「クリスチャンが気になるものは?」グラハム・スミス-CMS宣教師・KGK主事

聖書:1テサロニケ2:17--3:10 

1.大事なもの
人生を過ごしながら、何が大事か、何がつまらないか、わきまえるようになります。人生の経験を重ねることによって、判断する知恵が与えられ、成長します。大抵、子どもは物を大切にします。食べ物や飲み物やおもちゃなど。また、今、すぐに得るものを欲しがります。子どもを買い物に連れていくとその傾向は明らかです。

大人はどうでしょうか。どんなことを大事にしようとしているでしょうか。頭では愛とか、平和とか、健康とか、家族を大切にしていると言われるでしょう。でも、日常生活を見ると、大人も物を大事にしています。利益になるものや自分を満たすものにはまっています。

普通の生活では何が大事かあまり深く考えないですが、時々何かのきっかけで考えさせられます。数年前に私の26歳の妹が原因不明で亡くなりました。そのことで、私と残された家族は大分変わりました。大人らしくなったり、つまらない話をさけたり、不完全なことを気にしなくなったり、「今」という時の意識が強くなって、生きている特権をいつも覚えるようになりました。

人が病気になると何が大事か反省するようになる場合が多いです。この前、旅行の直前、連れていく親戚の子どもが病気なりました。長い間計画を立てて、待ち望んだ休みをとれないような状態になりました。その時の思いを振り返えって見るとすごく恥ずかしいです。子どもの健康のことよりも、自分のことしか考えなかった。7万円の新幹線切符の損、宿泊費の損、バケーションのキャンセルの損ばかり考えました。病気の子どものことは気にせずに、自分のことだけ考えてしまいました。親戚の子供だったので、その親に対する怒りもありました。

もちろん、さまざまな経験から何が大事であるかを考えさせられますが、聖書を読むとその課題がよく出てきます。今日の箇所では、パウロとテサロニケの人々との関わり方から、本当に大事なことは何であるかが見えてきます。別な翻訳では「生きがい」という言葉が出てきます。パウロの生きる意味、生きる目的は何であるか、はっきり書かれています。私たちのいきがいと比べることができます。

2.背景
今日から、11月まで、5回に渡って、テサロニケの信徒への手紙から神様の語りかけに聴こうとしています。まず、この手紙の背景を確認しましょう。この箇所と使徒言行録17章に合わせて読みますと、パウロとテサロニケ人々との関係が分かります。パウロは諸教会の最初の宣教師として、ギリシャにある町、テサロニケで3週間にわたって、聖書から、キリストについて、特に十字架と復活について、説明し、論証し、大胆に語りました。

その結果、何人かの人が信じるようになって、新しい教会が生まれました。教会は良いスタートをしました。ところが、反対する人がでて、パウロも教会の方も迫害を受けました。

ストーリーは使徒言行録17章5から続いてますから、読みましょう。

5−10節

「5:しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。

6:しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。

7:ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、 『イエスという別の王がいる』と言っています。」

8:これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。

9:当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。

10:兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。」

迫害のため、パウロはテサロニケの兄弟から引き離されました。テサロニケ人への手紙は「しばらくの間」離されたパウロからの手紙です。

今日の箇所から、その手紙の背景についてもう少し学ぶことが出来ます。

17--18節によるとパウロはテサロニケの所に戻りたかったです。パウロは心をこめて、語っています、

「顔を見たいと切に望みました」。

「そちらへ行こうと思いました・・・殊に(ことに)・・・一度ならず行こうとした」

でも、結局パウロはテサロニケに戻ることが出来ませんでした。その理由がはっきり書かれてありませんが、パウロはそれがサタンの働きだと認めています。

離れたパウロはクリスチャンになったばかりのテサロニケの人々の信仰が守られているかどうか、大変気になりました。彼らが迫害を受けることは驚かないことでしたが、その状態のなかで、誘惑に負けることを心配しました。それで、彼等の信仰を知るために、パウロは同労者であるテモテを遣わしました。

