2016年1月24日説教「絶えず祈りなさい」金田幸男牧師

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説教「祈りなさい」

 

聖書:マルコによる福音書13

14 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。15 屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。16 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。

17 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。18 このことが冬に起こらないように、祈りなさい。19 それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。20 主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。21 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。23 だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

 

要旨 

【AD70年のエルサレム神殿崩壊予告】

 イエス・キリストがオリーブ山で弟子たちに語られた説教を学んでいます。

マルコ13:14-23もイエス・キリストの言われた意味を明らかにすることは難しい課題です。この個所の理解しにくい点は、キリストが語れている事件はいつのことなのかという問題です。

 イエス・キリストのオリ-ブ山での説教が語られたあと、約40年後に、エルサレムの神殿はローマ軍に略奪されます。

 

AD70年、ユダヤは第1次ユダヤ戦争を引き起こします。そして、その結果、ユダヤは敗北し、エルサレムは占領され、神殿の宝物は奪われてしまいます。イエス・キリストはそれを予告しているのだと言いう解釈が成り立ちます。

 

 予告と申しました。これを否定する立場の人も多くいます。私たちは将来のことを知りません。1分先のことさえ分かりません。何が起きるのか、それは誰にもできないことです。それである人たちはイエス・キリストも将来を語るはずがないと考えます。確かに私たちは将来を知る能力はありません。せいぜい推測にとどまります。しかし、将来のことは全く知りえないのでしょうか。

 

【旧約聖書預言】

旧約聖書に預言者が登場します。彼らは将来を予告しています。預言者の務めは神の御心を伝えることです。その中に未来のことを語ったものもあります。預言の中には予言も含まれています。キリストも預言者です。預言者の役割の第一は神の御心を伝達することなのですが、その中には、バビロンによるエルサレムの破壊も含まれています。預言者は将来起こるであろうバビロンによるエルサレム破壊を繰り返して語りました。これはどう考えて見ても未来のことと関わります。

 

しかしまた、私たちは預言が克明に将来のことを語るのではなかったし、詳細なところで預言通りに実現するのではなかったことも知らなければなりません。預言は将来を含みますが、その未来の予告はまるでテレビを見ているかのような正確な情報の叙述ではありません。そのとおり起きたことばかりではなく、明らかのその通りではないことも多々あります。預言とは神の御心を伝えることであり、将来のことだけを明らかにするものではありません。預言者は、無意識で、あるいは恍惚状態でその務めを果たすこともありますが、大抵は普通の心の状態で預言者の務めを果たしました。彼らは現実を見ます。そして、そこにある腐敗堕落を見ます。それに対する神のさばきのあることを確信します。その時、目前にある町はそのまま存続するはずがない、きっと神はさばかれると判断したかもしれません。それだけならば予測に過ぎませんが、彼ら預言者は御霊に導かれてさばきを語るのです。キリストも同じような過程を経てこのように語られたかもしれません。

 

キリストの目前にあったのはヘロデが建設していた神殿でした。それは当時の土木建築の技術を駆使して造営された立派な神殿建築物でした。ヘロデは自己の権力を誇示するために建設したのです。キリストはこの神殿を見て、そこで行われている事実を見極められます。祭司たちは儀式を取り仕切っていますが、その儀式の意味するところを説明できず、ただ単に儀式を習慣的に行っているだけです。むしろその地位を利用して懐を肥やしていました。神殿だけではありません。ユダヤ人の社会では、ファリサイ派の人々は人目に触れるように、みせかけの敬虔を明らかにしようとします。このような当時の人々の宗教心、宗教的環境を見て、キリストは神のさばきを予感し、あるいは御霊に導かれて、エルサレムの滅亡を予感し、それを預言として語られたと言うことができるはずです。キリストはローマ軍によるエルサレム神殿冒涜を予告していたという考えはあながち的外れではありません。しかし、果たしてキリストは40年後のことを予告していただけなのでしょうか。

 

【憎むべき破壊者】

 イエス・キリストが言われた言葉、「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら」は、明らかに異教徒が聖所に立っているという意味です。神殿には異教徒は立ち入り禁止で違反者は死刑に処せられました。ローマ政府は死刑の権限を属領の住民に認めていませんでしたから、これは例外で、それが崩されます。異教徒が神殿の聖所に入り込みます。

 

これは、ダニエル書9:27(11:31,12:21も)に記されている文章に酷似しています。キリストはダニエル書からこの言葉を引用されたとみなされています。ダニエルが言わんとしているのは、再建された神殿(BC515)が、セレコウス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスの部下によって汚されるという事件のこととされています。BC167年、エルサレム神殿で汚れた犠牲がささげられ、神殿が冒涜されるという事件が起きます。ダニエルはこのことを語っているとされます。ダニエルの預言は成就しました。キリストは、ダニエルの言葉を、アンティオコスの冒涜事件だけ、つまりもう成就したものとだけとらず、その予告はこれから実現するべきものだと考えられていると解されます。

