世の光であるイエス・キリスト ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書9章1--11

【ひと間違い】
このような経験がありますか。遠くから人を見て、その人が知人だと思って手を振りました。そして、挨拶しに近づくと、その人は実は全く知らない人でした。恥ずかしいですね。または、電話の声で相手を「なになにさん」だと思って、直ぐ会話を始めましたが、一分、二分しゃべると、実は相手が違う人だと気付きました。それも恥ずかしいですね。

この間の話ですが、家に電話がかかってきました。電話を取ると、「Hey, what's up?」つまり、「おい、どうしてる」と言う声が聞こえました。ちょっと可笑しい挨拶だなと思ったんですが、声がアメリカにいる長男らしいので、色んな話に入りました。しかし、突然、相手が、「Who are you?」つまり、「あなたは誰ですか」と私に聞きました。その瞬間ピンと来ました。相手は実は次男の友人で、ポールと話したかったんですが、私の声をポールと間違えたようでした。その事件は家で大笑いになりました。

【相手の身元を知る】
相手の身元を知るのは大切な事です。それが分らなかったら、相手と話す事さえも難しいです。どんな身分や、何処の人などが不明の場合は、その人と関係を結ぶのはなかなか難しいです。その反面、相手の身元が十分分かると、適当な関係を持つ事が出来ます。だからこそ、初めて人に会う時、よく名刺を交換します。名刺を見たら、相手の身元が分かって、適切に扱う事が出来ます。

【イエス・キリストの身元】
同じようにイエス・キリストの身元もちゃんと分かった方が良いと思います。主イエスは世界歴史の一番重要な人物だし、今も主の教えはキリスト教信徒だけではなく、社会にも大きな影響を与えて来ました。

さて、イエス・キリストはいったい誰ですか。どんな役割を果たしましたか。そう、その事が分かるには、先ずイエス・キリストが御自分について何と言われたかを調べるのが良いと思います。すなわち、もしイエス・キリストに名刺があたら御自分について何と書いたのでしょうか。

主イエスはスカルの井戸で会った女の人に御自分の身元の重要性についてこのように説明して下さいました。

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、水を飲ませて下さいと言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えた事だろう。私が与える水を飲む者はけっして渇かない。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ福音書4:10)

と言われました。つまり、イエスは彼女にこのように言いました。「もしあなたが私の身元が知っているのだったら、あなたは私から本当に心を満たしてくれる命を求めるでしょう。」

ヨハネによる福音書では主イエスが御自分の言葉で、身元の色々な大切な面を表して下さいます。その七つの個所の全ては「私は」と言う表現で始まります。

「私は世の光である」、「私は門である」、「私は命のパンである」、「私は良い羊飼いである」、「私はまことの葡萄の木である」、「私は道であり、真理であり、命である」、そして、「私は蘇りであり、命である」。

この七つの「私は」の発言はイエス・キリストの身元を啓示して下さいます。そして、その発言全てはイエスの私達人間の為の御業を説明しております。

【イエスは世の光である】
今朝は「私は世の光である」と言う主イエスの重要な宣言を一緒に学びたいと思います。皆さんはもうすでに光の重要性をご存知だと思います。光がなかったら、命と言うものは不可能です。光がなければ全ては暗闇ですね。現在では滅多にない事ですが、昔はたまに夜、停電になりました。急に家が真っ暗になって、光がないので何も出来ませんでした。全然見えないから布団に入って寝るしかありませんでした。しかし、突然、電気が付くと、周りの環境が大きく変わってしまいます。家の中が眩しくなって、見る事が出来ます。壁と家具にぶつかたりする事もなく、ほっとして、普段の光の中での生活に戻れます。確かに、光と言うイメージはイエス・キリストの私達の為の役割を良く表現します。聖書の沢山の所で光は全能の神を連想しています。例えば、詩篇第27篇にこう書いてあります。

「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう。」

また、詩編第43篇にこう記されています。

「あなたの光とまことを遣わして下さい。彼等は私を導き聖なる山、あなたのいます所に私を伴ってくれるでしょう。」

そしてヨハネの第一の手紙1章5節では神についてこのように書いてあります。

「神は光であり、神には闇が全くないと言う事です。」

実は、イエスが「私は世の光である」と言うとき、御自分が唯一の全能の神の御子である事を言われた訳です。

もちろん主イエスは「光」と言うとき、ただ物質の光の事について話してはいません。実にイエスは御自分が霊的光であると言っています。物質的光のシンボルを用いて、御自分の霊的な役割を宣言し、説明して下さいます。つまり、イエスの霊的、精神的な役割は光のようなものなのです。

この世の光は何をするのでしょうか。明確なことですが、光は物を現します。光のない場合なら、真っ暗で何も見えません。または、光は命を支えます。世界にある命、すべては太陽の光に頼っています。その光がなかったら、生きている物は直ぐに死んでしまいます。最後に、光は私達を導きます。つまり、光があるから道が分かって、迷わずに目的地まで行く事が出来ます。

