クリスマスの愛 ウイリアム・モーア

フィリピの信徒への手紙2章1-11

【クリスマスの愛】
私達のアドベントの旅は大分進んで参りました。

丁度来週の主の日はクリスマス、イエス・キリストの御降誕の記念日になります。毎週の説教を通して私達はクリスマスの準備が出来ました。「 クリスマスの希望」と、「 クリスマスの平和」と、「 クリスマスの喜び」を一緒に学びました。そして、今日は「「 「 クリスマスの愛」について共に考えたいと思います。実は、何よりもクリスマスの出来事は私達人間に対する神の愛を現します。そして、神の愛の故に私達はクリスマスの他の恵み、希望と平和と喜びを経験する事が出来ます。今日は主イエスの御降誕を通して神が私達に現わされた愛を新に見ましょう。

【フィリピの教会に】
使徒パウロは今日の聖書の個所をフィリピと言う町に住んでいるキリスト者に手紙の形で送りました。パウロはフィリピの教会を開拓しましたけれども、信仰の理由で牢に入れられフィリピの信徒を訪ねる事が出来ませんでした。ですから使徒パウロは手紙で彼等を励まし、教えました。特に、キリスト者としての相応しい態度と生き方を教えました。彼等を主イエスの愛の手本に思い返させて、その手本に従うようにと奨励しました。

イエス・キリストが示して下さった愛と献身が自分達のものになると、彼等は一つになって、そして、更に、信仰の力の証人になります。つまり使徒パウロはフィリピの信徒にこのように言いました。

「お互いに『クリスマスの愛』を示して下さい。」

そして、その「クリスマスの愛」とは何でしたか。今日のテキストの6節の所を見て下さい。フィリピの信徒への手紙2章6節

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

とパウロはフィリピの信徒に思い起こさせました。

マタイとルカによる福音書は私達人間の立場からクリスマスの出来事を語ります。マリヤとヨセフと羊飼い達と占星術の学者達のイエス・キリストの御降誕の体験を説明します。しかし、今朝の聖句は主イエスの立場からクリスマスを説明します。

【神の御子の高価な犠牲】
私達に対する献身的な愛の故にイエス・キリストは大きな犠牲を払って下さったのです。つまり、クリスマスの恵みを私達に提供する為に主イエスは莫大な高値を払ってしまいました。私達の為に天国での神としての栄光の身分を捨てて、人間の無力な赤ちゃんになりました。そして、人間になった神、主イエスは地位の高い人の代わりに、自ら進んで「自分を無にして、僕の身分をとりました。更に、私達の救い主になる為、大変な犠牲を払って、恥ずかしく苦しい十字架の死までも服従しました。

私達はこの世での存在しか経験がありません。ですから天国と地のギャップがなかなか想像し難いです。しかし、主イエスは両方を直接に体験されたので、そのギャップを特に感じました。

父なる神の独り子として、キリストの天国での存在は言い尽くせない程素晴らしかったのです。悲しみと苦しみ、不自由も全く知らなかったキリストは栄光に輝いていました。天使に使えられて全ての面で完璧な天国での喜びと満足の日々を永遠の昔から過ごしました。

【御子イエス・キリストの誕生】
しかし、主イエスは肉体を取って私達の世に降ると、天国とどんなに大きな対照だったでしょう。人間の赤ちゃんとして御自分の出産を経験しました。私自身は自分の出産の覚えが全然ありません。それは大変有り難い事だと思います。お母さんどころか、赤ちゃんにとっても出産は非常にストレスのある苦しい過程だそうです。神の御子イエス・キリストはその大変な作業を体験して、この世に出産されました。そして、その馬小屋で産まれたイエスは初めて何を見たか、何を臭い、何を聞いたんでしょうか。それは汚い環境と馬の糞の臭いと家畜の鳴き声でした。そして、御自分の初めのベッドはほこりまみれのわらいっぱいの飼い葉桶でした。天国とどんなに大きな差だったでしょう。

【ナザレで育ったイエス】
イエスは貧しい家庭に生まれ、楽な育ちではなかったと思います。小さい時、主を殺そうとしたヘロデ王から逃げる為、両親に連れられ外国のエジプトへ逃避しなければなりませんでした。そして、ナザレに帰ってお父さんヨセフから大工の仕事を習って、食べて行く為、額(ひたい)に汗して労働しました。

【イエスの公生涯】
そして、イエスは御自分の地上の働きを始めた時、人々に神の愛を説きましたが、宗教指導者達は主をあざけりました。イエスは彼等に対して真理を語りましたので、彼等はわなをかけてイエスを捕まえようとしました。

主は家も財産を持たず、人々を教えながら弟子達と一緒に御自分の国を巡回しました。そして、イエスは普通の人だけではなく、貧しい者、病気の者、社会から追放されている者、そして罪人さえも交際し、助けました。

【主の十字架】
その上、神の独り子は敵に渡され、全く無実なのに、敵の手で十字架に付けられ、最も酷い犯罪人の死に方をしました。主の敵は悪を行いましたが、神は御子の死を通して私達の罪を贖って下さいました。そして、その死のお陰でイエス・キリストを信じる者の罪は赦され、永遠の命も賜いました。

