2015年3月8日説教「キリストの従順」坂部勇神学生(神戸改革派神学校)

L150308001.wav ←クリックすると説教が聴けますCIMG1002.JPG

「キリストの従順」

新約聖書

ピリピ人への手紙2章1~11

1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 5キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。



【自己紹介】

みなさん、はじめまして、神戸改革派神学校から来ました、坂部勇と申します。私は20124月から1年間は全科聴講生として神学校で学びました。翌年の2月の編入試験を受け編入学が許可され、その年の4月から本科生1年第3学期に編入しました。その後、引き続き神学校で学んできました。今は3年生となり、今年の6月に卒業予定です。年齢は46です。私の両親はクリスチャンで、私が小学校一年生の時にホーリネス系の単立教会から改革派教会へと転会しました。それと同時に、小学校の1年生の時に、私は幼児洗礼を受けました。1983520日のことだったと記憶しています。今から32年前です。

これまで様々な紆余曲折がありましたが、一方的な神さまの恵みにより召命感が与えられ、牧師への道を選びました。これまでの私の歩みを支え、導いてくださった主に感謝しています。西谷伝道所に神学校から派遣され、礼拝で奉仕させていただく恵みに与っています。

 

【教会の集まりとは】

さて、教会とは実に興味深い集まりです。様々に人たちが集まっています、年齢、性別、職業、生い立ちの違う人々が集まっています。ここに集まってくる人たちの共通点はこの世的な考えからははかり知ることができません。なぜ教会にはこのように多種多様な人々が集まってくるのでしょうか。

共観福音書にはイエスのガリラヤ伝道が書かれた箇所がありますが、そこには、主イエスの行くところ行くところ様々な人々が集まっていることを記している所が多くあります。 

 主イエス自身の魅力によって人々は主イエスのもとに集まってきていたのです。また、マタイによる福音書1820節から「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という御言葉があります。主イエスによって、主イエスに導かれて、イエスに合うためにいろいろな人たちが教会に集まっているのだなあと思います。教会を作るのは主イエスであり、そして教会は主イエスにより一つとなっているのだということをその箇所を読むたびごとにしみじみと感じています。

 

【フィリピの教会:教会の一致した実り】

本日はフィリピの信徒の手紙2111節から、教会の一致とは何か、教会の一致の模範について、そして教会が一致した実りについてご一緒に学んでいきたいと思います。

この手紙の書き手である使徒パウロは牢獄に監禁されながらこの手紙を書きました。宛先はパウロ自身が建てたフィリピの教会です。そのフィリピの教会には不一致がありました。内部の論争によって分裂していました。さらに偽教師たちによって間違った教えが入り込んでいました。信徒としてへりくだり隣人のために奉仕することは忘れられてしまいました。自己中心的な利己主義と倣慢の醜い状態がフィリピの教会にはありました。

 

【キリストのへりくだり】

パウロにはこの状態を診断し、治療する必要があったのです。そのため、パウロは「キリストのうちにある」信徒の生活に焦点を当て、信徒たちが見習うべきキリストのへりくだりを描いていたのです。内と外からの攻撃に対抗するためには教会がキリストにあって一つとなることが絶対に必要であったのです。教会が一つとなるためにはへりくだって互いに使えあうことが必要であったのです。

 

【「そこで」】

「そこで」という語は127節からの段落の内容の橋渡しの役割を果たしています。つまり、127-30節まででパウロは、脅威に直面している教会は一致して反対者たちと戦う必要があるという勧告をします。その勧告を受けて、さらに一致して反対者たちと戦うにはどうすべきかを21節から語ります。それは、教会が一致し、調和のとれた共同体の関係を作るようにという呼びかけです。そのために教会内のすべての分派と敵意は解決されるべきであるのです。教会の一致には四つ土台があることをパウロはここで示します。

【一致のための4つの土台】

その4つの土台とはキリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみや憐みの心です。これら4つの土台の下にキリストにある教会は一致して建て上げられるのです。これら4つの全ては主イエスにはじまりがあります。イエス・キリストがまず弟子たちに見本としてお示しになりました。そして、パウロがフィリピの教会に教会員一人一人に与えたものなのです。主イエスはパウロを通して教会に一つになりなさいというのです。

 