3章1--5節


「1:そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、

2:わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、

3:このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。

4:あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。

5:そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るため に、テモテを派遣したのです。」

そして、6節を見ると、テモテはパウロのもとに帰って、報告をしました。報告を受けたパウロはこの手紙を書くことにしました。

手紙の文書ですから、書く者と受ける者との関係が表わされています。パウロとテサロニケの人の間では愛に満ちた関係でした。テモテの報告によると、テサロニの人々もパウロに会いたがっているようです。互いに愛しあって、励まし会いたい関係でした。

3.パウロの生きがい
今日注目したい言葉は3章8節です

「8:あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」

別な訳では、「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今生きがいがあります。」

ここではパウロが大事にしていることが示されています。兄弟であるテサロニケの人々が主にしっかりと結ばれていることはパウロの生きがいです。彼らの健康ではなく、彼らの経済的な安心でもなく、教会の人数的な成長でもありませんでした。

ただ、彼等が主イエスとの信仰関係がしっかり守られていること。主との交わりが続けられていること。それがパウロの生きがいでした。

他の節にも信じ続けることの大切が書かれています。

3章5パウロは彼らの「信仰の様子を知るために」テモトを遣わしたのです。

3章6テモテは彼らの「信仰と愛についてうれしい知らせを伝えてくれました」

3章7パウロは彼らの「信仰によって、励まされました」

3章10パウロは彼らの「信仰に必要なものを補(おぎな)いたい」

と言っています。

パウロにとって、信仰に立つことは何よりも大切なのです。

私たちの生きがいと比べたらどうでしょうか。具体的な例を考えたいのです。

まず、家族に対する関わり方を考えましょう。親として、子どもに対して一番望んでおられることは何でしょうか。こどもが主にあってしっかり結ばれていることでしょうか。そうなら、子どもにどんなことをするでしょうか。主の教えを紹介するでしょう。学校では学べないから、親からでなければ、神のことに触れられないでしょう。ぜひ、家庭で子どもにふさわしい聖書の学びを提供していきましょう。

教会生活も大事ですが、任せきりはよくないのです。積極的に教会の子どものプログラムに関わった方が良いでしょう。子どもがいないからと言って無関心であるということはいけないのです。その場合、他の親を励ましましてください。孫さんもいるかもしれない。その孫の信仰のために、何かできないでしょうか。

中学生になると学校の行事とぶつかる場合が多いです。親が皆悩みます。個人個人の判断を認めたいです。私なら、日曜日以外の交わり場を提供することや、他教会や超教派の活動に積極的関わるように勧めます。青年は互いに励ましあうことによって信仰が成長します。

最近見た広告のことばがあります。「親が変われば、子どもが変わる」。それは大きいなチャレンジです。自分で聖書を読んだり、祈ったり、その姿が子どもに影響を与える。子どもは親の信仰を反映します。

子どもの信仰の継続は大きいな課題です。失敗ばっかりと感じている親がいるかもしれません。でも、あきらめないで、子どものために祈ったり、誘ったり、本やビデオを貸してあげたり、連絡を続けたりしましょう。長い面で見て、苦しみの中でも、自分自身の信仰を守り続けることは子どもへの証しとなります。自分の失敗を子どもと分かちあうことも意味があると思います。

子どもに対する関わりだけでなくて、家族の他のメンバーがいるでしょう。会う時信仰の話しをしますか。失敗を認めましょう。

難しい場合もありますが、キリストにあって立ってることは自分の生きがいなら、分かち合いたくなるはずです。出来ないなら、どうしてでしょうか。信仰はただの趣味だけなってしまっているかもしれません。パウロからチャレンジを受けましょう。

御存じのように、私はKGKの主事をして、大学生と関わっています。学生は決断する時期です。社会でどんな役割を果たすか、就職選択の悩みがあります。結婚のことも考えはじまっています。学生から決断についての相談があれば、次の基準で決めるようにと教えています:選ぶ道は信仰の助けになるか、じゃまになるか。例えば、その付き合いによって自分も相手もクリスチャンとして成長するか、そうではないか。その仕事を通して、クリスチャンとの交わりの生活が守られるか、少なくなるか。私たちもあてはまることがあると思います。時間の過ごし方、お金の使い方、働き方、人との関わり方は信仰生活と関係しています。神様は全生活のなかで実行するように願っています。小さいことでも、信仰に良い影響を与えるか与えないか判断できます。

