自分を無にする事 ウイリアム・モーア宣教師 

聖書:フィリピの信徒への手紙2章1−11

 ◆キリストを模範とせよ   1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰     め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、   2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、     わたしの喜びを満たしてください。   3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに     相手を自分よりも優れた者と考え、   4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。   5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみら     れるものです。   6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固     執しようとは思わず、   7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ     ました。人間の姿で現れ、   8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で     した。   9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与     えになりました。  10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス     の御名にひざまずき、  11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父     である神をたたえるのです。  

 

【キリストに似ること】
この世にいる間、私達キリスト者はおもに一つの目的を持って生きています。それは私達の救い主イエス・キリストにだんだん似て行く事です。何故なら、キリストに従って、似て行く者はキリスト者です。そして、同時に、キリスト者はキリストに従って似て行く者であります。その上、私達はキリストに似て行く事が何よりも父なる神の御旨であり、何よりも主を喜ばせる事であるとよく知っています。
 
【イエス・キリストに似て行く道】
今日の御言葉はイエス・キリストに似て行く道を教えて下さいます。この個所は私達がどういうふうに主イエスにより近づけるかを説明します。今日与えられた御言葉によりますと、イエスのようになろうとしたら、私達は先ず主との同じ態度をとらなければなりません。フィリピの信徒への手紙2章5節の所を見て下さい。使徒パウロはこのようにフィリピと言う町にいるキリスト者に語りました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト•イエスにもみられるものです。」
 
原文を調べると、その表現は、「キリスト•イエスの同じ考え方、あるいは同じ態度をとりなさい」となります。つまり、主イエスの態度と価値観が自分のものになると、私達の動機と行動が変わり、徐々にイエスに似ていきます。

【主に似ること1:イエスと同じように人を愛し、仕える】
今日の個所によりますと主イエスに似て行こうとしたら、三つの態度を心からとるべきです。第一に私達はイエスと同じように人を愛さなければなりません。「隣人を自分のように愛しなさい」と主が教えられました。つまり、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということです。
 
【イエスを模範に】
実際に私達自身はどうでしょうか。私達はイエスを模範として良い時でも悪い時でも積極的に善い行動を持って人に仕えますか。例えば、友のない人の友になり、立場の弱い者に手を伸ばし、物質的に困る人を助け、病気の者を癒し、人の悲しみを慰め、又、希望のない者に希望を与える事はキリスト者の使命です。主イエスはこの世を歩んだ間、そのような愛の業を現しましたので、主に似ていきたい私達は同じようなことに励むべきです。
 
【相手を自分よりも優れた者と考え】
イエス・キリストの同じ愛の精神を得るように今日の御言葉は更にこのように教えます。3節を見て下さい。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

    主イエスと同じように私達は自分の立場と利益、自分の都合と気持ちよりも、相手の事を大事にします。その上、相手を自分よりも優れた者と考えるべきです。それは難しいですね。殆ど誰でも自分自身の事を高く評価する傾向があります。私達は本能的に自分の知恵と判断力、又、自分の実力と正義に対して自信があります。そして、自分を相手よりも優れた者と思いたいのです。そうすると自分に自分の価値を確認出来ます。更に、相手の失敗と弱みと不幸さえも喜ぶ人が少なくありません。何故なら、「私はそのような人よりも善い人だ」と信じたいのです。しかし、主イエスに従う者は人の意見や知恵や能力や正義などを高く評価し、相手を自分よりも優れた者だと心から思います。そうすると私達の精神がすっかり変わり、主イエスに似ていきます。   【全ての人間関係の問題解決】 実は、ほとんどの人間関係の問題の原因はこの事に係(かかわ)っています。つまり、人々は互いに自分を相手よりも優れた者だと考えるから、色んな争いが生じてしまいます。しかし、逆に人々は互いに相手を自分よりも優れた者と考え、また自分の都合と気持ちよりも相手の事を大事にすると、全ての問題は解決出来、誰でも平和のうちに暮らせるのです。   皆さん、人との問題がある時、自分にこのように問い掛けてみて下さい。

「私はこの相手を自分自身よりも優れた者だと心から考えていますか。この相手を私より優れた者として扱っていますか。」


もしこの態度があれば、私達は主イエスに似ていく道、正しい道に立って歩んでいます。
 
【僕となって】
続いて5節のところから見ましょう。

「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト•イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」