この箇所は、パウロの熱心な訴えの中にあるフィリピの教会を思う真剣さに心を打たれずにはおれません。それは、仲良くしなさいというような表面的な勧告ではありません。パウロはこの1節のことばで、キリストが父なる神と一つであるように、教会はキリストにあって一つであることを述べます。信徒同志は、神さまと一つされているのならお互いを愛し、お互いを励まし、お互いに仕えあうことができるはずなのです。主にある交わりからはほど遠い分裂した教会へ、また分派分裂のある全ての時代の全ての教会に、これらの深い真理は語られているのです。

【パウロの願い】

パウロの願いは、2節にある教会は「同じ思いとなり」、「同じ愛をいただき」、「心を合わせ」、「思いを一つにして」することです。本質的には、これらも源泉はキリストひとつです。キリストにより一つとなることなのです。一致するのには一致を拒むものが取り除かれなければなりません。

それは反対者たちのような考え方です。もう既に天国は始まっているのだという考えです。その考えから生じてくる何をしても許される、それだから自分勝手に自分のしたいこと好きなことをすればよいのだ。他人のことなど考えなくてもよいのだという考え方です。また、そのような自己中心な思いからは決してパウロの言う同じ思い、同じ愛、心を合わせる、思いを1つにすることは生まれては来ないのです。

教会の一致と健全さ阻むもの、好ましくないものは取り除かれ、一致と愛にある兄弟姉妹の交わりが回復されるべきでした。そのためにパウロはこの4つの「同一」を訴えているのです。パウロはコリントの信徒への手紙1110節において「さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を1つにして思いを1つにして、固く結びあいなさい。」と言っています。もしこのように神様の家族としての一致が教会の中で実現されるなら、パウロの喜びは全きものとなるのです。

 

【自己中心的な利己主義】

フィリピの教会には反対者たちにより自己中心的な利己主義が広まっていました。3節から4節でパウロは教会の一致を回復するためにどうしたら良いのかを実践的に教えています。それは、3節では「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とあります。フィリピの教会は自分の利益ばかりを追い求め他人のことを他の人の益を考えない人々がいたのです。また、自らを他の人々よりも優れたものだと考え、それを誇る人たちがいたのです。それは神様の栄光から見れば取るに足らない栄光です。みんな罪人です。罪人同志が、どちらが優れていると比較し合っても、それはドングリの背比べです。主の栄光から見れば空しいことです。これらの利己心や虚栄心から解放されるためにはどうしたら良いのかでしょうか。

 

【へりくだって、互いに相手を・・】

パウロは続けます。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え」といいます。「へりくだる」、すなわち謙遜は、その謙遜とは神様の前にへりくだる、謙遜になることです。私たち自身はその存在の全てを神様に頼っています。私たちは神様には謙遜になれるはずです。神様の前での謙遜が、私たちを他の人々との関係の中での謙遜へと導きます。神の力強い御手の下にへりくだるように「互いに謙遜を」身に着けることが大切なのです。神様に対して、また人に対して、へりくだって接することから、自分の弱さや失敗に気づくことを可能にします。そして、これが後に続く、「互いに相手を自分よりも優れたものと考え」の理由です。4節では「めいめい自分のことだけでなく、他人のことも注意を払いなさい。」とパウロは勧告します。自分の中には無い他の人たちが持っている良い点、賜物に目をとめること、他の人々を評価すること、これはなかなか難しいことです。人間は、どうしても他人よりも自分の方が優れていると思いたいですよね。他人を認めることができないことが多いですね。しかし、もし、素直に他の人の優れたところを認めることができるなら、そして、その人の優れた点から学ぶことが出来るなら、さらに、それが教会の中で用いられるのなら、教会の祝福となります。

しかし、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」とは難しいことですね。人間の本性は全くこれらの逆ですからね。(間をあける。)

 

【神学校での私の体験】

神学校では、毎朝630分から朝祷会があり、神学生が日替わりで司会とリジョイスで示されるその日の聖書箇所から奨励をします。私はこれをなかなか御言葉として聞くことができなのですね。それは、自分が担当した時の奨励と比較してしますからです。他の神学生のメッセージから自分にない者や足りない部分を吸収しようという思いをもてばよいのですが、なかなか難しいですね。無意識のうちに自分のメッセージを中心にして聞いてしまっています。自分が同じ個所からメッセージをするのならばこんなことは言わない、ここは解釈が違うのではないか、自分ならもっと良いメッセージをするなどという思いを持ちながら聞くのです。他の神学生を自分よりも低くしています。パウロの言うへりくだりとは全く正反対のことをしています。そんな思い・雑念をもって朝の奨励を聞いていますので、一日のはじめに御言葉に聞く大切な時間なのに、一日をはじめるエネルギーを頂くときにもかかわらず、そうならずに、モヤモヤばかりが残ります。その日の司会者に素直に感謝することができない自分がいます。そんな自分自身に嫌悪感を抱きます。私自身がまず今日の御言葉に聞かなくてはなりません。

