2016年1月10日説教「献げるとは」  金田幸男牧師

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説教「献げるとは」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書12

41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

要旨

【献金】

 イエス・キリストはエルサレム神殿の庭で教えを語られていましたが、13:1で、神殿の境内を去っていかれたとありますので、神殿で教える働きを終えてしまわれます。その神殿の境内での出来事の最後にあったことが記されています。場所は賽銭箱の置かれていたところとあります。

 

神殿の一番奥は聖所で、そこは祭司しか入ることが許されていませんでした。その後がイスラエルの庭で、さらにその外に「婦人の庭」があり、そのさらに外側が異邦人の庭とされ、異邦人で改宗者がそこまでは入ることができました。ユダヤ教徒ではない異邦人は異邦人の庭にも入ることができませんでした。

 

その婦人の庭には宝物庫がありました(ヨハネ8:20)。この婦人の庭には、賽銭箱が置かれていました。トランペットの形をした金属製の賽銭箱が13個もずらっと並べられていたそうです。賽銭=献金が奨励されていましたが、イスラエルの人々には2種類の献金が奨励されていました。ひとつは義務的なもので、イスラエルの男性に割り当てられていた献金です(出エジプト30:13,14、1年につき、銀半シェケルと決められています)。もう一つが自主的な献金で(列王記下11:5-6)、この献金は神殿の修復のために集められました。新約の時代にはこの献金はイスラエルの貧しい人たちのために使われたといわれています。イエス・キリストは婦人の庭で賽銭箱の前に陣取って様子をご覧になっていたとあります。トランペット型の賽銭箱は金属性で作られていましたから、賽銭が投げ込まれるとチャリンチャリンと音がします。キリストはその音をじっと聞かれていたのかもしれません。

 

【金持ちの献金】

 この賽銭箱に献金を投げ込んでいたのは多くの金持ちでした。婦人の庭は、イスラエルの庭への通過点となります。当時は過ぎ越しの祭り直前でたくさんのユダヤ人がさらに奥のイスラエルの庭を目指します。とうぜん、金持ちたちが献金しているのはよく見えます。チャリンチャリンと大きな音がする上に、巡礼者たちがここを通過して行きますので、金持ちたちの行動は他の人からよく目立ちます。

 

 献金はその人の敬虔、信心の表現と理解されていました。献金することで、金持ちたちが善行をしているとみなされます。そうすれば社会的に尊敬に値するとみなされます。

 献金は献身のしるしです。少なくともそのような内面の心のあり方の、外側への現われが献金とみなされていました。このこと自体は非難されるべきことではありません。献金はまさしく献身のしるしです。献金することでイスラエルの中で尊敬に値する人物と評価されます。金持ちたちは少なくとも人々から、敬虔で善人という評判を求めた。これが金持ちたちの本心であったと思われます。献金が信仰、特に献身のしるしであるという考えはイスラエルの中でも浸透していました。たくさんの人が通っていく婦人の庭の賽銭箱に献金をするならばその人はたいへんよく目立ちます。だから、金持ちは人に見られ、善人だと思われるためにささげものをしていたのです。このようなみせかけの善行は非難されるべきです。しかし、献金が献身のしるしというのは全く正当な見方です。金持ちたちはその献金の原則を曲解していたのです。

 

【貧しいやもめの献金】

 それに引き換え、貧しいやもめが2レプトン銅貨を献金したことが評価されています。2レプトン銅貨が1クァドランスだと記されます。1クァドランスは64分の1デナリオンに相当するとされています。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金であったとされますが、現在の金銭に変換すれば1万円くらいでしょうか。すると、1クァドランスはせいぜい200円くらいということになります。そして、これがやもめの一日分の生活費であったと記されていますが、1日200円で生きていこうとするのはほぼ不可能なことです。

 

 このやもめが何歳であったかは記されていません。老齢のやもめである可能性が大きいと思います。しかし、若いやもめであったことも否定は出来ません。

 キリストは様子をご覧になっておられました。金属製の賽銭箱にお金が投げられるときチャリンチャリンと音がするのを面白がって見ておられたのかもしれません。

 

キリストは弟子たちを呼ばれます。そして、厳かな言葉で語られます。「はっきり言っておく。」これは極めて重要なのだという意図をはっきりするためにこの言葉が使われます。弟子たちにも重大な問題であると意識させるために使われます。私たちも聞き漏らしてはならない重大な意味が隠されています。弟子たちはこのとき、キリストと同じくベンチに座って様子を見ていたのではなさそうです。

 

 イエス・キリストは金持ちたちの行動を批判されていることは確かです。しかし、どの点を批判されたのか。やもめは評価されていますが、どの点を評価されたのでしょうか。

 

