2015年11月29日説教「神のものは神に返しなさい」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書12章13-17
13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。
14 彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。
15 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。
16 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。
17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

要旨 

【ヘロデ派とファリサイ派】

12章13によりますと、ある人々が、イエスの言葉尻をとらえようとして論争を仕掛けたと記されます。今回の居場所や時間は記されていません。11章27~12章12ではイエスは神殿の庭で祭司長たちと論じ合ったと記されますが、ここではヘロデ派とファリサイ派と論争相手が選手交替をしています。イエスは神殿の庭で教えをされたので場所は神殿の庭であろうとも思われますすが、時間はその翌日であったと推測されます。

 

 ところで、ヘロデ派とファリサイ派はふだんは敵対していました。ヘロデ派は当時ユダヤを支配したヘロデ王家の支持者たちでした。ヘロデ家はローマ帝国と結託してユダヤの支配権を確保していた権力者であり、ヘロデ派はその支持者たちでした。

 

一方ファリサイ派はユダヤ人の信仰と生活の規準である律法を重視し。民衆にも律法の遵守を奨励しました。当然のことながら、ヘロデ派のようにローマ帝国に媚を送るような考え方を嫌悪しました。ですからヘロデ派とファリサイ派は日頃は対立関係にありました。しかし、彼らは共通の敵イエスに対しては共同戦線をとります。敵対者が力をあわせて攻めてくる。それは強大な力を発揮することになります。この世の中で神を信じて生きていこうとするものに、普段は対立しているものたちが手を組んで攻撃してきますが、それは大きな勢力となり、恐るべき敵対者となります。

 

【美辞麗句を用いて】

 彼らはイエス・キリストに論争を仕掛けるにあたり、美辞麗句を用います。「彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」。

 

むろん本心から出た言葉ではありません。うわべだけの言葉ですが、しかし、これほどイエス・キリストが誰か、どんな働きをしているのかを明瞭に語られているところはありません。的を得ていますが、それだけ敵対者の心はキリストから離れています。これは皮肉と言えば皮肉です。これ以上キリストとは誰か、的を得た言葉を語りながら空虚な言葉でしかありません。

 

【ところで、皇帝に税金を納めるのは・・】

反対者の質問は、「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。というものです。皇帝に税金を収めることが律法、つまり、聖書の教えに一致しているか。これは律法に合致しているかどうかだけの問題ではありませんでした。イエスがこれを語られたときから約30年ほど前のAD6年、ヘロデ大王の息子アルケラオの失政のためにローマ帝国はユダヤを属州にしてしまいます。属州は、ローマの直轄領で、総督が派遣され、そのもとで地方政治が行われます。アルケラオの領土はユダヤ州と呼ばれるようになります。

 

【納税の義務】

ローマは属州にはかなりの自治を認めますが、ただ、納税だけは厳格に守ることを求めます。税金さえ納めておれば属州は中央からあまり干渉を受けることもありませんでした。しかし、納税を履行しないとこがあれば帝国政府は苛酷な圧迫を加えます。納税を求められることこそ、ユダヤがローマの支配下にあることを示します。ユダヤ人にはそれは屈辱的な事態でした。それだけではありません。

 

【ローマのコイン】

ローマ政府はローマのコイン、銀貨で納税することを求めます。ところで、そのコインには皇帝の肖像が刻まれ、王の権力を示す銘が彫られていました。ローマ帝国の東部地方では皇帝を神として崇める宗教生活が徐々に展開していました。ギリシヤ人にとっては人間が神になることはその宗教の特質でもありました。ユダヤ人たちはこの意味でコインの肖像を警戒します。それは単なる人間の肖像ではなく、神の偶像なのだとされます。当然ユダヤ人は嫌悪をします。

 

【ロマ皇帝の神格化】

 キリストが地上で活躍されたとき、皇帝を神格化する動きが盛んでした。ユダヤ人からすればこれはとても不愉快な事柄であり、信仰に反しますし、嫌悪すべきでありました。しかし、それは帝国政府に反旗を翻すことになります。だから、たいていのユダヤ人は表面上は反抗しませんでしたが、快く思いませんでした。極度に反感を持ったユダヤ人の一派もありました。熱心党と呼ばれいる党派で、彼らはローマの支配に反抗し、独立を取戻そうとしました。当然、皇帝に税金を納めることに反対し、拒否します。このために、武装闘争の道を選び、ついに二度にわたりローマとの戦争に突き進みました。キリストは地上での働きをされていたとき、すでに熱心党はかなりの影響力を持ち始めていました。このような反ローマ的は動きをローマ政府は見逃すことはできませんでした。

