「神の傑作である私たち」ウイリアム・モーア2010.8.22

聖書:エフェソの信徒への手紙2章1−10

1:さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3:わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4:しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5:罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6:キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。  7:こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9:行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10:なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

 

【ダイエット広告】

新聞のチラシによく見かける物ですが、人の前と後の写真を用いる広告は面白いです。その前の写真と後の写真で物やサービスを売る訳です。特にダイエット薬や美容整形の広告にその手段を使います。 皆さんも見た事でしょう。ダイエットの前の人の写真はあんまり素敵ではありません。実は、まるで警察で撮る逮捕者のような最低な写真です。事実よりも大変太く見える、ださい服装を着て、悲しそうな顔をする、とてもへつらわない写真になります。

 

その反面、ダイエット後の写真は全く逆です。飲めば痩せる薬を買って用いると、もっぱら素敵なタレントのような様子です。すごく細長くなり、流行のスタイルを示すとても素敵な人になりました。しかも、自信満々の笑顔をします。その前の写真と比べると全く別人のようになります。そして、その新しく変わった写真を見て、誰でもがすぐにでもその薬を注文したくなります。

【キリストに出会う前と後】

ある意味では今日与えられた御言葉はそのような広告です。使徒パウロは私達の前と後の姿を描写します。つまり、イエス・キリストに出会う前と出会う後の私達の状態を説明します。しかし、今日の個所は飲めば痩せる薬の広告と違って、大袈裟ではないし、全く真実であります。

 

【イエス・キリストに出会う前】

皆さん、イエス・キリストに出会う前の人間の姿を聞いて下さい。今日の個所のエフェソの信徒への手紙2章1節から朗読させて頂きます。「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私達も皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」

 

【以前は自分の過ちと罪のために死んでいた】

いくら言っても、それはあまり奇麗な描写ではないのです。実は、それよりもっと悲惨な状態がありません。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と使徒パウロは神の聖霊の導きによって迷わずに救われる前の私達の状態を語ります。

 

つまり、イエス・キリストと繋がっていなかったら、誰でも霊的に死んでしまった状態です。と言うのは、人間の造り主である唯一の神と救いの関係がないと、空しくなり、真の希望がないのです。記された通りに、その理由は「自分の過ちと罪」です。主イエスはこのように言われました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5章48)ですから、私達の過ちと罪は神との関係を壊し、滅びを招いてしまいます。ローマの信徒への手紙6章23に書いたように、「罪が支払う報酬は死です。」

 

【悪魔の手下】

そして、霊的に死んだ状態だけではなく、それに伴って私達は色んな勢力に左右されてしまいます。第一に、悪魔はこの世に働いて自分の邪悪な目的を果たす為、人間を利用します。と言うのは、言い尽くせない程の悪事はただ人間の行為ではありません。つまり、人間の上の勢力が人をけしかけて、この世に本当に醜い事を生じさせます。人は真の神と結ばれなかったら、悪魔は霊的隙間につけ込んで、私達を自分の僕のように用います。そして、悪魔は色んな計略を持って私達を真の神から離れさせようとします。そう言う意味で2節に使徒パウロはこう書きました。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」

 

【世の快楽】

この世の影響も私達を左右します。例えば、映画やマスコミなどは色んな罪を素敵に見えるようにして、それは極普通の行動だと宣伝します。暴力や肉欲や金銭欲などは当たり前の事だと皆に教えます。愛する神が下さった戒めを忘れると周りの環境は人を支配して皆は自分の目に正しいとする事を行います。

 

【自分の欲望のままに】

更に、神から離れて生きると私達は肉の欲に左右されてしまいます。3節を見ますとこの御言葉があります。 私達も皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」この生き方によりますと、自由は欲するままに行動する事です。しかし、罪深い人間は欲するままに生きると、周りの人々に害を与え、最後に自滅に伴います。

 

【神の怒りを受ける】

実は、悪魔とこの世の影響と自分の欲に左右されると、私達は結局そのことの奴隷のようになります。そして、自分の愛する造り主を忘れ、主が教えて下さった正しい生き方を無視すると「神の怒りを受けるべき者」になると記されています。つまり、イエス・キリストの救いを受ける前は誰でも神の怒りを受けるべき者です。考えて見ますと、それは実に大変な立場です。唯一の全能の神の怒りの対象になる事。しかし、御言葉は迷わずにそう書いてあります。

 

【神の怒りと愛】

私達は神の怒りについてあんまり考えたくないです。おそらくそれは神の怒りは神の愛に反対していると思って、一つを選ばなければならないなら、主の愛に集中します。しかし、神の怒りと愛は決して逆なものではありません。もし主は罪、すなわち私達の人生を害するものを憎まなかったら、その愛は完全ではない訳です。さらに、主は人間を大事にしなかったら、私達の罪に対する怒りを示さないでしょう。何故なら、私達の事を高く評価しなかったら、私達をただ忘れ、捨ててしまいます。ですから神の怒りと神の愛は不思議に繋がっています。

 