 資産に対する献金額の割合でしょうか。やもめは有り金全部を献金しました。その点では彼女は100パーセント献金しました。金持ちは割合からすれば財産に比してわずかというべきでしょう。 

 

キリストは収入や財産に比べて大きな割合でささげることを評価され、だから多額をささげよと教えられているのでしょうか。そのようなことは考えられません。できるだけ多額の献金をするものが信心深いということにはなりません。しばしば露骨に言われなくとも、献金を多くする人は熱心な信仰の持ち主だという考え方は消えることはありません。

 

 金持ちが批判されるのはみせかけの敬虔や信心を献金で表わそうとしたところにあります。それではこのやもめのどこが評価されるのでしょうか。

 

【同労者】

 献金には多くの意味が含まれています。献金の勧めをする場合、その献金の意味を教会員に教える作業を伴わなければなりません。それは恵みの機会の提供です。例えば献金は、遠くにいる働き人と共同作業を可能にします。遠くに同行することができなくても献金で働き人と共に働きます。

 

【献金における罪の赦しと恵み】

献金は罪の赦しを求めてささげられることもあります。それは決して取引などではありません。純粋に、神に対する思いを献金で表現することは決して間違っていません。

 

 しばしば、献金を奨励する場合、何かお金集めに過ぎないと批判にさらされることがあります。献金など形式に過ぎないと批評され、献金の勧めをためらう人も多くいます。

 

しかし、それは誤解です。献金の勧めは恵みにあずかるようにとの勧めに他なりません。伝道のための献金で、私たちが福音宣教の第一戦に立つ働き人と共にたつこと、共に働くことが可能ならばこれこそ神の聖なる大事業に参画することになります。

【主は貧しいやもめの献金の何を賞賛されたか】

 貧しいやもめの献金をキリストはどうして評価されたのでしょうか。彼女が生活費と比べて大きな割合の献金をしたことではありません。貧しい人たちはその日暮らしのために悪戦苦闘しています。キリストはそういう民衆の生き様を否定されるはずがありません。信仰とはそんな日々の営みなどを忘れてひたすら業、修行などに励むこととされたりします。通常の営みを放棄してもっぱらその宗教団体のために奉仕することが価値あることだというような教えが語られたりします。そういう熱心を示すことが厚い信仰とされたりします。

 

 キリストはそういう熱狂を奨励されているわけではありません。

 

【献金は、祈り】

 では何を評価されているのでしょうか。献金は、祈りである、これが多くの宗教に見られる考え方です。賽銭を投げ入れるとき。交通安全とか商売繁盛の祈願がささげられます。献金はその意味で願いをささげることです。むろんその献金の多寡で願いが成就するのだという考えもありますが、献金の多寡よりも献金そのものが祈りとしてささげられることが稀ではありません。

 

【やもめの苦境】

 このやもめがどういう状況に置かれていたのか私たちには分かりません。やもめの年齢も分かりません。当時夫をなくした女性は経済的困窮に陥る場合が多くありました。生きていくために必死になり、その上、よくない評判に巻き込まれることもあったでしょう。老いたやもめならば身よりもなく、生きていくこと自体が困難になってしまうでしょう。ある人は病を負っていたかも知れません。精神的な苦痛と戦っている人もいたでしょう。とにかく、生きていく上でどうすることもできない状態に陥っていたかもしれません。

そういうところで何ができたのでしょうか。最終的に何ができるのか。神だけが頼りである。彼女が行き着いた最後の場面は、神の前で祈りをささげることであったと考えても差し支えないのではないでしょうか。

 

【最後に頼れるお方】

 最後のところで、ただ神だけが頼りである。これこそ「神頼み」です。しかし、神頼みなど弱い、あるいは怠惰な人間のすることだという誤解があります。最後まで努力することこそ大事だと言うのです。しかし、人間にはどうすることもできない局面に遭遇することも珍しくありません。そういう時、神すらも頼りにできない、そういう絶望を味わうしかない人がいます。それに比べて、最後の最後で神を信頼することができるのは幸いというべきでしょう。

 

このやもめがそこにあったからこそあとのことも考えないでささげものをし、祈ったのでしょう。神だけが頼りであると信じきっていたからこそあとのことなど考えないで献金をしたと考えてよいのだと思います。

 

 必死に祈りました。それは神が必ず助けてくださると信じたからです。キリストが評価されたのはこの神への信頼の姿であったと思います。

 

 私たちはやもめのような信心までいたっていないかもしれません。しかし、彼女は私たちの信仰の模範となっています。神が最終的に助けてくださる。どんなに追い込まれても神は助け主である。この信仰に私たちも立っていくように召されています。(おわり)

2016年01月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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