるのか」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師

淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師


聖書:ヨハネ福音書1章14~18

14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のこ とである。」 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。  


【神はおられるのか?】
今朝は、神はおられるのか、という根本的なことをお話させていただきたいと思います。
一体、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。私は、20歳の時クリスチャンになりましたが、その前はこのことでかなり迷いました。もし神が本当におられるのなら、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
 
しかし、神が存在しないのなら、そういったことは全くナンセンスです。存在もしないのに、存在するかのように信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。ではどちらなのでしょうか。どちらでもないということは、あり得ません。必ず、どちらかなのです。しかし、それが分らず、かつては私も随分迷いました。
 
いずれにせよ、これは私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかということにも関る重大なことです。
そこで幾つかの点から見てみたいと思います。

【この世界の作者は?】
第一は、この世界、宇宙、自然をよく観察することです。
私たちが美術館へ行ったとします。すると、人の顔が真中で左右に分かれ、右と左が食い違い、色使いも激しい抽象的な絵があったとします。体も上下が違っていて、何かよく分りません。すると「あっ、ピカソだ」と分ります。黄色の絵の具が積み重なるように厚く塗られた強いタッチの絵を見ると、ゴッホだと分ります。ピカソやゴッホには悪いですが、分りやすく説明するために、こんな言い方をしました。要するに、作品は作者を必ず表します。
 
音楽でも同じです。バッハの曲はバッハで、チャイコフスキーの曲はやはりチャイコフスキーです。
 
【神の作品】
同じことが、この世界と神様との関係についても言えます。神の作品であるこの宇宙や自然は、作者である神の力や知恵、調和、美しさなど、神の性質を表さないではおれません。
 
ですから、ローマ1章20は、

「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができ」

る、と言います。
 
詩編19篇2は

「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」と歌い、ヨブ12:7~9は言います。「獣に尋ねるが良い、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけて見よ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らは皆知っている。主の御手が全てを造られたことを。」

 
【ガリレオ・ガリレイ】
ですから、その当時の教会による裁判そのものは不幸でしたが、敬虔なクリスチャンであった科学者のガリレオ・ガリレイは言いました。「神は二つの書物を書かれた。その一つは聖書である。もう一つは自然そのものである。」「自然という書物の中に、神の計画を書き記した言葉が満ち溢れている。それを一語一語読んでいくことこそ、人間に与えられた大切な仕事である。」
 
この世界はどうやってできたのか。天体や宇宙といったマクロの世界から、素粒子などのミクロの世界までの見事な調和や秩序!何故こうなのでしょうか。神様が造られたからなのです!
 
【歴史を支配される神】
第二は、歴史を振り返ることです。

使徒17:25~27は、神についてこう語ります。「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。全ての人に命と息と、その他、全てのものを与えて下さるのは、この神だからです。神は一人の人から全ての民族を造り出して、地上の至る所に住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、また彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」

 
要するに、神は世界を造られた後、放りっぱなしではなく、これを保ち、導き、歴史を支配しておられるという、いわゆる神の摂理を聖書は教えています。
 
【罪と悲惨の世界】
成程、人類が神に背いた結果、罪がこの世に入り、この世には余りにも悲惨なことが多くなりました。目を覆いたくなる残酷で非人間的なこと、動物界には見られない虐殺や報復などゾットする罪深いことが、人類の歴史には何と多いでしょう。
 
最近の低年齢の若者による殺人事件、2001年9月11日の米国での同時多発テロ、イラク、パレスチナにおける攻撃と報復テロの繰返し、北朝鮮による拉致、弱者がいつも犠牲になっている紛争、その他、どれだけあるでしょうか。歴史を振り返ると、人類は何故いつもこうも罪深いのかと、溜め息が出ます。よく考えれば、はるか昔に人類は滅んでいても変ではありません。それなのに、尚、生存を許されています。
 
【悪は必ず滅ぶ】
また、歴史を振り返ると、悪が長く栄えた試しがありません。確かに、一時は悪が栄え、悪人がのさばっていることがあります。しかし、最後には必ず悪は滅んでいます。歴史はそれを証言しています。では、何故そうなのでしょう。聖書によると、神様が愛と憐れみにより、なお、この世界を摂理しておられるからです。
 