【希望の無い者】

イエス・キリストを知る前の私達の「写真」は本当に恐ろしいです。霊的に死んでしまい、奴隷のように色んな破壊的勢力に左右され、神の怒りを受けるべき者です。その私達の悲惨な姿は大袈裟ではありません。それは全く事実であります。そしてそのままの状態だったら、私達は真に絶望すべきです。現在は霊的に死んでしまい、また将来の為の希望がありません。

 

【神の愛は】

幸いにその姿は代えられるものです。今日の御言葉の4節はその素晴らしい言葉「しかし」で始まります。「しかし、憐れみ豊かな神は、私達をこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪の為に死んでいた私達をキリストと共に生かし、あなたがたの救われたのは恵みによるのです、キリスト•イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。こうして、神は、キリスト•イエスにおいて私達にお示しになった慈しみにより、その限り無く豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」

 

これは、イエス・キリストを受け入れる私達の後の姿です。前の姿と比べると非常に対象的ですね。もちろんその驚くべき変形は私達の努力の為ではありません。始めから終わりまで神のお陰であります。4節をもう一度朗読します。「しかし、憐れみ豊かな神は、私達をこの上なく愛して下さ」いました。

 

【キリスト•イエスと共に復活させ、共に天の王座に着かせる】

実に、私達の変形は神の憐れみと愛のお陰です。そして、主の憐れみと愛の故に私達は二つの恵みを受けました。先ず、霊的に死んでしまった私達は新しい命が与えられました。 罪の為に死んでいた私達をキリストと共に生かし」ましたと書いてあります。

 

イエス・キリストのお陰で霊的に死んでいた私達は生かされました。そして、それだけではなく、その上に私達は「キリスト•イエスによって共に復活させられ、共に天の王座に着かせて下さいました。」つまり、私達は永遠の命に復活させられ、神の王座の前に近づく資格が与えられました。

 

イエス・キリストの十字架の贖い死のお陰で罪深い私達は神によって赦され、御自分の子供になりました。だからこそ主との交わりが許され、やがて天国で造り主である、愛する神の王座の前に、つまり、主のすぐ前に出られます。そして、そこで永遠に主の喜びと恵みを経験で来ます。

 

【神の憐れみと愛のゆえに】

その計り知れない私達の為の神の御業の動機は御自分の憐れみと愛です。さら7節に記されていますが、その救いを通して、 神は、キリスト•イエスにおいて私達にお示しになった慈しみにより、その限り無く豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」

 

つまり、その賜物を私達に授ける事によって神は御自分の愛と憐れみをこの世の人々に現す訳です。と言うのは、私達の救いを通して神は皆に御自分の性格を啓示し、その同じ救いを受け入れるようにと招いてくださいます。

 

愛する兄弟姉妹、周りの者があなたと接すると何を見られますか。神の赦された子供として私達は主の「限りなく豊かな恵みを」反映しますか。私達を通して皆は神の愛と賜物を見る事が出来ますか。

 

イエス・キリストを信じる私達の前の姿と後の姿は著しく対照をなします。罪の為、霊的に死んでしまった希望のない、奴隷のように、この世の勢力に左右された私達は、神の救いの故に真の命と希望と目的が与えられ、主の愛と交わりを通して生かされました。更に、神の愛は永遠に私達を負って下さるので、主の恵みはいつまでも続きます。

 

【救いは神の賜物】

そして、その素晴らしい変化は全く神の一方的賜物です。8節と9節を見ますとそれは明白です。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」これは神の福音のエッセンスです。私達は主の救いを勝ち得る事が出来なくて、ただそれを心から信じ受け入れるものです。

 

イエス・キリストは私達の救いの為に十字架で罪の報酬である死を私達に代わって払ってしまいました。ですから、罪を悔い改め、主を信じる者は、誰でもその新しい姿が与えられました。それは全く神の一方的恵みのお陰ですので、私達は一人も残らずそれを受け入れられます。

 

【神の善い業を行って歩む】

愛する兄弟姉妹、私達が救われたのは神の憐れみと愛を皆に現す為です。そして、10節にもう一つの目的が記されています。「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」

 

【私たちは神の傑作】

ここでの「私達は神に造られたものであり」と日本語に翻訳された御言葉は「私達は神の傑作であり」とも翻訳出来ます。神に救われた後の私達の姿は主の素晴らしい傑作です。そして、神の傑作として私達はここで、この世に御自分の働きに参加する使命が与えられました。私達は自分の善い業によって救われたのではなく、善い業の為に神の傑作として造られた訳です。そして、主は私達の為にその善い業を行う機会をもう既に準備して下さいましたと記されています。つまり、奉仕する気があれば、主は私達の毎日の生活にその機会を十分に示して下さいます。

 

【質問】

終わりに当たって、質問をしたいと思います。それは、あなたの姿はどちらのものですか。主イエスに会う前の姿ですか。それとも主イエスによって救われた後の姿ですか。そして、その後の姿だったら、 神の傑作として、主の助けによってどんな 善い業を行っていますか。【終わり】

2010年08月22日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書

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