2015年11月22日説教「土台となる捨てられた石」金田幸男牧師

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マルコによる福音書12章
1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。


 

要旨

【権威のついて論争】

  イエス・キリストが三度目、神殿に来た時、当時のユダヤの宗教、政治の指導者らと権威のついて論争をされました(11:27-33)。そのつづきが今日の12:1-12で、まず、イエス・キリストは譬えを語られています。このたとえは今までのように一般の聞き手に語られたのでもなく、内容も今までの譬えのような「牧歌的」雰囲気は皆目ありません。

 

相手は、権威を振りかざす祭司長、律法学者、長老たちでありました。譬えで語られたのは、そこで彼らの隠された心を暴露するためであって、直接語られなかったのは、まだそのとき、つまり彼らと決定的衝突を回避されるためであったと考えてよいのではないだろうかと思います。

 

 この譬えは内容がとても深刻で、しかも敵対者の心の中を見抜いています。あまりにも露骨なのでイエスが本当に語ったのか疑問視されることもあります。しかし、その信憑性は疑いようありません。真正なイエス・キリストの言葉として受け入れてよいと思います。

 

【ぶどう園】

この譬えですが、舞台はぶどう園です。ぶどう園は旧約聖書にしばしば登場します。このキリストの譬えはイザヤ書5章1-7をすぐさま思い起こさせます。

 

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。

しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。」

 

ここに記されているように、ぶどう園はイスラエルを象徴しています。イエスの譬えでもぶどう園はイスラエル、その指導者たちを表わしていることはすぐ分かります。農園主は主である父なる神を指していることも分かります。

 

【農園主と農夫】

 このぶどう園には、垣、搾り場、見張りの塔が造られます。垣は石で組まれたと思われます。搾り場に設置する搾り機は普通は石を刻んで造られます。そして、見張りの塔は、見張り台であると共に野獣から農夫たちが身を守るための施設です。これだけきちんと設備が整っているぶどう園はすぐれた農園ということができます。当時のぶどう栽培はぶどう酒を醸造するのが目的で、大掛かりな農業になっていました。イエス・キリストはイザヤ書からこの譬えを語られたようですが、当時の実態も反映していると言えます。当時、パレスティナにはローマの占領と共に、資産を持っている裕福な人々が農地を安く買い取りました。彼らは不在地主で、その所有地には住まないで、農園を農夫に貸し、収穫のとき一定の割合で所有者に納めるという契約を結びました。

 

 この譬えでは、所有者である農園主は何か落ち度があるようなことをしていません。彼は自分の農園に多くの資本を投入して、立派な農園を造っていました。そして、農民とは正式の契約を結んだのでありましょう。何も不当なことをしていません。落ち度なく農園主として、収穫の一部を期待したに違いありません。

 

 ところが陰惨な事件が記されます。農園主は収穫期になったので、契約通りに、ぶどう酒を送ってくるように連絡をします。ところが農夫たちは送られてきた農園主の使いにひどいことをします。送られた来たしもべを殴るは、たたくは、袋叩きにしてしまいます。その上、別のしもべを殺してしまいます。

 

 農夫たちはなぜこんなひどいことをしたのか。農園主が外国の占領軍と一緒に入ってきたものだったからかもしれません。しかし、農園主が外国人であったとは記されていません。とにかく、農夫たちは農園主に契約通りの貢納を拒否しました。ひとり息子を殺害したのはなぜか。おそらく、農夫たちは農園主が死んだと思ったのではないでしょうか。そんなうわさが飛んだのかもしれません。農園主が死ねばその財産は一人息子が継承します。しかし、その息子もいなくなれば、農園主はいなくなり、耕作をしているものたちのものになるかもしれません。おそらくの話ですが、農夫たちは豊かにぶどうを生産するこの土地が欲しいと思ったのでしょう。欲しくなると手段を選ばない。

 

農夫たちの動機は欲であったといえるのではないでしょうか。欲しいものを自分のものにしたいと思うと手段を選ばなくなります。殺人も犯す。これが人間の罪ではなくて何なのでしょうか。次々と農園主が送る使者を亡き者にした理由は貪欲、物欲、所有欲であり、その欲望を満たすためならば手段を選ばない。あるいは欲望を阻止しようとするものも殺してしまいたくなる。このような感情は決して作り話ではありません。現実の私たちの姿でもあります。