 

 このような複雑な問題につながっていく微妙な問題をファリサイ派、ヘロデ派の共同戦線が攻撃してきたのです。

 実際、ポンテオ・ピラトの裁判のとき、キリストを訴える偽証言者の言葉に、キリストが皇帝への税金の納入を拒否したと言うものがありました。この罠にかかればイエスは、ローマ政府から処罰されたり、あるいは答え次第でユダヤ人民衆の支持を失うことになります。このような下心から質問が投げつけられたのです。

 

【聖書に書かれていない問題】

 ところで、律法には皇帝への納税のことなど記されていません。聖書に書かれていない問題をどうするのか、敵対者は問います。

 

 聖書を何もかも教科書のように見る人がいます。しかし、聖書はあらゆる人間の営みについて書かれてあるわけではありません。書かれていないこともたくさんあります。書かれていない事柄はどうなるのか。たいていの人は、自由だと言う考え方を持っています。聖書に書かれていないことは自分で判断すればいいというのです。

 

こういう立場の人は結局自由だと言っても答えは簡単ではないので、世間で通用しているような考え方を取ります。聖書に書かれていないことはこの世の価値基準を採用します。ここでは分裂が起きてしまいます。信仰と世俗が分裂し、結局は信仰よりもこの世的な規範が支配的になります。世俗的は、信仰に反するこの世の常識が生き方の原則になります。そういう生き方の末路は結局信仰なしの生き様になります。

 

 もう一つのやり方は、聖書に書かれていないことはたくさんあることと認め、そこに伝承とか伝統を重視します。当時のユダヤ人も今日のユダヤ教でも共通することですが、むかしのラビ(律法研究者)の聖書の解釈などを価値あるものとみなし、聖書に書かれていないことついての規準や規範を引き出すのです。カトリック教会も聖書に並んで、教会が保持する伝承を聖書と同等の価値を認めます。

 

 このような聖書に対する考え方は聖書を軽視するものとなりかねません。では、どう考えればいいのでしょうか。イエス・キリストはどういう考え方をされるのでしょうか。

 

【皇帝のものは皇帝に】

キリストの答えは次のようなものでした。イエスは、彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。そこに皇帝の肖像が書かれてあるとしてもそんなものと関わりなく皇帝に税を納めよ。ファリサイ派はためらいながら税を納めていました。キリストはためらうことなく税金を払えと言われます。ここでは、[返す]と言う言葉が用いられますが、元に戻せ、つまり、本来のもち手に返せという意味です。本来、ローマのコイン=お金は皇帝のもの、それならば返せばよい。

 

 ここまでですと、キリストはただ皇帝に税を納めることを肯定しているだけです。異民族で、異教徒のローマ人の支配にただ服従しておればいいということになります。政治的に無関心であれとも取れます。

 

【神のものは神に】

しかし、キリストは、神のものは神に返せ、と言われます。神は全世界の創造者であり、支配者です。神に返せとはすべてを返せということになります。皇帝と神は同等ではありません。神に返せとはすべてを返せということになります。あらゆるものは神に属します。私たちの所有は何もありません。本来は神のもの。皇帝に納税することの是非よりも、地上での私たちの生活が一切神の主権のもとにあるということに注目すべきなのです。皇帝への納税の問題よりも、神に如何に借りたもの、つまり、あずかったものをどのようの返却していくのか、そのような人生のほうが重要な問題だと教えられます。

 

【信仰的判断】

 聖書に書かれていないことは自由ではなく、信仰的に判断しなければなりません。信仰をもってどう考えるかのほうが重要なのです。聖書に書かれていないことであっても、聖書に育まれて信仰的に判断するのです。だから、私たちは日々聖書を学ばなければなりません。どれがキリスト教的ものの考え方なのか、信仰者としてどう考えればいいのか。このように毎日具体的な事柄で私たちは判断を下すべきなのです。

 

このために、私たちに必要なことは教会で、あるいはキリスト信者の交わりにおいて、聖書の考え方を学び、信仰を育まれ、キリスト教的なものの見方を身につけていき、信仰によって決着していくのです。聖書に書かれていないからといってキリスト教信仰と関わりのない結論を出すのではなく、聖霊の導きのもと、信者として一番ふさわしい決定をしていくのです。人生の重大な局面でこそ、このことができるかどうか、それが大きな課題となってきます。聖句一つだけで判断せず、毎日聖書を学びながら、総合的に聖書を読み、その知識でもって具体的な事柄に決着をつけていくのです。(おわり)

 




2015年11月29日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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