「信じる自分を見つめるときに」山中恵一神学生

山中恵一神学生


聖書:エフェソの信徒への手紙1章3‐6節

◆キリストにおいて満ちあふれる神の恵み

3:わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

4:天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5:イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

6:神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。


【あいさつ】
今朝はこのように、学びの途上にある神学生に御言葉の奉仕を許していただきまして、ありがとうございます。この場に遣わしてくださった神様と、迎えてくださった皆様に心から、感謝をいたします。また、私どものいます神学校が、みなさまからの本当に多くのお祈りと献金とに支えられていますことを神学校に変わりまして心より感謝をいたします。

【日本の教会、初代の教会】

さて、私たち神学生には一年毎に違う教会で奉仕するという決まりがあるのですけれども、そうした中で今まで自分の通いなれた場所以外の教会へ伺う機会が多く与えられてきました。遣わされる先々の教会で礼拝が守られていることを目の当たりにしますときに、「本当に神様はこの日本の様々な場所で恵みを伝え広げているのだなぁ」と神様のお働きの大きさをつくづく思わされることが何度もありました。と同時に本当の神様を知らない人々の只中で、犠牲を払いながら教会生活をおくられている方々の熱心にいつも励ましを与えられてまいりました。

数えられる程の教会にしか足を運んだ事はありませんけれども、どの教会にも「神様を知らない人々の只中にありながらも、神様と共に生きる喜びを心から味わっている方々」がおられました。聖書の中で登場する多くの教会もまた、そのような喜びと苦しみのなかで生きる群れとして、その姿を記されています。そして、今朝お読みいただいた「手紙」を受け取った教会の人々もまた、神様を知る喜びを知りながら、神様を知らない社会の中で生きる、そのような人々でありました。

【エフェソの教会】

この手紙の受け取り手がどのような人々であったか、「エフェソの信徒への手紙」の宛先が1節に書かれています。そこには「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」とあります。詳しくお話する時間はないのですが、この手紙を調べてみますと、この「エフェソ」という地名は、もともとは書かれていなかったようです。ですから先ほどの1節にありました宛先から「エフェソ」と言う言葉を取りますと、この手紙の宛先は「聖なる者達、キリスト・イエスを信じる人達へ」となります。そのような理由から、この手紙は一つの教会ではなく、広い地域にいくつかの教会に向けて「それぞれの教会で回し読みするように」と書かれたものであると考えられています。また、手紙の中ほどで受け取り手を「あなたがた異邦人」と呼んでいますので、この手紙の宛先はユダヤ人以外の外国人であったことが伺えます。

【手紙の背景】

手紙の宛先に触れさせて頂きましたが、彼ら外国人クリスチャンはどのような状況で生活していたのでしょうか?この手紙が書き記されたローマ帝国の時代、ほとんどの人々は「イエス・キリストという救い主が来られた」などということは知らずにいました。むしろ、ローマの人々にとっての救い主とは、強力な軍隊によって世界を征圧したローマ皇帝のことであり、彼らは国をあげて皇帝を崇めていました。そして、そこで生きる多くの人々がローマ帝国の目指す世界をつくるために人生を費やしていました。あるものは立身出世を野心とし、あるものはローマ帝国の人々の生活を支えるために労働を強制され、あるものは音楽や文学に陶酔し、あるものは快楽に没頭し、と、そこで生きる人々はローマ帝国の造り出す価値観の中で人生を送っていたことと思います。本当の神様を知らない人々の産みだす社会、そこで生きることは、聖書の時代の教会にとって多くの悩みを伴ったことでしょう。

【主を信じる者の悩み】

そうした悩みのなかには、「教会に集う時間を持つことがなかなか難しい」「毎日の中で神様と向き合う時間をつくることが難しい」「労働の忙しさの中で自分を見つめることにさえ時間を割くことができない」「自分の好き勝手に生きる人たちから受ける誘惑に葛藤をおぼえている」おそらく、こうした現代の私達と変わらないような悩みを抱えていた人も少なくなかったのではないでしょうか?神様から聖なる者とされたことによっておこる今まで生きてきた社会とのズレ。イエス・キリストを信じることによって生まれる、社会の価値観との戦い。そうした中にありながらも、神様への礼拝を守っている人々。今朝、私達が聞いた手紙の宛先は、このような神様を認めない世の中で生きることに奮闘している人々でありました。

