2015年11月15日説教「イエス・キリストの権威」金田幸男牧師

(本日の音声説教はありません)

説教「イエス・キリストの権威」

聖書:マルコによる福音書1127~33

27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。

32 しかし、『人からのものだ』と言えば......。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

要旨

【最高議会の祭司長、律法学者、長老たち】

 イエス・キリストとその弟子たちは三日目もまた、エルサレムの神殿に入って行かれます。そこで、祭司長、律法学者、長老たちと出会います。これはたまたま出会ったというのではなく、彼らがイエスを探していたと理解すべきです。この人々は、ユダヤ人の最高議会を構成する人たちです。

 

最高議会、サンフェドリンとよびますが、単に法律を定めるというだけではなく、ユダヤの宗教問題を取り扱い、また、各地のユダヤ人社会の揉めごと、民事紛争などの最終的な裁定を下すことになっています。ときには法律違反に対して処罰を下すこともあり、ローマの支配がなかったときは死刑の判決執行の権限も与えられていました。神殿警察を管轄してもいました。イエス・キリストは前日、神殿の境内で、商人たちの机や椅子をひっくり返すという「騒ぎ」を起しています。商人たちから多額の上納金を得ている祭司長たちからすれば、イエス・キリストの行為は許しがたいものと見えたはずです。

 

11章18に、祭司長や律法学者たちがイエスを殺そうと謀議を行ったとありますが、これはイエスを逮捕し、治安を乱すという罪をなすりつけて処刑してしまおうと考えたことを示しています。

 このたびは、イエスをすぐに逮捕して投獄するというようなことをしていません。群衆が周囲にいたからであると思われます。イエス・キリストは神殿の庭を中心に教えを語られていました。(11:17、18)。群衆はその教えに感動していたとあります。群衆の大半がイエスの教えを受け入れたのではなかったでしょうけれども、多くの人がその教えに心を動かされていたのを、祭司長たちも認めざるを得なかったのです。

 

 祭司長たちは、イエスを逮捕するように、同行していた神殿警察に命令を下したりしません。それよりも、穏やかに質問をしたとあります。むろん、穏やかであってもその真意は、キリストの返答次第ではキリストを逮捕してしまおうと考えていたに違いありません。あるいは、その答えによって群衆が失望したり、反感を感じたりする可能性を考えていたということもありましょう。

 

【何の権威によって、このようなことを】

 何の権威によって、このようなことをするのか。「このような」とは、直接には宮清めと言われている商人たちの追い出しを指していると思いますが、また、祭司長たちの許可もなしに勝手に神殿で人を教えていたということもあり、また、三日前、群衆は「ホサナ」と叫んでイエスと共にエルサレムに入城したことも含まれていると思われます。

 

 祭司長たちが問題にしたのが権威の問題でした。実際、祭司長たちこそ当時権威を持つものとされていましたし、彼ら自身そう自覚していました。祭司長は神殿を管轄し、ユダヤの宗教的権威とされていました。政治権力も掌握し、事実上、ユダヤの国家元首のような立場にありました。

 

律法学者は律法の解釈と適用の最高権威と認められていました。律法は単に宗教だけではなくユダヤ人の日常生活を律する役割を持っていました。

 

長老たちは各地のユダヤ人社会の指導者であり、最高議会に送られる前の民事裁判を司ったのです。彼らこそユダヤ人社会の権威でありました。

 

【権威とは】

 権威というものは単なる名目の問題に過ぎないというのではありません。権威はそれ自体威圧する力を持っています。権威は大家とも言われます。ある流派の師匠はその道の権威とされます。権威を持っている以上、その権威の下に人を置き、命令し、あるいは、服従を求めます。権威とはそういうものです。権威が単に名目などというのは言葉の矛盾です。権威はその成員に対して力を振るいます。権威は威圧する力を伴います。

 

 最高議会にとって彼らが持っている権威に対する挑戦は許しがたいとされます。彼らが持っている権威は手放すことなどありません。政治権力がその代表です。いったん政権を掌握するとそれを手放すというようなことは絶対と言っていいほどしません。権力を掌握した政治家はその権威を振りかざします。それが政治というものです。権威を持つものはその権威を振りかざして、多くの人間を権威の下に置こうとします。

 

 イエス・キリストがしていることは最高議会の権威に逆らうものとみなされたのです。イエスを許しておくことができません。誰が神殿でそんなことをしてもよいという許可を与えたのか。そのような許可は最高議会の権能に属するものと思われていました。ところが何の了解も許可も得ずに不埒なことをしている。これが最高議会の受けた印象でした。

 

【イエス・キリストの権威】

 ところがイエスは彼らの思惑にはひっかかることはありませんでした。キリストは最高議会のメンバーに答えるという形ではなく、キリストご自身が質問をします。

 

【ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか】

 ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか。天からのものとは神からのものを意味します。洗礼者ヨハネのことは福音書に断片的に記されていますが、マタイ3章2でヨハネの言葉が記されています。これはヨハネの説教の要約と言うことができます。

 

ヨハネは[悔い改めよ、天の国は近づいた]と公言しました。ヨハネはこうして悔い改めたものに洗礼を授けました。洗礼者ヨハネの洗礼とは、悔い改めて受ける洗礼のことです。悔い改めよ、と叫んだヨハネは預言者とみなされていました。聖書の中にその言葉が残されている預言者の系列にあり、神の言葉を受けて、それを語る人々がいました。彼らは神の言葉を語りました。だから預言者と呼ばれていました。今日ではもう、預言者活動は終わっていますが、キリストの時代は預言者も活躍していたのです。神からの託宣を受けたものとして語ります。洗礼者ヨハネは預言者だと思われていたのです。ヨハネはキリストに先立って、御言葉を語りました。

 

 キリストも洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その点で、洗礼者ヨハネと同じようにキリストも預言者と認められていたのです。ヨハネは民衆から預言者だとみなされていました。このことは祭司長たちも認めざるを得ませんでした。

 

むろん、祭司長たちが本心からヨハネが預言者と認めたいたわけではありません。その反対です。ヨハネの権威など認めるはずがありません。もし、ヨハネが預言者であれば、神からもみ言葉を受けたのです。ヨハネが語る言葉は神からの権威によって語られたものです。民衆はヨハネを預言者だと認めているからには、ヨハネの教えもまた神からのものといわなければなりません。

 

 むろん、祭司長たちは、ヨハネが預言者だとか、神からの権威で語っているなどと信じていたわけではありません。むしろ否定をしていたはずです。しかし、では人からの権威に過ぎないといえば、群衆は祭司長たちに反感を持ち、あるいは暴動でも起したかもしれません。ですから、ヨハネが神の権威をもって語っていたとか、まことの預言者だと認めるようなことはできませんが、では人からの権威によって語っているというのではあれば、民衆から袋叩きに会うかもしれません。口が避けても言えないことです。そこで彼らの出した結論は[分かりません]でした。分からないということはむろん答えになっていません。彼らはイエスの質問をはぐらかせたことになります。イエス・キリストはそのような祭司長たちの答えに[自分も何も答えない]と宣言されます。キリストも沈黙をもって答えられます。むろん、キリストは言わずもがなに答えておられます。キリストもまた神からの権威で語っているのだと。

 

【権威を否定する】

 権威というものは、それに直面すれば二つの態度表明の方法があると思われます。ひとつは拒絶です。沈黙であれ、権威に対する反抗であれ、権威を否定するという態度です。自分が持っている権威を固守するためにそうする場合もあります。相手が持っている権威、そのために威圧を持って差し迫ってくるものに、人は反抗する傾向をもともと持っているのではないでしょうか。

 

人が最初に出会う権威は親の権威です。親は親の権威を振りかざして威圧してきます。子どもは3歳くらいでもう反抗します。親の権威に反抗しながら子どもは成長していくものかもしれません。

 

次は教師の権威、学校の権威にたてつきます。生涯にわたって権威を否定し続ける人もいます。権威を嫌悪しながら人生を過ごす。

 

【権威に服従する】

もうひとつの態度は服従です。権威に対して弱いという特性をまた人はもっています。権威にたてつくことばかりしながら、ある権威にはめっぽう弱いという人もいます。

 

 私たちは、ここでキリストの権威に直面します。祭司長たちもそうでした。キリストの権威に直面していたのです。しかし、彼らはむろんキリストの権威を認めるようなことはしません。自分の持っている権威は手放すことがなく、またその権威に並び立つ権威など認めません。しかしながら、私たちもまた同様に、神の権威に直面しているのです。

 

 祭司たちはキリストの言動の権威が神からのものであるということを認めませんでした。そうすることで彼らは自分たちの持つ権威を擁護しようとしました。その権威をもって威圧する態度を変えることはありませんでした。

 

 私たちはここで神の権威を考え直さなければなりません。権威は威圧する力を伴います。神の権威もまた威圧する力を持っています。しかし、この権威は、恩寵という力で、救うという神の意志が明らかになっている威圧を伴います。この威圧に対して相変わらず多くの人たちは反抗します。そんな権威は認めないというのです。

 

【それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい】

 私たちは間違いなく神の権威の直面します。そして服従を示さなければなりません。祭司長たちはその権威を受け入れませんでした。沈黙でもって答えて祭司長たちに対しては神の権威でもっているということを明らかにされないままでした。それはさばきでもあります。(おわり)

2015年11月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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