神に倣う者となりなさい ウイリアム・モーア

聖書:エフェソの信徒への手紙4章25−5章2

◆新しい生き方

 25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27:悪魔にすきを与えてはなりません。28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。5章1:あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 2:キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

 

【ハロウイーン】

この10月31日、 アメリカからの帰りで私は関西空港から六甲アイランド行きのリムジン・バスに乗りました。丁度バスが六甲アイランド停留所に着いた時、窓からとても意外な光景を目にしました。それは十数人の小学生の仲間がハロウイーン・コスチュームの姿で歩いていた事です。ミイラや妖精、魔女、オバマ大統領、スーパーマンなどの姿で夢のように現れました。そして、旅の疲れや時差ぼけの影響で、それを見た瞬間、私はまだロサンジェルスにいて、日本に本当に帰っていないのではと錯覚してしまいそうでした。最近、日本でも10月31日のハロウイーンが流行ってきて、楽しい子供の祭りのようになりました。この世はだんだん小さくなるのだなーと思いました。

【ハロウイーン・コスチューム】
恐らくハロウイーンの国際的魅力はおもにそのコスチュームの事でしょう。子供達が一晩でも、憧れたキャラクターや人物になりきって、その真似をする事はとても楽しいです。

ある子供がハロウイーンの為に神様になりたいとお母さんに言いました。そして、「神様は、どんなコスチュームをするの」と聞かれると、こう答えました。「もちろん、白い衣を着て、またかつらと長いヒゲもつけ、靴はビーチ・サンダルで良い」と答えました。
 

【神に倣う者となりなさい】
今日の御言葉に使徒パウロは、「神に倣う者となりなさい」と教えたのです。それはどう言う意味なのでしょうか。皆は白い衣を着てイエス・キリストの服装をハロウイーンのように真似しますか。もちろん神に倣う事は衣服の問題ではありません。心と行動の事です。

しかしながら、自分が神に倣えると思う人はちょっと生意気ではありませんか。どのようにして弱くて罪深い私達が全知全能の唯一の神を真似する事が出来ますか。神の力と知恵と愛は限られていませんが、私達人間は全ての面で限られています。ですから、神に倣う事は私達に無理ではありませんか。今日の御言葉、「神に倣う者となりなさい」は不可能な要求ではないでしょうか。

【神に倣う生き方】
言うまでもなく、私達は完全に神に倣う事は出来ませんが、信仰生活は神に似ていく歩みなのです。つまり、私達の生き方を通して神に倣うという事です。神の助けで今日は昨日より主の真似をうまくする事なのです。ですからこの御言葉は決して私達に無理な要求をしません。

【隣人に対して真実を語る】
さて、今日与えられた御言葉をもって、神に倣う生き方を覚えましょう。エフェソの信徒への手紙4章25節を見ますとこう記されています。

「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私達は、互いに体の一部なのです。」


神は真実なお方です。また、主イエス・キリストは御自分について「私は真理である」とおっしゃいましたから、神に倣う私達も真実を言うべきです。全ての偽りを捨てて、真実を語る必要性があります。

【偽りの言葉】
特に、自分を守る為、また相手を中傷する為の偽りを捨てなければなりません。私達は一日何回偽りを言いますか。数えて見るのも良いかも知りません。それも愛する子供に、主人に、奥さんに、親友に、隣人に、教会の兄弟姉妹に、ちょっと忙しくって、時間がなくって、体の状態がよくなくって、車が混んでいて、ある時は子供までも巻き込んでこう言う人もいます。家の子供が熱を出して、明日子供は試験があるから、それだけよりも私達は数え切れないところで偽りを言います。それが相手の気持ちを大事にする為だと考えながら続けて偽りを言います。真実があるにもかかわらず言い続けます。真実が言えるのに偽りを言います。

【我が家の例】
家の子供達が小さい時の事ですが私は家内ともめる事がありました。それは朝になると7時なのに「もう7時半よ、早く起きなさい。学校におくれるよ」と偽りをいいました。その内、ママが7時半と言っても子供達は7時ぐらいだと分かって来ましたので、まもなくその方法は使えなくなりました。私達は個人であれ、グルプーであれ、「真実を語るべきです」と神は今私達に言っています。

【私達は、互いに体の一部なのです】
なぜなら、「私達は、互いに体の一部なのです」と書いてあります。 私達キリストの教会員は、互いにキリストの体の一部なのです。互いに真実を語らないと私達の交わりの一致を壊してしまいます。その反面、全ての事において「愛に根ざして真理を語る」と(エフェソの信徒への手紙4:15)私達はお互いに助け、教え、励まし、祈る事が出来ます。神に倣う者は偽りを捨て、真理を語ります。

【怒る事】
次は26節から見ましょう。「怒る事があっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」と記されています。動機によってある怒りは罪です。また他の怒りは正しいです。大抵、怒りは自分の為の怒りなので罪になります。例えば、誰かによって傷をつけられると、私達は武器として怒りをもって相手を攻撃します。結局、自分のプライドを守る為に相手に攻撃し、怒ります。その怒りは自分を滅ぼしてしまいます。またその自己中心的怒りは罪なので、神に倣う者となりたい私達はそのような怒りを捨てるべきです。