 

 マルコが記すイエス・キリストの言葉、山に逃れるように(山はエルサレム周辺の山々で隠れることが多い)、二階間から階段を使って降りないように(階段は外につけられているので目立ち、敵兵の弓槍に狙われる)、畑にいるものが外套を取りに帰らないように(外套は夜の夜具にもなる)と命じ、妊婦や育児中の女性は不幸だ(逃げられないから)、冬に事件が起きないように願え(エルサレムの冬は結構温度が下がる)などはローマ軍による侵略の光景に合致します。こういうところを見ればキリストは確かに40年後の事件を予告している、そして、弟子たちに警告をしていると解釈されます。だから、キリストの言葉は成就してしまって、私たち読者に関係ないとされるかもしれません。

 

キリストは、その苦難は、創造以来かつてなかったような苛酷で激しく、壮大なものといわれます。その事件は今後も起きないほどの絶大なものです。すると、キリストの言われたことはただ40年後のローマ軍の侵攻だけを語っているのかどうかは疑問です。歴史上、エルサレムを襲った悲劇以上の惨劇は繰り返されています。ローマ帝国が与えた戦争の惨劇はもっとひどいところが多々あります。さらに言えることは、実際、第二次世界大戦の戦火ほど悲惨なものはありません。ローマによる侵略など比較にならない惨事が起きました。そして、そのような災禍に、主がご自分のものとして選ばれたもの=キリストの弟子たちでさえその期間が短縮されなければ救われないような事態が述べられていますが、そうすると、キリストがここで言われている予告は、単に40年後の事件だけではないと見るべきです。

 

【終わりのとき】

つまり、キリストは将来起こる一つの事件ではなく、むしろ、終わりのときに起こる災禍を予告していると解釈できます。終わりのときこそ、未だ、人類が経験したことのないような凄まじい事件が起きます。終わりのときは必ず来るという予告です。この世界はいつまでも存続し、終末などないと思っている人が多い中で、キリストはこのみ言葉を通して、そうではない、この世の終わりはあると宣言されているのです。

 

【偽キリスト・偽預言者】

 終わりの前に起こることがここで語られています。偽メシヤ=偽キリスト、それに偽預言者の登場です。メシヤは救い主を指しますが、その偽者が出てきます(13:5-6)。彼らは惑わすことの専門家です。彼らはしるしや奇跡を行います。超自然的な行為です。手品のようなものもあったかもしれませんし、目くらましであったかもしれません。あるいは、本当に奇跡を起したのかもしれません。今日では、もっと手の混んだやり方で私たちを惑わします。

 

 今日では、コンピューターを使って将来を予測する営みが繰り返されます。そのような将来を予測する研究や学問を否定するものではありません。将来を予測したり、予報を出したりすることは私たちの社会生活にとって大切です。天気予報は以前に比べて精度が高くなりました。そのおかげで私たちは行事を中止したり、実行したりできます。

 

 しかし、そのような予想で、人を惑わすだけではなく、神に従うものたちの心を乱してしまうことも起こっています。終わりのときの予告をすればするほど、人々の不安を駆り立てたり、あるいは絶望させたり、そうかと思うと、終わりのときなどないと信じ込ませようとします。

 

【終わりの日に備える】

 終わりのときは来ます。必ず来ます。偽キリストや偽預言者に惑わされてはなりません。それがキリストの説教の意図です。単に終わりの日があるかないかというだけではありません。その日は必ずありますが、そのことを知って終わりの日に備えさせることこそキリストの意図です。

 

 神を信じて生きているものを惑わすようなしるしや奇跡が繰り返されます。偽キリスト、偽預言者は平穏な時だけ活動するのではありません。むしろ、彼らは苦難の時代に活躍します。それはキリストが3:3-13で予告されているとおりです。恐るべき苦難の時代が到来します。戦争や自然災害だけではありません。神を信じ、告白するものにとっては、迫害や身内による圧迫が起きます。そのようなときこそ偽預言者のつけ入るときです。

 

【忍耐と苦難の短縮】

 私たちは惑わされないように、忍耐しなければなりません。どうすれば惑わされず、忍耐できるのでしょうか。まず、キリストは、神がその期間の短縮を約束してくださっています。忍耐するものは救われます。苦難を耐えることは容易なこととはいえません。誰でも苦難に会えば耐え難いと呻き苦しむことでしょう。だが、私たちは知らなければなりません。神は私たちが救われるように配慮してくださっています。耐え難いと思われる試練は来ます。そういうものが来ないというわけにはいきません。私たちの経験が語るように大なり小なり苦難は来ます。それは避けがたいのです。しかし、その期間を短縮する方は苦難に耐えるようにしてくださっています。終わりの日の近接に対処して、私たちに必要なことは、私たちを守ってくださる主キリストを信頼して、その力を信じきることなのです。(おわり)

2016年01月24日

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