「自分の置かれた境遇に満足する」ウイリアム・モア2010.7.4.

フィリピの信徒への手紙4章10−14

10:さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。11:物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。12:貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。13:わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。14:それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

 

【秘訣の魅力】

我々人間は秘訣を好む心が結構あります。特に、ある事を行うのに最もよい効果的方法、しかも、めったに他人が知らない奥義を得たいのです。そして、あまり努力しなくても、秘訣でよい結果が直ぐ出たら私達は大変喜びます。それは秘訣のおもな魅力ではないかと思います。何よりも、頑張らなくても、待たなくても素晴らしい物、偉い事を手に入れたいのです。

【出版社の秘訣】

実は、「秘訣」と言う単語を表題に加えると本がよく売れます。それは出版社の秘訣でしょうけど。ですから、「大金持ちの秘訣」や「長命の秘訣」や「幸福への秘訣」などと言う本がこの世には数え切れません。私にとってちょっと不思議な事ですが、もし誰かが本当に大金持ちの秘訣を悟ったら、どうして骨折って本を書く必要があるのでしょうか。又、どうして、ただ本の代金でその貴重な奥義を売るのでしょうか。もしかしたら、大金持ちになる秘訣は「大金持ちの秘訣」と言う本を書いて、多くのカモに売り、ベストセラー作家になる事かも知れません。その故に、「秘訣」と言う言葉を聞くと私は大抵懐疑的な態度を取ります。私の経験で、この世で語る多くの秘訣はそれ程の賜物ではならない事が分かって来ました。

 

 

今日、与えられた御言葉に使徒パウロは真の秘訣を私達に分ち合います。聖霊の導きによって彼はこう書きました。もう一度聞いて下さい。「さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれた事を、私は主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足する事を習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いつ、いかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」

 

【自分の置かれた境遇に満足する秘訣】

ここで使徒パウロは私達に「自分の置かれた境遇に満足する事」が出来る秘訣を教えようとします。つまり、どんな状態であっても不満と自己憐憫を経験せず、大きな喜びと希望をもって前進する事が出来ます。今日の御言葉はその秘訣を私達に賜るのです。しかし、秘訣であってもマジックのように何もしなくても瞬間的に私達から不満を取り除く訳ではありません。また、環境にある不満を起すものが直ぐに消えると言う意味でもありません。誰でも厳しい人生の現実に直面しなければなりません。この世にいる限り罪の故に、逆境と不幸を避けられません。ですから、今日の御言葉に於ける秘訣はいついかなる場合にも、つまり、非常に難しい境遇にあっても、対処出来る秘訣であります。

 

【よその芝生はうちの芝生より青い】

誰もがその秘訣を求めるはずです。実際この世には不満を起す事が限りありません。英語でこの諺があります。The grass is greener on the other side of the fence. 訳すれば、「よその芝生はうちの芝生より青く見える」。共通の現象ですが、人間は自分の置かれた状態、又、自分の環境を他人の境遇と比べる傾向があります。そして、比べる時はいつも自分より良くない所に置かれた者ではなく、自分より良く見える境遇の人と比べる傾向が強いのです。そうすると、当然、よその芝生はうちの芝生より青く見えて、不満を生み出します。「あの人のような収入があれば、どんなに幸せになるでしょう。」「その人のように美人に生まれたら、私の人生はきっともって良かったと思う。」「家の子が隣の子供と同じように頑張っていたら、心配しなくても良いのに。」「妹の健康があれば、どんなに楽だろう。」心当たりがありますか。

 

【他人と比べる結果】

勿論、そのように自分の境遇を他人の境遇と比べると不満が必ず生じます。惨めになり、自己に対する憐れみを感じます。そして、その結果、精神的と霊的に豊かに生きるのは、なかなか難しくなります。

 

罪の故にこの世が堕落して、人生は不公平になりました。病気になり、事故に会い、失業に悩まされ、家庭内の緊張があり、財政難も経験します。人生は消化し難い事を常に私達に投げているような気がします。そして人生がそのようなものだったら、満足する事は夢のように思えます。

 

可能だったら、私達は使徒パウロのように、こう言いたいのです。 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いつ、いかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」

 