【3節:神を祝福し、神に祝福される】

 そうした信仰の戦いの最中にある教会に書き送られた手紙が、この「エフェソの信徒への手紙」です。そして、そのような中で書かれたこの手紙の冒頭を飾るのは、壮大な神様の御業を褒め称える賛美の言葉でした。3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神はわたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」・・・・この賛美は3節から14節までがひと続きとなっている賛美ですので、全体を聞くことが必要なのですけれども、まるでいくつもの宝石がつまった宝箱のような賛美ですので、散りばめられた恵みを丁寧に味わうために、今回は3節から6節で区切りをつけさせていただきました。

【牢獄のパウロ】

さて・・・ここで賛美を語っている人物、1章1節を見ますと、それはパウロであると書かれてあります。彼がどのような状況で、自分に与えられている祝福を覚えているのかといいますと、それは牢獄の中でした。このことはこの手紙の中ほどで語られています。この先に自分がどうなるか知れない、先の見えない毎日。行きたい所にも行けず、会いたい人にも会えない自由のない縛られた毎日。こうした身も心も締め付けられるような状況の中であるにもかかわらず、パウロは自分に与えられている祝福を見つめ、神様を賛美しているわけです。

【パウロの讃美】

さきほど、この手紙はエフェソ教会だけにではなく、広い地域に向けて書かれた、ということをお話しました。偉大な伝道者である使徒パウロが囚われの身となった、というニュースは多くの教会にとって、悲しいニュースであったに違いありません。「パウロ先生は喜ばしい福音を伝えてくださったけれど、結局は捕まってしまった。」「この先、教会は一体どうなってしまうんだろうか」「パウロ先生は無事でいるだろうか」多くの、不安や困惑がパウロを知っている教会を襲ったことと思います。また、パウロも牢獄での面会や手紙などを通して、教会の人々の悲しみを伝え聞いたことでしょう。

 パウロがそのような状況にありながら手紙の冒頭で賛美を語るのは何故でしょうか?この賛美は「手紙」に書かれている賛美です。手紙である以上、この賛美は何の考えもなしに気分きままに口から出たものではないでしょう。手紙とは自分のためではなく読む人に何かを伝えたくて書かれるものだからです。パウロが牢獄で祝福を数え、神様を賛美しているのは、つらい自分を慰めるためではありません。

むしろ自分が投獄されたことにショックを覚えているであろう教会のためでした。パウロは、自分が今まさに福音を伝える働きの最中で命の危険にさらされていました。しかし、それにもかかわらずイエス・キリストを信じぬこうと戦っている教会の人々に向かって、褒め称えるほどに素晴らしい神様の祝福の偉大さを伝えて、なんとか力を与えようとしているわけであります。

【神を讃える】

では、その賛美の中身とはいったいどのようなものなのでしょうか?パウロはこの賛美の中で「たたえる」という言葉を何度も繰り返しています。「主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」また6節では「輝かしい恵みを私達がたたえるためです」とあります。12節には「わたしたちが、神の栄光をたたえるためです」そして14節「わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」このように見てみますと、この賛美は「神はほめたたえられますように」と神様の壮大な救いの御業が次々と語られていくのですけれども、その救いの御業とは、私達がかみさまをたたえるようになるために行われたのだ、と所々で結ばれていることが見てとれます。

【たたえるとは】

パウロの賛美を深く知るために少しこの「たたえる」という言葉に注目したいと思います。

日本語ですと「たたえる」という言葉は「褒める」「相手のことをよく言う」という意味合いが強いかと思います。この賛美に再三出てくる「ほめたたえる」と翻訳されている言葉は、もとのギリシア語ですと「祝福」と翻訳されている言葉と同じ言葉です。つまり、この「たたえる」という言葉は、ただ何はともかく相手の事を褒めちぎるというのではありません。「相手を祝福する」「相手を大切にする」という気持ちと一緒に投げかける言葉です。「私たちが神様をお祝いする気持ちに先立って、まず神様の方から祝福が与えられているのだ」ということがここでは賛美されています。祝福とは相手が幸せであることを心から喜び、また願う思いです。神様から祝福を頂くとは「神様が自分のことを喜びとしてくださっている」ということです。