3章8ではパウロの生きがいがはっきり書かれています。主にある友の信仰が堅く立てられること、そして、その信仰の続けることと成長でした。

別な節からでも、パウロが大事にしていることが示されています。

2:19を見て下さい。

「19:わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなた がた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。」

ここでも、パウロの生きがいが書かれています。パウロは別な言い方を使っていますが、意味は同じと思います。

テサロニケのクリスチャンが神様の前で(主にあって)最後の日(すなわち、さばきの日)に立てられることはパウロの望みと喜びと誇りと栄光です。パウロの生きがいです。

それはミニストリーの原則、すなわち、福音のために奉仕する基礎です。福音の働きは人を立てることです。福音を語ることによって、それを信じることによって、神の人が立てられます。神の働きは個人の信仰で終わらないで、信仰者の共同体を立てます。信仰を持っている一人一人が集まる、励まし合える、愛し合うコミュニティを立てようとしています。そのコミュニティは教会と呼びます。

教会は建物でなくて、集まっている信じる人々です。テサロニケにはパウロの働きによって、神の教会が生まれました。西谷でも、神の教会が立てられています。パウロはテサロニケの教会、そのひとりひとりの信仰と互いの信仰生活を喜びました。私たちはどうでしょうか。皆さんは西谷集会を喜んでいるでしょうか。クリスチャンとの交わりは私たちの誇りになるでしょうか、望みになるでしょうか、誉れであるでしょうか。

パウロの言い方は強いですが、彼にとって、教会は(それは本当の意味の教会をさしています)一番に優先順位とすべきものでした。テサロニケから離れても教会のことが一番気になりました。私たちが彼の模範から学ぶことがありますね。

4.主イエスが来られるとき
しかし、現実を考えると教会のために生きがいをもつことはありえないのではないでしょうか。集まっている方を見ましょう。人数がすくないし、信仰の弱り人ばかりという感じがしませんか。パウロと比較すると、励ましよりも、がっかりすることの方が多いでしょう。

もう一つの視点を紹介したいのです。それは終末の視点です。パウロはその視点を見ているから、テサロニケの人々が生きがいであると言えるようになりました。

2章19節をもう一度見て下さい。テサロニケの人々自身はパウロの希望、喜び、誇りだと言われていますが、それはいつになるでしょうか。

「19:わたしたちの主イエスが来られるとき、」

と書いてあります。テサロニケの人々はイエス様を信じるようになって、救われています。彼らは変えられました。信仰と愛と希望を実現する生活を歩んでいます。でも、まだ罪を犯す者、失敗をする者たちです。救いの完成を待ち望む人たちです。

パウロは神様が将来に必ず完成してくださるテサロニケの人々(教会)を信じています。その最後の日、さばきのときを意識にして、今の人生を過ごしています。一番大事なことはその日に残るのです。立派な家が残らないでしょう。会社が残らないでしょう。学歴が残らないでしょう。銀行に預けたお金も残らないでしょう。何が残るでしょうか。

パウロは他の手紙こう言っています、

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」(コリントの信徒への手紙一13章13節)。

その三つに深い関係がありますが、テサロニケの手紙では信仰においてまとめられています。土台は信仰です。信仰の対象は再び来られるイエス様です。愛は信仰から生まれる実行です。一番大事なことは最後の日に皆が信仰に立てているか、そうではないか。それはひとりひとりの課題でありながら、互いの課題でもあります。この手紙はテサロニエケの教会のためだけでなくて、私たちの信仰を強く励ますために与えられています。

最後に一つの具体的なことが書かれています。10節 それは祈ることです。

信仰は祈りから始まり、祈りによって守られ、祈りによって成長するものです。ここには信仰をまだ歩みだしていない人もいるし、信仰生活の始まったばかりの人もいます。信仰に落ち込んでいる人もいるかもしれません。共通点は、だれでも祈る事ができます。互いの信仰のために祈り合いましょう。

西谷集会はテサロニケの教会と似ていると思います。新しい教会です。パウロの励ましのことばを感謝して受けましょう。祈ります。(おわり)

2006年08月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 使徒言行録 , 新約聖書

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