丁度、使徒パウロが書いたように、

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

主イエスの動機はいったい何でしたか。自ら進んで天国のあらゆる特権と誉れを捨てて、この世に下り、無力な人間の赤ちゃんになり、貧しい両親によって育てられ、そして、遂に人の手で十字架の死を受けたのはどう言う動機でしたか。この最も大きな犠牲の動機は愛でした。神の私達一人一人の為の愛です。

【イエス・キリストの犠牲的愛】
愛には色々ありますが、本当に意味のある愛は犠牲が伴います。つまり、コストがあります。そして、そのコストが高い程、力があります。主イエスはこのように言われました。

「友の為に自分の命を捨てる事、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15章13)

イエス・キリストの最も犠牲的愛が私達人間を救う力があります。キリストが御自分を低くしてこの世にいらっしゃったのは、私達の救いの為でした。更に、キリストは御自分を無にして、十字架の死まで従順だったので私達に永遠の救いをもたらして下さいました。罪の全くないキリストの犠牲を通して私達の罪が贖われ、造り主である神と和解されたのです。ですから、主イエスを心から信じる者は誰でも、神の子として永遠まで御自分の恵みを期待出来ます。神は私達の味方になり、この世に希望と平安と喜びと力を与えて下さり、死んでも御自分と共に永遠の命をも賜って下さいます。これが主イエス・キリストの犠牲的愛の力です。

そして、主イエスの愛を受け入れた者は、その愛を自分の行動と振る舞いに反映すべきです。

「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)

と主イエスが教えられました。


そして、使徒パウロも同様に今日の御言葉にこのように勧めました。フィリピの信徒への手紙2章3節~4節を見て下さい。 

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人の事にも注意を払いなさい。」

このような愛こそ主イエスが私達に示して下さったものです。そして、こんなに愛された私達は心から隣人を愛すべきです。

【赤ちゃんのだっこ】

この間、とても意味深いストーリを聞きました。そのストーリは私達に対する神の犠牲的「クリスマスの愛」をよく説明すると思います。

「赤ちゃんのだっこ」と言うこのストーリは、あるお母さんの体験を語ります。

クリスマスの数日前、私と主人と一歳の息子エリックが出掛け、久しぶりに外食をしました。レストランの中で、小さい子供を連れて来たのは私達の家族だけです。私はエリックを赤ちゃん用の食事椅子に座らせ、主人は注文をしました。急にエリックは喜びで大きな声を出し、ニッコリしてレストランの向こう側のお爺さんを見て手を振りました。そのお爺さんはぼろぼろのズボンと汚いシャツを着て、靴も穴が空いていました。髪の毛は目茶句茶、彼は何ヶ月も床屋へ行ってない様子でした。そして、お爺さんの汚れた顔を見ると、間違いなく彼はホームレス、野宿する人ではないかと思いました。

お爺さんは私のエリックを見て、「おい、赤ちゃん。僕は君を見てるよ。お前は可愛いね」と大きな声で挨拶しました。私と主人はどうすれば良いのか分りませんでした。エリックは続けてお爺さんを見て笑いました。そして、レストランの客さん皆は私達とお爺さんを見詰めて、今度はどうなるかと思ったのでしょう。あの汚い爺さんが私の美しい息子を見つめているのは迷惑でした。更に、お爺さんはもう一度エリックに呼びかけ、「赤ちゃん、ゲームが出来るかい。いないいないバー出来るかい。ゲームを教えようか。」その爺さんは酔っぱらっているようで、私と主人は恥ずかしくなりました。しかし、私達は静かに食事を食べながらも、エリックはずっとお爺さんを見、笑って、そしてお爺さんはずっとエリックに呼びかけたのです。

やっと食事を済んだ時、私達はレストランを早く出たかったのです。主人がレジへ行って会計を済ませる間、私は先にエリックを連れて車に行こうとしました。しかし、お爺さんはドアの側に座ってしまいました。彼を避ける為、エリックを抱いて早く通り過ぎようとしましたが、お爺さんに近ずくとエリックが彼に両手を伸ばして、私から彼の方へ飛んで行きました。そして、その二人は抱き合ってしまいました。エリックは自分の頭をその臭いのする爺の肩に乗せて幸せそうな顔をしました。お爺さんは目をつぶって涙を流し始めました。彼のざらざらした汚い手は私の赤ちゃんの背中をやさしくなでていました。まるで愛と信頼の光景でした。お爺さんはエリックを抱きながら、私を見て、このように命令しました。「あなたはこの赤ちゃんを大事にしなさい。」私は思わず、「はい、そうします」と言いました。お爺さんはエリックをゆっくりと自分の腕から取って、とても離したくなさそうに私に渡しました。私はエリックを受け取るとお爺さんはこう言いました。「ありがとう。本当にありがとう。これは素晴らしいクリスマスプレゼントだった。」

私はエリックを抱いて車の方へ走りました。泣きながら私は「 神よ、神よ、私を赦して下さい」と何回も祈りました。私は赤ちゃんを通して主イエス・キリストの愛を目撃しました。私はそのお爺さんの汚い表面ばっかりを見ていましたが、無邪気なエリックは寂しい人間同士を見て、愛をもって、文字通りに自分の手を彼に伸ばしました。目の見えない私はよく見える赤ちゃんを持っていました。この体験を通して神は私に聞きました。「 あなたは自分の息子をわずかな時間でも人に分かち合えますか。その最初のクリスマスに私は我が独り子をあなたに送ったのに。」どうかこのクリスマスの際に神の大きな、大きな犠牲的愛を忘れないように。

2005年12月18日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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