賢い者として新年を歩みましょう ウイリアム・モーア

エフェソの信徒への手紙5章15-17

讃美歌 15

【評判の良くない兄弟】

ある町に二人の兄弟がいました。その二人は双子のようにとても仲良く、いつも何でも共にしました。兄弟の仲は良いですけれども、町での評判はあんまり良くありませんでした。飲み過ぎて人と喧嘩したり、乱暴な言葉をよく吐きました。そして彼等はお金があったのにも係らず、あちこちで勘定をためて、なかなか払いませんでした。更に、自分の会社の従業員を厳しく扱いましたので、皆に嫌われていました。

ある日、兄弟の一人が急に病気で亡くなりました。そして、残った一人は町の教会へ行ってお葬式の為に牧師と相談しに訪ねました。彼は、牧師に一つ頼みがあると言いました。それは「お葬式の時、是非兄を『聖人』と呼んで欲しい。そうすると、家族に大きな慰めになるから」と頼みました。牧師は、「それはちょっと難しいですよ。町の人は皆、お兄さんの事をよく知っていますから、『聖人』と呼んだら笑われるかもしれません。しかし、弟は願い続けて、「お願いだ。お葬式の時、兄を聖人と呼んで下さい。そうすれば、教会に$1、000献金します」と約束しました。

仕方なく、牧師はお葬式の時、そうする事にしました。そして、お葬式の際、牧師は立ち上がって、皆の前でこのようにお話をしました。「故人は乱暴で、長い間我々の町に迷惑ばかり掛けました。その上、勘定も沢山残して亡くなりました。しかし、とても嬉しい事ですが、故人について少なくとも一つの良い事を言えると思います。それは、弟さんに比べると故人は本当に聖人だったと正直に言えます。」

【年の初めに】
皆さん、開けましておめでとうでございます。主イエス・キリストの2006年にも、神の豊かな、豊な恵みが皆さんと皆さんのご家族一人一人の上にありますようにお祈りします。

お正月に、新しい年の玄関に立つ際、私達それぞれは、自分の生き方を吟味する良い機会が与えられています。特に、造り主である、愛する神の前に、私達は自分自身の態度と優先権が与えられた事を新に見るべきだと思います。

今朝、与えられた聖書のお話は特にお正月に相応しい神からのメセージになります。とても短い聖句ですけれども、意味が深く、もし2006年にこのお話を覚え従うと、きっと信仰の生活がよりもっと豊になると信じます。

【賢い者として気を配りなさい】
神の御霊に導かれ、使徒パウロはこのお話をエフェソと言う町に住んでいるキリスト者に書きましたが、この大事な教えは今朝、私達にも神の御言葉になります。

さて、もう一度今日の御言葉を聞いて下さい。

エフェソの信徒への手紙5章15--17 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」

先ず、聖句の15節によりますと、


「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」

ちょっと見たところでは、当たり前のようなアドバイスになりますね。結局、

「賢い者として気を付けなさい」

と言うお勧めなのです。実は、私達は「気を付けて下さい」と言う表現をよく聞きます。そして、周りの者にもよく使います。あんまりにも普段の表現ですから、挨拶の一つになりました。しかし、使徒パウロはここでただ挨拶するつもりではありませんでした。15節の文脈を見ますと、パウロはここで私達の時間の使い方について語っている事が明かになります。すなわち、

「愚かな者としてではなく、賢い者として、あなたに与えられた時間を細かく気を配って用いて、生涯を歩みなさい」

となります。

【時間】
言うまでもなく、私達のこの世での時間は限られています。そして、限られているから、とても貴重です。私達が皆若い時は、時間の大切さが分りませんでした。時間が無限にあるように思われて日々を過ごして来ました。そして、ある時は時間が経つのがあまり遅く、焦れったいでした。特に、学生の時代、自由になる夏休みになるまでは随分長かったですね。一日は一ヶ月のようでした。また、プレゼントが貰えるクリスマスを待つ時も長かったのです。しかし、先週クリスマスが来たのは速かったですね。年を取ると共に、時間が目まぐるしい速さで追って来るようです。2005年があっと言う間に終わって、今日は2006年の元日になったのは実は、信じ難いです。