ここで光りのもつ三つの重要な役割について、一つずつ考えながら、イエス・キリストの光を学びましょう。

【光は物を現す】
さて、初めに光は物を現します。エフェソの信徒への手紙5章13節に使徒パウロはこのように書きました。

「光にさらされる時、全ての物は、明らかになる。明らかにされた物は皆、光となるのである。だから、こう書いてある、『眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう。』」

【イエスは神を照らす光】
光がこの世の物を現すように、イエス・キリストは霊的光として真の神を現して下さいます。イエスは神について色々な大切な真理を現して下さいましたが、一番重要な事は何でしょうか。やはり、神は愛である事です。主イエスから頂いた啓示がなければ、その大切な真理が分からない訳です。イエスの教えによりますと、この世での御自分の歩みと、死と、甦りを通して、神の性質を光のように現して下さいました。イエスのお陰で私達と宇宙をお造りになった唯一の神がどのような神であるかが分かって来ました。人間にとってそれは最も重要な情報ではありませんか。神は御自分の創造した全ての人間を一人一人を深く愛して下さいます。そして、人間の為に御自分の御子までも犠牲する程、私達を愛して下さいます。イエスはその素晴らしい光で神を照らして下さいます。その光がなかったら、神の事が分からなく、暗闇の中を歩まなければなりません。

また覚えて頂きたい事があります。イエス・キリストはこの世の全ての人の為の光りです。

「私は世の光である」

と言われました。つまり、クリスチャンの光とは、ある決められた国や社会の光だけではなく、全世界の全ての社会と国の真の霊的光です。私達の神は小さい、そして、限られた神ではありません。むしろ、唯一の真の神が無から全てを創造し、今も全てを支えて下さいます。その同じ神が全ての人間の為に御自分の光イエス・キリストを遣わして下さいました。

【イエスは命を支える光】
次は、物質的光が全ての命を支えます。光合成と言う作用を通して植物が太陽の光から自分の栄養を作ります。そして、人間と動物はその植物を食べて生きる事が出来ます。旧約聖書には光と命がよく関連されています。詩篇第56篇にこう記されています。

「あなたは私の魂を死から救い、私の足を守って倒れる事なく、命の光のうちで神の前にわたしを歩ませられたからです。」

同じように新約聖書でもイエスの光は命に関連があります。ヨハネによる福音書にイエス・キリストについてこう書いてあります。

「この命は人の光であった。」

または、御自分に付いてイエスがこう言われました。「私に従って来る者は、やみのうちを歩く事がなく、命の光をもつであろう。」つまり、太陽のように命を与える、命を支える力はイエス・キリストから射出されます。主イエスから命の本当の意味と目的を授けられて、喜びと望みが溢れるように与えて下さいます。イエスはこう言われました。

「私が来たのは、命を得させ、豊に得させる為である。」

【イエスはわたしを導く光】
それでは、光はこの世でまた何をしますか。私を導くでしょう。光があるから行き先の道が見えるので、前へと進む事が出来ます。しかし、目隠しをされたら、すぐ目の前が見えないので先へと進む事が出来ず、迷ってしまいます。神が御自分の民イスラエルを火の柱で荒野から約束の地まで案内して下さったと書いてあります。そして、東から来た博士達が光っている星を見て主イエスのいる所まで導かれたと記されています。

同じように私達も主イエスの教えに導かれています。そして逆にイエス・キリスト以外のものに導かれたら、真の命の道から迷ってしまします。主イエスはこの世にいらっしゃって、私達の前に行かれ、愛と真理を教えて下さいました。その光に従って迷う事はなく、命の目的まで導かれます。

「私は世の光である」と主イエスは言われました。そして、先程言ったように主の光は色々な面で恵みを与えて下さいます。しかし、その恵みを受けるように私達はイエスの光に反応しなければなりません。少なくとも三つの反応があると思います。初めは主イエスが照らした事を見なければなりません。つまり、イエスが表された霊的真理を積極的に学ぶべきです。ご存じのように、その真理は聖書に記されています。

次は主イエスの光に向けるべきです。向日葵(ひまわり)は太陽の全てのエネルギーを受けるように、いつも日に向います。同じように私達はイエス・キリストの教えの影響を受けなければなりません。そして、その影響の栄養を受けて、人間に相応しい生活が出来ます。  

【イエスの光に従う】
最後にイエスの光に従うべきです。指導がいくら良い素晴らしいものであっても、もし自分がその指導に従わず、そのまま動かないでいるのなら、その指導は何も役に立ちません。主イエスの光に従うなら主の方に動かなければなりません。つまり、イエスの御言葉に従う事です。そうすればその光の全ての利益を頂きます。

【生まれつき目の見えない人】
今日の朗読に於ける生まれつき目の見えない人は主イエスによって奇跡的に癒されました。彼の存在は光になって、どんなに嬉しかったでしょう。同じようにイエスの素晴らしい光が私達の命にも照らされます。辛い事や思い通りにいかない事もあります。しかし、どんな状況であっても、神の光をあびた事で、真の自由と希望が私達に与えられたのです。

「私は世の光である」

とイエスが言われました。これからはその光を十分浴びましょう。イエスの光を受け、反射するように神の力と愛に頼って見て下さい。そうすれば神からの豊かな命を十分に経験出来るようになります。(おわり)

2006年01月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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