 
私達の模範イエス・キリストは全人類の為の僕になりました。つまり、私達に仕える為、この世にいらっしゃいました。主イエスは全能の神の身分があって、永遠から天国であらゆる栄光を経験されました。しかし、人に仕えるために、その全てを捨てて、人間としてこの世に誕生されました。又、この世での良い条件ではなく、貧しい植民地で貧しい家族に生まれました。更にこの世で権力と富を持たなく、普通の人よりもへりくだって僕のように生きました。ここで「僕」として訳された単語は、実際には「奴隷」となっています。人類の為に永遠の神、主イエスは奴隷のような身分を自ら進んでとり、私達に仕える為いらっしゃいました。
 
マルコによる福音書10章42節に、この主イエスの言葉が記されています。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられる為ではなく、仕える為に、また、多くの人の身代金として自分の命を献げる為に来たのである。」

 
主イエスは自ら進んで僕になりました。ですから主に似ていこうとしたら、私達もキリストのような僕にならなければなりません。キリスト者は愛を持って積極的に人に仕えます。そして、自由に人に仕える事を通して私達は、人生の意味と満足感と喜びを得られます。この世の常識は反対ですね。人に仕えるのではなく、人によって仕えられる事は幸せだと思われています。しかし、実際に人間は仕えられる程、惨めになります。社会にその例がよく見られます。特に有名になり、人によって憧られ、お金で仕える人を得ても、人生の意味は空しく、惨めになるばかりです。
 
実は、気が滅入ってきたら、一番良い薬は人に仕える事です。特に、自分の助けが必要な人に仕えると、その時、自分の問題を忘れる事が出来、人生の本当の目的を悟り、喜びを感じます。
 
イエスに似ていくのなら、私達は小さい事からでも先ず人に仕える必要があります。主と同様に僕の心を持って、積極的に周りに仕える機会を探しましょう。   
 
【主に似ること2:自分を無にする謙遜】
次は主に似ていきたい人は謙遜を習わなければなりません。イエス・キリストはこの世に下ると、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
 
主イエスは「自分を無にした」と記されています。原文の文字通りの表現は、「自分をからっぽにした」となります。つまり、人間の永遠の救いの為に、神としての御自分の高い地位を捨ててしまい、喜んで身分の低い人間となりました。更に自分を守る為、神としての力を使わず、自ら進んで限られた人間としてこの世で生きられました。
 
そして、模範を示す為、御自分を低くして弟子達の足を洗って下さいました。その社会では足を洗うのは一番低い奴隷の役割でした。皆はサンダルを履きましたので足が埃と土で汚くなり、家に帰ると、水で足を奇麗にするのは奴隷の仕事でした。あんまり汚い仕事だったので、もちろん身分の低い人に任せられました。しかし、主イエスが弟子達にその役割を果たすことによって、彼等に謙遜を教えたのです。そして、弟子達も自分達を無にして、へりくだって人に仕える事が出来るようになりました。
 
私達は今も昔、皆よりも偉かった自分の立場をまだ覚えて捨てられませんか。全ては泡(あわ)のようなものです。私達も主を模範として謙遜を現すべきです。社会的地位にかかわらず、兄弟姉妹にだけではなく、へりくだって周りの皆にも仕えます。そうすると主に似ていきます。
 
【主に似ること3:イエスの従順】
最後に私達は従順に神に従う事によって主に似ていきます。8節を見ますと、主イエスは、「へりくだって、死に至まで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 
イエス・キリストは使命があったのです。それは私達の贖いになる為、十字架で御自分の命を捨てる事です。特に私達は今、受難節を迎え、主のその最も重要な御業を覚える時です。このイエス・キリストに学ぶ事によって、今年の受難節に心にまだ残っている解決出来てないものを全部主の十字架に委ねてみませんか。私達が主の十字架を考えると赦せないものがあるのでしょうか。キリストの従順のお陰で私達は救われ、罪が赦され、その上、神の家族に加えられました。しかし、主イエスに似ていくのなら、私達も神に従わなければなりません。御言葉にある神の教えを習い、主と同じように毎日の生活にその教えを実行します。神の為に犠牲になっても従います。それは私達の使命であり、私達の特権でもあります。そして、神に従順である程、主に似ていきます。私達の全ての行動は私達の愛する子供達、また孫、周りの人々が見ています。そして、その人々も同じ事を私達から学び実行します。
 
愛を持って人に仕える事と、心からの謙遜を現す事と、従順に神の教えに従い実行する事。主イエスに似ていく者はこの事を現します。主は私達に仕え、私達に謙遜を現し、そして私達の為に「死に至まで、それも十字架の死に至まで(父なる神に)従順でした。」
 
どうか私達一人一人も神の助けによって全てにおいて主イエスを模範としましょう。イエスに段々似ていく私達は神の喜びとなるでしょう。(おわり)

2008年03月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書

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