【神を祝う】

そして、そのように私達の幸せを喜びとしてくださる神様を私達もまたお祝いすることが許されています。許されているどころか、神様は私たちのそうした気持ちを求めておられる、このように言えるかもしれません。神様は私達からお祝いなどされなくても全ての豊かさを持っておられる方です。しかし、神様は私達から神様に贈る喜びの気持ちを心から喜んでくださる方でもあるわけです。神様から喜びを与えられ、喜びを与えてくださる神様をほめたたえる。地上にありながら、天におられる神様との繋がりを喜ぶ事が手紙の宛先である「イエス・キリストを信じる人たち」には与えられています。

【主イエスのおかげで】

イエス様という方のおかげで、天におられる神様と繋がりを与えられ、親しく愛しあい喜びあう関係とされたこと。これこそが今、私達がいる礼拝の場であり、これこそが私達、教会に与えられている祝福の中心です。「私はお前達の存在を喜びとする。お前達も私を喜びとして欲しい」神様はこのように私達を求めてくださっているわけです。

【4-5節:愛による選び】

そして、「神様の私達への思いは、世界が始まる前からあったのだ」このようにパウロは続けます。4節、5節「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようとキリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」

【御心のままに】

私達を心から求めて下さる神様は、「聖なる者、汚れのない者とするため」つまり、私達が御自分にとって特別な存在、尊い高価な存在となるように、私達への愛を貫きとおすという決断をしてくださいました。世界が作られる前に決断をされた、ということは、裏を返せば、世界とは神様が私達と親しく喜びあうために造られたのだ、と言えるかもしれません。

少し、御心という言葉に留まりたいと思うのですが、私は小さい頃「御心のままに定められた」と聞くと「なにか気分気ままに適当に決めた」という印象を受けていたことを覚えています。「御心」という言葉が日常生活であまり使われない言葉であったためかもしれません。直訳的に直しますと、「神の意志が良いと決断したところに従って、あらかじめ定めた」となります。「御心のままに」とは強い思いと決断とを含んでいるわけです。神様は誰でも良いけれど、適当にみつくろって自分と付き合うもの達を選んだわけではありません。「お前達をこそ、私は自分の子供として愛したい。お前達こそ、私が愛を注ぐ相手なのだ。お前達を喜び、お前達から祝福されることこそ、私にとって最も良い交わりなのだ。私はお前と付き合いたい!そのためになら、私は自分の愛する子どもをもお前たちに差し出そう!」神様はこのように強い意志を持って、私達を愛し抜こうと決めてくださったのです。

【6節:輝かしい恵みをほめたたえるために】

この決意がなされた理由が6節に続きます。それは「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるため」でした。

【信じる自分を見つめるときに】

今朝の説教に「信じる自分を見つめるときに」という題を付けさせていただきました。聖書が約束している私達の姿を見つめるならば、私達はイエス・キリストの血の代償によって神様の前に犯罪者であった責任を免除して頂き、汚れを清められて神の子とされた者達です。しかし、そのような祝福を頂きながらも、実際の忙しい生活の中で自分を見つめるときに、そこには罪深い世界で生きる苦しみや弱さや欠けを抱えながら生きる自分、とても輝いているとは思えない自分が、目に付きはしないでしょうか?また、自分ではなく、神様を認めようとしない現代の人々を見つめるときに、その中で伝道をすることに多くの困難を覚えることがあることかと思います。神様を知ろうとしない社会。その中で生きる私たちは、自分の信仰を強めるためにも、また人に信仰を伝えるためにも、まず何よりも大切にしなくてはならないことがあります。それは「私は確かに神様に愛されているのだ」そのことをしっかりと覚える、ということです。

【神様の憐れみゆえに】

神様は実に私達がイエス・キリストに気づく遥か以前から、ここにいる一人一人に対して決意を持っておられました。それはみなさんを愛しぬこうとする決意です。それは、罪にまみれて生まれる私達汚れた人間を御自分のものとして、清めて愛そうとする決意でした。その決意とは「この愛のためならば我が子をも惜しくはない!」と言われる、溢れんばかりの愛から出る決意です。そして、この愛は、なにか私達が、美しい植物を大切にしたり、可愛らしいペットを大切にしたりという類の、格好のよさや愛らしさに酔いしれるようなものではありませんでした。