 

 一つ不思議なのは、なぜ農園主はこれほどまでされながら農夫たちから収穫の一部を獲得しようとしたのか。農夫たちを信頼していたのかもしれません。どんなひどい仕打ちを受けても我慢するほどに、農夫たちが必ず心を入れ替えてくれる。そう信じたのでしょう。

 

 農園主は、農夫たちと契約を結びました。契約は単なる約束ではありません。それが神の前でなされたとすればその契約は決して破られることはない・・・農園主はそう信じたのかもしれません。相手を信じる、これが農園主の心であったと考えることができると思います。

 

 この譬えで送られたしもべらが預言者であったこと、その一人息子こそイエス・キリストであることはすぐ分かります。

 

 イエスの譬え話を聞いて、祭司長たちは自分たちに言われているとすぐに気がつきます。イザヤ書のことは聖書の専門家ならばよく知っていた話であったと思います。

 

 イエス・キリストはこの譬えを閉じるにあたって、息子を殺した農夫たちがどんな結末を迎えるか語られますが、祭司長たちが烈火のごとく怒ったとしても不思議ではありません。イエスをこのままにしておくことができないと思ったでしょう。しかし、群衆が近くにいたので手を出すことができませんでした。

 

 ここまで読むと、キリストは、間もなく起こるであろう、十字架の苦難を予告していると取ることができます。キリストはエルサレムで経験される恐ろしい出来事、祭司長たちの陰謀によって逮捕され、裁判を受け、処刑されるであろうことをよく承知しておられたということを示しています。キリストと祭司長たちの間は険悪となったことを知ります。

 

 ただ、このキリストの譬えはこれで終わりませんでした。キリストは詩編118篇22-23を引用されます。

 

家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。」

 

家を作るとき、多くの石材が用いられます。ところがある石は不要とされ、道端に放り出されます。ところが、増築のためか、あるいは近くに新しい建物を新築するためか、捨てられた石が丁度、柱石にすることが適当となります。基礎となる石がしっかりしておればその上に柱を立て、大きな建物を支えることができます。いったん何の役にも立たないとされた石が今は大きな構造物を支える石となります。

 

 譬えの中で、農園主の子どもは、殺されて、農園の外に放り出されます。ユダヤ人は死体が葬られることなく、野ざらしに放置されることほど嫌悪したことはありません。葬られることなく死ぬ、それは一番悲しむべき事実でした。農夫たちは農園主の息子に最大限の侮辱を行ったのでした。許しがたい行為です。

 

 イエス・キリストもまた同じように十字架という残酷で残忍な処刑方法で殺され、木の上に放棄されました。キリストが蒙った辱めは言語に絶するものでありました。

 

 しかし、キリストは、その捨てられたものが神の救いの事業の中核となるのだと語られます。詩編の言葉はキリストにおいて現実となります。これにまさる驚くべき事件はありません。みなから捨てられ、辱められ、卑しめられた方が神の救いの働きを完成させられます。捨てられたキリストこそがまことの救い主なのです。

 

この事実をキリストはご自身の十字架と共に語られました。むろん、祭司長や律法学者たち、長老たちはキリストのこの言葉を全く聞いていません。譬えが自分たちにあてこすりだと感じてあとはもう聞いていません。詩編の引用で、捨てられたキリストこそ、新しいイスラエルの救済者であり、まことの神の家の土台となられたのだと、キリストは明言されています。

 

【裁きと救い:神の愛】

 そこで、キリストが語った譬えだけしか聞かなかったものには厳しいさばきのことばをだけを聞いたことになります。神の御言葉を中途半端に聞けば怒りを引き起こされるだけ、あるいは戸惑いを生じるだけということもしばしばあります。しかし、キリストの意図は、ただ滅びを予告されるというだけではありません。キリストの本当のみ心はそんなところにあるのではありません。神のひとり子を遣わされるほどまで神は私たちを心に留め、愛し、何とかして救おうとしておられるのです。間違いなくそうなのです。(おわり)

 

2015年11月22日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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