 

【パウロの模範】

なぜパウロはフィリピの教会の一致のためにこんな困難な勧告をしたのでしょうね。パウロの中には飛び切り良い、他とは比べ物にならないモデルあったのです。それは、他でもない主イエスでした。

主イエスは神の御子でした。その神の御子としての身分を捨て、人間と同じ姿をとりこの世に下ってこられました。地上での生涯を歩まれました。僕として、それは父なる神様の僕として地上生涯を歩まれたのです。それは、救い主としての使命でありました。父なる神様からの御命令でした。主イエスは決して神としてのご人格を捨ててしまわれてわけではありません。主イエスは地上の生涯を歩まれた間も神の御子であられました。神の御子であり、そして人間であられたのです。神のご人格に、完全なる神の性質と完全な人間の性質とを持っていたのです。

しかし、主イエスは神の御子としての栄光を捨てられました。私たちにはその奥義を理解することは難しいですが、御言葉の通りに受け入れたいと思います。そして、8「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

大工の息子として馬小屋でお生まれになりました。当時、社会的に軽んじられていた人々である取税人や罪人と食事を共にしました。汚れているとされている病人に手を伸ばし、その体に触れられて癒されました。ご自分の弟子たちの足を洗われました。

そして、謙遜の極みである十字架での死の時までも従順になり、服従されたのです。それは、他でもないフィリピの教会のため、全ての教会、信徒のためでした。そして、神さまはこの徹底的に従順であったキリストを高く上げられたのです。ここにへりくだりの、謙遜の模範を見ます。

パウロはこのキリストを思い起こしてみなさいと、フィリピの教会に訴えるのです。さらに、このキリストの父なる神様に対する従順によってあなたがたは救われたのですと言っているのです。そのキリストの絶大なる従順によって救われた者同士の集まりである教会には不一致はあるはずはないのです。

確かに、教会にはいろいろな人が集まっています。自分と生い立ちや経歴や考え方が似ている人とはうまくやっていきやすいかもしれません。しかし、教会に集まってくる人はそんな自分と似た人ばかりではありません。自分とは生い立ちも考え方も全く違う人もいます。時には教会員同士で衝突することもあるかもしれません。しかし、みんな許し合いお互いを受け入れ合えるはずです。

私にも理解することが難しい神学生がいます。しかし、その人も私も同じキリストの従順によって罪が許され、救われたのです。私自身にもその神学生を理解し、受け入れるというチャレンジがあります。いつかきっとそうできると思います。それは、みんなキリストにあって一つだからです。同じキリストにより、その従順により救われた者同士は、キリストに結びついている者たちには人間の考え、思い、欲望を越えたところでの高くて深くて広い一致があるのです。

主イエスは神様によって天上にあげられ、神様によってあらゆる名にまさる名をあたえられました。主イエスはそうなることを願って、地上の僕としての生涯を歩まれたわけでは決してありません。主イエスが僕として神様に従順に従ったからこそ神様は主イエスをあげられたのです。

だから、同じ心となり、一つ思いとなり「イエス・キリストは主である。」とのべて、父である神様をほめたたえることができるのです。

このパウロの勧告はフィリピの教会だけに言われているのではありません。全てのクリスチャンにすべての教会が学ぶべきこととして述べられています。キリストの従順は私たちに兄弟姉妹へのへりくだりと謙遜を教えています。そして、教会の一致を教えています。11節に、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、とある通り、教会全体でイエス・キリストは私たちの主であると心から伝えていきたいと思います。神様の栄光は主イエスによって私たちに現されています。そして、主イエスを公に伝えることが、私たちが神様の栄光をあらわすことになるのです。キリストの従順、それは私たちに救いと一致とを与えるものです。そして、みんなが同じ主を見上げることから心合わせた讃美が生まれてきます。祈ります。(おわり)

2015年03月08日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1055