【24時間自宅監禁されたパウロ】

秘訣が分かる為に先ずこの御言葉を書いた使徒パウロの当時の背景を学びたいと思います。実は、信仰の故にパウロは逮捕され、裁判は帝国の都ローマで行う為に、その大都会へ連れられました。裁判を待つパウロはローマ帝国の市民ですから、普通の監獄に入れられたのではなく、自宅監禁生活を送りました。

 

【フィリピの信徒へ】

つまり、彼はローマで家を借りて、そこで監禁されました。当局が見張りを立てて、24時間パウロを見ていました。パウロは家に閉じ込められて、町へ出る事が禁止されたのですが、お客さんを受け入れる事は許されていました。ですからその家は伝道所のようになり、囚人であっても使徒パウロはその所から福音を力強くて述べ伝えました。借りた家ですからパウロは自費でその家賃と生活費も払わなければなりませんでした。囚人の身分ですから儲ける為、働く事が出来なくて、収入が限られていました。その為、フィリピと言う町の信者達がパウロの生活の為に献金を送ってくれました。そして、パウロは感謝を表すように、フィリピの信徒への手紙を書きました。今日与えられた御言葉はその手紙の一部です。10節にこう記されています。「さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれた事を、私は主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」

 

【八方塞がりの中で】

自宅監禁された使徒パウロはローマ帝国の囚人であって裁判を待っていました。許されてない信仰を述べ伝えたので、死刑に当たる罪が負わさせられました。さらに、生活と伝道活動の為、必要な収入が保証されてないので、経済的心配があったはずです。更に、パウロが囚人になった故に、彼が導いたある信者達は彼との交わりが切られてしまいました。

 

【福音を分ち合う為に】

その難しい境遇であっても、失望しませんでした。 自己憐憫に陥りませんでした。自分の状態を他人の状態と比べませんでした。その代わりに喜びを持って積極的に福音を分ち合う為に励みました。そして、沢山の教会に手紙を書きました。今日学ぶフィリピの信徒への手紙はその一つです。死刑の罰に向かって、その借りた家に閉じ込めてもこのように書きました。 「物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足する事を習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いつ、いかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」

 

【私には全てが可能です】

愛する兄弟姉妹、その秘訣は何でしょうか。13節を見て下さい。「私を強めて下さる方のお陰で、私には全てが可能です。」皆さん、それは自宅監禁の囚人の言葉です。人の施しに頼って生活をした人でした。「私を強めて下さる方のお陰で、私には全てが可能です。」注目すべき事ですが、パウロは「私を強めて下さる方のお陰で、私は全ての危機と苦しみと病気と試練を避けられる」とおっしゃいませんでした。いいえ、「私を強めて下さる方のお陰で、私には全てが可能です。」つまり、どんな大変な事があっても、主イエス・キリストの霊がパウロと共にいて、必要な力と慰めと知恵を与えると言う事です。ですから、囚人のパウロは勇気を出して、勝利者としてその場で主イエスに従いました。

 

使徒パウロの秘訣は守らなければならないルールではなく、テクニックでもありません。自分の秘訣はあるお方です。つまり、神の御子と私達の救い主、主イエス・キリストこそです。唯一の救い主としてイエスを受け入れると、すなわち主と結ばれていたら、私達も使徒パウロと同じように 「私を強めて下さる方のお陰で、私には全てが可能です」と心から言えます。

 

主イエスはもう既に私達の為に御自分の命を十字架で捨てて下さいました。その莫大な愛の御業で私達を贖って、罪の故に壊された神との関係を回復して下さったのです。滅びる事しかない唯一の事から私達を救ったのです。その同じイエス・キリストは、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28:20)と約束して下さいます。

 

【私の恵みはあなたに十分である】

更に主イエスはこう言われました。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12:9)

 

私達を愛して、又、共にいて下さるイエス・キリストは力と慰めを豊かに授けます。私達はその故に置かれた境遇に満足する事が出来ます。その故に「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」

 

愛する兄弟姉妹、私達を毎日強めて下さる主イエス・キリストと共に歩む事で、使徒パウロと同じようにどんな事があっても満足する事が出来ます。勇気が与えられ、失望せず前進します。「私を強めて下さる方のお陰で、私には全てが可能です。」それは使徒パウロと私達にも授けられた秘訣、主イエス・キリストこそです。(おわり)

2010年07月04日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書

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