むしろ、何も良いものがない、とても愛するには及ばない。それどころか、かえって怒りすら覚えるようなそんな汚く、惨めで傲慢な者達に対して、神様は愛する決意をもたれたのです。それは、ただ私達を憐れんでくださったからにほかなりません。愛するに及ばない私達。命の源である神様から離れ去り、滅びを待つだけであった私達。そんな私達を憐れんでくださった御方は、滅びの道から私達を助けるばかりか、さらなる愛を注ぐため御自分の愛するひとり子を十字架に架けてくださいました。そして、その血によって私達を洗い清めて、神の子の身分さえも受け取ることが出来るようにしてくだったのです。

それどころか、散々に神様を裏切り続け、神様を悲しませる事ばかりである私達にも、神様を愛する事を許してくださり、この私達の小さく、か細い愛を求めてくださるというのです。ともに喜びを分かちあおうと招いてくださるのです。私達に与えられている恵みの何と素晴らしい事でしょうか。私達を満たしている祝福の何と豊かなことでしょうか。

【結語:与えられた信仰=神から愛されている事のしるし】

 私達に信仰が与えられていることの恵み。わたし達に罪の赦しが与えられていることの恵み。それはただ「自分が死んでも天国にいくから大丈夫である」とか「この世の終わりの裁きに対して安心が出来る」という死ぬ事や滅びることの中でしか味わえない恵みだけではありません。「イエスさまを信じる思いが与えられている」という恵みには壮大な広がりがあります。

【主の恵みの壮大な広がり】

その広がりとは、永遠の昔に、「おまえ達を命がけで守る」と決意された神様の愛が、世界が創造されてから今に到るまでの時間をかけて、さらにわたし達の耳に御言葉となって入り、私達ひとり一人の心に信仰という形で刻まれ、愛を知らないわたし達が愛する思いを与えられて、今日、この日、この今に神様をほめたたえる気持ちをおこされ、やがては神様の素晴らしさがこの地上を満たしていく、それほどに壮大な恵みの内に私たちは生きています。自分の内にイエス・キリストを救い主として求める心が与えられている、ということは、このような壮大な広がりを持つ神様の愛が自分に働いているということです。そして、そのような壮大な神様の愛の中で自分が生きているということです。

【神さまの愛の中で生かされているわたしたち】

神様を知らない人々の作る社会で無理解に囲まれながら生きることは時に苦しいかもしれません。皆さんから神様と共に過ごす時間を社会は奪おうとするかもしれません。テレビや映画、音楽にゲーム、様々な娯楽や趣味の内にも神様を知らない人々の価値観が溢れかえっています。神様を知らない人々の造り出す社会で生きるとき、やる事の多い毎日の中で、イエス様に従うことを喜ぶ時間というものは一握りのものかもしれません。それこそ、現代社会は牢獄のような生活の中に私達を閉じ込めようとするかもしれません。しかし!そうした、様々な葛藤や迷いの中で弱さを覚える時にこそ、皆さんの内にキリストを信じる信仰が与えられている、という、その輝きに目を向けていただきたいと思います。

信じる自分を見つめるとき、そこには神様から与えられている祝福があります。

信じる自分を見つめるとき、そこには神様から与えられている信仰があります。

信じる自分を見つめるとき、そこでは、神様もまた、そんなあなたを変わらない愛で見つめておられます。

私たちは自分に信仰が与えられていることを覚えるとき、何度でも、何度でも、自分が神さまの愛の中で生かされていることを味わうことができるのです。聖餐式の中で、週ごとの礼拝と説教の中で、日ごとの祈りの中で、際限なく何度でも、何度でもです。

【命の道を求めておられる方々へ】

また、今朝、お集まりになられている皆様の中には、まだ、神さまに愛されて生きることの恵みをよく知らない方がおられるかもしれません。神様は聖書を通して、天地の全てを造られた神様の愛の中で喜びに満たされる人生を与えてくださいます。そして、この世界が何であるのか、自分が何のために生きているのか、人生の確かな足場を与えてくださいます。今、イエス・キリストを信じるその途中におられる方々が、イエス・キリストを信じる恵みに一日も早く加えられますように、教会は皆様に信仰が与えられるその日を心よりお待ちいたしております。

今、すでに信仰を与えられている方にとっても、また今、まさに信仰が作られようとしている方にとっても、この一週間が、神様からの愛を喜びほめたたえる一週となりますように。お祈りをしたいと思います。お祈りいたします。(おわり)

2009年06月07日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書

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