そして、このスピードに乗っている私達はこの世での日々が限られているのです。与えられた時間は大事な時間なのです。一日が終わると、もちろんその日を取り戻す事が不可能です。私達の限られた生涯と日々は神から与えられた賜物です。ですから、その日々を無駄に使う人は神の賜物を価値のないものとして用いる事になり、使徒パウロが言及した「愚かな者」になります。その反面、「賢い者」は与えられた日々、一日一日を神の貴重なプレゼントとして受け入れ、上手に用います。

詩編90編12節にこの御言葉があります。

「生涯の日を正しく数えるように教えて下さい。知恵ある心を得る事が出来ますように。」

恐らく使徒パウロはこの詩編の個所を思い出しながら15節のお勧めを書きました。

先程、私達は使徒信条を一緒に告白しました。その最後の言葉は、「我は永遠の生命を信ず」です。イエス・キリストの贖いのお陰で主を信じる者は誰でも永遠の命を期待出来ます。つまり、この世での生涯が終わると、天国で神と共に永遠に生きられます。その天国での存在は想像出来ない程素晴らしいものですから待ち望むべき事です。しかし、その存在はこの世での生涯と違って永遠ですので、ある面で、この世での限られた期間はもっと貴重になります。

【天国で出来ないことをこの世で】
実は、天国で出来ない事をこの世では出来ます。

例えば、この世で人をイエス・キリストに導く事が出来るし、信仰を実行出来ます。また、悪と戦えます。神は私達一人一人に命を与えて、限られたこの世での時間に、仕事をさせて下さいます。ですから、忠実な賢い者として、気を配って授けられた日々を大事にするべきです。

【悪い時代にあってこそ】

続いて、16節にこの御言葉が記されています。

「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」

つまり、神から与えられた奉仕と証する機会をもって、この世での限られた時間に主と隣人を愛し、喜んで仕える事です。どんな状況と環境においても、神は私達全てに奉仕する機会を下さいます。その機会を逃れる事は出来ますけれども、神によって用いられる事は私達の最高の喜びなり、人生の一番大事な目的ですから、逃げると非常にもったいないです。与えられた時を無駄にしてしまう事になります。神は私達に毎日、御自分の働きに参加する機会を下さいます。仕える心があればその機会を見つける事が出来、その御用を果たせる為に主は力と知恵を十分与えて下さいます。

そして、特に「悪い時代」にあって仕える心を必要としています。「悪い、あるいは難しい時代ですから、何も出来ない」と思いがちですが、実際に、その逆なのです。悪い時代に証しする機会が多くなります。悪と戦うと人を助ける機会も増えて来ます。使徒パウロは牢に入れられると、それは囚人と看守をキリストに導く機会と思って喜びました。ですから、時が良くても、悪くても、神と隣人に仕える機会が十分あります。

【主イエスに倣って】

最後に、使徒パウロはこのように勧めて下さいます。17節を見て下さい。

「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」

しかし、私達はどのようにして主の御心が分るのでしょうか。実は、それは神秘的な分り難い事ではありません。神の御心を知ろうとしたら、神の「言」、すなわち、御自分の独り子イエス・キリストに聞かなければなりません。間違いなく、イエス・キリストの教えを聞いて従ったら、主の御心が何であるかを悟ります。去年私達は共にイエスの山上の説教を学びました。そこには主の基本的な教えがありました。

復讐してはならないや、敵を愛しなさいや、人を裁くなや、思い悩むな、などを新に覚えました。その主イエスの教えを通して私達は神の御心が分ります。ですから、私達は常にイエスの教えに集中しなければなりません。アメリカで「what would Jesus do?」と言う表現は人気があります。つまり、「イエス様だったら、どうしたでしょう」ですね。何でも私達は先ず主イエスを思い起こす事が出来ます。

愛する兄弟姉妹、2006年に今日の御言葉を実行しましょう。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」

この御言葉に聞き、主に従うと、きっと神が与えて下さる喜びと人生の真の目的が2006年にも私達自身のものになります。 (おわり)

2006年01月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

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