【正しい怒り】
その反面、主イエスは正しい怒りを示して下さいました。それは神様と正義の為の怒りでした。覚えていると思いますが、イエスは怒って、エルサレムの神殿で不当な商売をする人を追い出しました。彼等は神の名誉を傷つけましたからです。また、主は罪と罪の結果に対して怒りを表しました。そのような怒りは正しいので、私達も示すべきです。

【怒りは悪魔にすきを与える】
けれども、殆ど全ての私達の怒りは先に言った自己中心的怒りではないかと思います。その怒りに対して御言葉はこう教えます。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」すなわち、そのような怒りをすぐ告白し、悔改める必要があります。そうしないと、「悪魔にすきを与える」と書いてあります。何故なら、あんまり怒ると悪魔はそれを用いて、私達の中に入り込み悪魔によって支配されてしまいます。その結果は普通に出来ない悪事が出来るようになります。自己中心的怒りを止め、正しい怒りだけを示すと、私達は神に倣う者となります。

【盗んではいけません】
続いて28節を見て下さい。

「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」


と書いてあります。「盗んではならない」は当たり前の事ですが、聖書に於ける盗みの理解は広いです。

【聖書に於ける盗みの理解】
例えば、払うべき税金を避けるとそれは盗みになります。正当な賃金を払わない事と借金を返さない事も盗みです。まともに働いて生計を立てる事には名誉があると聖書が教えます。

【困っている人に分けるべき】
そして、儲けた物から余った分をただ蓄えるのではなく、困っている人に分けるべきと記されています。そうすると、私達は神に倣う者となります。

【有益な言葉】
29節と30節の所を見て下さい。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」


原文を見ますと、ここでの「悪い言葉」の悪いは、価値の全く無い腐った、いやな臭いなどを表す事です。そして下品な話やうわさ話などの代わりに、恵みと励ましになる必要な事を話すべきです。そうすると私達は神に倣っています。

【聖霊を悲しませない】
その反面、悪い言葉を使ったり、怒ったり、偽りを言ったり、人の物を盗んだりすると、私達は聖霊を悲しませます。私達の永遠の救いの為に愛する神は大きな犠牲を払いました。ですから、感謝から神の子供として相応しくない、神を悲しませる一切の行動を止めるべきです。

【悪意を捨て許し合いなさい】
31節にこの御言葉が書いてあります。

「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」


の悪徳は人間関係を壊してしまうので、当然してはいけない事です。その反面、32節に記されたように、

「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦して下さったように、赦し合いなさい」


と教えられています。神に倣う者となりたかったら、私が神から受けたような赦しを周りの者に現すべきです。私達は罪深い者なのに神はイエス・キリストを通して、親切と憐れみと赦しを豊かに授けて下さいました。赦しに値しない私達は赦されましたので、神に倣って、同じように私達は親切と憐れみをもって、赦しに値しない隣人も赦します。その事によって、神の行動を真似する事が出来ます。

 

【愛によって歩む】
しかし、愛する兄弟姉妹、一番大事な真似すべき事はまだ語っていません。それは次の5章1節と2節にあります。

「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私達を愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私達の為に神に捧げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」

 

【互いに愛し合う】
どんな事よりも、私達キリスト者は第一に、神の愛を倣って生きるべきです。神は大きな愛をもって私達を愛して下さいましたので、私達は愛を周りの者に示します。ヨハネの手紙一4章10−12節にこの御言葉があります。

「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私達を愛されたのですから、私達もお互い愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私達が互いに愛し合うならば、神は私達の内にとどまってくださり、神の愛が私達の内で全(まっと)うされているのです。」

 

【互いに愛し合うことによって】

私達が救われたのは神に倣う者となる為です。特に神の愛を現す為です。周りの者は神を知らず、もちろん神を見る事が出来ません。しかし、私達を通して周りの人々は私達の内にいらっしゃる神の愛を知る事が出来ます。主イエス・キリストはこのように言われました。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子である事を、皆が知るようになる。」


(ヨハネによる福音書13章35)

 

【聖書の翻訳と一枚の聖句】
500年前に、一般の信者は聖書を読む事が出来ませんでした。何故なら、聖書は人々の言語に翻訳されていなかったのです。祭司とインテリしか分からないラテン語だけに訳されていました。ですから宗教改革者マーチン・ルーテルがドイツ語の聖書の翻訳に努めました。ドイツ語の聖書が初めて印刷された頃、印刷業者の娘が工場の掃除をした時、床から一枚の紙を拾いました。その紙にこの御言葉のみが記されていました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」


(ヨハネによる福音書3章16)

その聞いた事も見た事のない素晴らしい福音を自分の言語で読むと、大変嬉しくなりました。その一枚の紙に書いてある御言葉は彼女の生涯をすっかり変えました。神はこの世の人々を愛する、また自分は神に愛される者と初めて聞きました。

愛する兄弟姉妹、周りの者が私達と私達の行動を見るとき何を見ますか。聖書を知らない、読まない人々にとって私達こそが唯一の聖書になるかもしれません。(おわり)

2009年11月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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