【神の許容】
無論、人間の罪と不信仰ゆえに、この世はひずみ、矛盾と不条理に満ち、「神がおられるなら、何故こんなことが」と思うことも度々あります。神は、傲慢になった人間に、自分が人間でしかないことや罪深さを徹底的に悟らせるために、敢えて一時、人間に好き勝手にさせられることもあるのです。
 
しかし、深呼吸をしてよく考えてみますと、神はなお憐れみに満ちた手を差し伸べ、良い物もいっぱい与えて、御自分を証ししておられます。ですから。使徒14:16:17は、現実の矛盾や不条理を重々承知の上でこう語ります。

「神は過ぎ去った時代には、全ての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなた方の心を喜びで満たして下さっているのです。」


神様は生きて働いておられます!
 
【人体の不思議】
三つ目は、私たち人間をよく観察することです。
私たち人間を観察すると、その素晴らしさに圧倒されます。例えば、この私たちの体ですが、何とすごいでしょう。1989年の冬に梅田のスカイビルで「人体の不思議展」があり、私は二度見に行き、人体の素晴らしさに圧倒されました。私たち一人一人の血管の長さは、毛細血管まで含めて全部足すと、何と96,000Km、地球2周半近くにもなるのです。髪の毛1本だって、素晴らしく作られています。ホスピスで有名な柏木哲夫先生がある本に書いておられましたが、まだ先生が阪大医学部の学生だった頃、教授に一枚の写真を見せられ、「君、これが何か、答えなさい」と言われました。見ると、ラッキョのような形をしたものでした。一生懸命考えましたが、分りません。「分りません」と答えると、教授は「これは毛根だよ」と言いました。毎日、何本も生え変わる私たちの髪の毛ですが、その一本一本の毛根は皆7層だったでしょうか、8層から成っていたでしょうか、とにかく見事に丁寧に作られているのです。
 
【人の宗教心】
しかし、今朝、特に注目したいのは、私たちの心です。その一つに宗教心があります。今ここで言う宗教心とは、ご利益宗教に見られるようなあさましいものではなく、真に聖なるものを求めないではおれない崇高な宗教心のことです。コヘレト3:11に

「神は永遠を思う心を人に与えられる」

とあります。

「永遠を思う心」


とは、実は永遠者なる真の神を思う宗教心のことです。よく考えると、これは非常に不思議なことです。
 
人は有限な存在でしかないからです。人の脳細胞数は140億個あると言われます。天文学的な数字です。でも、決して無限ではありません。人の命も勿論、永遠ではありません。人は有限な存在でしかありません。
 
【神に似せて作られた人間】
それなのに何故、人は、無限とか永遠といった概念を持っているのでしょうか。どこからそれを得たのでしょうか。聖書によると、それは無限、永遠、不変の神が、ご自分を知ることが人間にでき、ご自分と交わりを持てるようにと、人をご自身に似せて造られ、神様への崇高な求めや憧れ、つまり、宗教心を持つ者として造られたからなのです。
 
【良心】
もう一つ注目したいのは、良心です。悪いことをすると、誰も見ていなくても、私たちは平安ではありません。気持が重いです。良心の呵責を覚えます。良心について、ローマ2:15は、真の神とその戒めを良く知らない人たちであっても、

「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って」


と述べています。
 
一体、良心とは何なのでしょうか。何故こんなものが人間にはあるのでしょうか。動物は悪いことをしても、良心の呵責に苦しむことはありません。人間の、そして人間だけにあるこの良心とは、実は私たちを御自分に似せて造られ、そして私たちを本当に愛しておられる真の神様が与えられた、私たちの心の中の警報ブザーなのです。そのままだと私たちを永遠に滅ぼすことになる私たちの罪や悪を私たちに知らせ、告発し、それらを止めさせ、私たちを守ろうとされる神様の呼びかけなのです。ですから、とても大切なものなのです。
 
【良心の麻痺状態】
もっとも、人間は自分の良心に猿ぐつわをはめることすらできます。良心の声を抹殺し、無感覚になることができます。しかし、これ程、不幸なことはありません。それこそ、自らの人間性をいよいよ低め、卑しめ、自らを永遠の地獄に滅ぼす自殺行為に他ならないからです。
 
大切なことは、永遠を思う崇高な宗教心や良心が、何故私たちに備わっているか、です。それは、神が私たち人間を愛するがゆえに、人を特別に造られたからなのです。
 
【イエス・キリストを見よ】
最後、四つ目は、イエス・キリストを見ることです。
ここで問題に気づきます。というのは、今までの点から見て、どうやら神はおられそうだとしても、それだけでは不十分だからです。もし十分であるなら、世界中にこんなにも色々な宗教は起らないでしょう。誰もが正しく造り主なる真の神を知り、食い違いなどなく、互いにピッタリ一致していることでしょう。しかし、現実には随分相違があります。
 
【神ならぬものを神とする愚かさ】
何故でしょうか。聖書は、それは、人が神に背を向け、罪が人の中に入り込んだため、正しい神認識能力を失ったからだと言います。ですから、一口に神といっても、木や石や金属で作った偶像を拝む人もいれば、太陽を神とし、あるいは古い大木や高い山に神の霊が宿っているとか、死者の霊が神に変るとしたり、宇宙の真理と呼ぶ何か抽象的で偉大な存在(サムシング・グレイト)を宗教的対象とする人もいます。
 
どんな宗教も根本的には同じだなどと、時々、言われることもありますが、それは違います。例えば、ヒンドゥー教の神は多様な現れ方をします。そもそも人格を持ちません。宗教といっても、色々なのです。
 
また、仮に真の神は唯一で、永遠者・絶対者だとしても、なお、十分ではありません。一口に一神教と言っても、色々です。もっと十分に神を知ることはできないのでしょうか。
 
【御子の降臨】
実は、このような私たちのために、神様は素晴らしい方法でご自分を示されたのでした。どんな方法でしょうか。ご自分の独り子を人間として世に遣わすという驚くべき方法です。神はご自分の御子を人間イエスとして世に遣わされ、御子イエスによってご自分を必要十分に表されました。ヨハネ福音書1章18は言います。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」


イエスは言われました。ヨハネ12章45

「私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである。」


同14:9

「私を見た者は、父を見たのだ。」  


人間の親子でも、顔や背格好はとてもよく似ます。声の調子やしゃべり方もあまりに似ていて、うっかり電話などで色々なことをしゃべり、後で間違いに気づいて困った、ということもありますね。性格や気質まで似ていることもあります。
 
【イエスは父なる神と一つ】
しかし、イエス・キリストの場合は、父なる神と色々な点で単に似ておられるどころではありません。ヨハネ10章30で

「私と父とは一つである」


と言われる通り、イエスは父なる神と全く同じ神としての本質と性質を持っておられ、神とイエス・キリストは一つなのです。従って、私たちは聖書の証しするイエスをよく知ることで、すなわち、イエス・キリストのその愛と憐れみに満ち、柔和で、きよく、義に満ちた御人格、また処女マリアからの聖霊による誕生や、ただ私たちのためになさり、決して御自分のためにはなさらなかった様々な驚くべき力ある奇跡、また約束しておられた通り、ユダヤ人の手によるご自分の十字架の死とそこからの復活などの御業を通して、神を知ることができるのです。
 
【イエス・キリストのみが唯一の神に至る道】
こういうわけで、今や私たちは神を求めて当てどのない探究や複雑で難解な勉強や難行苦行をする必要など、全くありません。神の御言葉、聖書の証しするイエス・キリストのご人格や性質、つまり、その知恵、力、きよさ、正しさ、愛、憐れみ深さ、柔和さ、真実などを知れば、それが即、真の神を知ることなのです。神様はそのようにして下さっているのです。
 
【聖書の証し】
世の中には、「永遠の救いに至るには、色々な道があり、どれでも良い。最後は皆一つ所に行くのだから」という考え方が昔からありましたし、今もあります。しかし、色々な道で本当に良いかどうかの客観的保証はありません。でも、神様はご自分の御子イエス・キリストにより、またその御子イエスを証しする聖書により、私たちが神について知る必要のあることは、十分に分るようにして下さっているのです。知る必要のないことまで聖書は語りませんが、必要なことは十分に語られています。
 
【まとめ】
第一に自然をよく見つめ、第二に歴史から深く学び、第三に私たち人間を謙虚に見つめ、第四に特に聖書の証しするイエス・キリストにより、真の神をいよいよ知り、祈って神に全てを委ね、御言葉に従い、この世が与えることも奪うこともできない神様による救いの力と喜びに、ご一緒に是非、与りたいと思います。(おわり)

2009年10月25日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

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