2015年9月6日説教「子どもを祝福するイエス・キリスト」金田幸男牧師

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説教「子どもを祝福されるイエス・キリスト」

聖書 マルコ福音書10章13-16

 

要旨 今までマルコによる福音書を学んできましたが、子どもが登場する個所が2ヶ所ありました。

 

【主イエスの子ども観、1】

9章36では、弟子らが、自分たちの中で誰が一番偉いのかと論じ合っていたとき、キリストは彼らの真ん中に子どもを立たせ、「わたしの名のために、このような子どもを受け入れるものがわたしを受け入れるのだ」と言われました。イエス・キリストのために、キリストの代わりに子どもを受け入れるようなものこそ一番偉いのだというのです。子どもは価値のないものとされていました。その子どもをキリストのために受け入れ、尊ぶものこそ弟子たちの中で重視されるべきなのです。

 

【主イエスの子ども、2】

第二は9章42で「わたしを信じるこれらの小さいものの一人を躓かせる者は大きな石臼を首にかけられて海に投げ入れられるほうがはるかによい」とあります。小さいものは子どもを指していますが、比ゆ的に用いられていて、小さいものはただキリストを信じるもので、その中でもあまり重視されていないようなものを指しています。弱いものを躓かせ、キリストから引き離すようなことをするものは溺死刑に処せられたほうがよい。

 

【主イエスの子ども、3】

そして、第三に上げられるのは今日学ぼうとしている10章13-16です。子どもがイエスに触れていただくために連れて来られたとあります。この子どもを祝福するイエスの働きについてはマタイとルカ福音書にも記されています。

 

マタイ19章13では「そのとき、イエス手を置いて祈っていただくために」子どもが連れて来られたとあります。当時の習慣では、名声を博している教師、あるいは有名な人が来ると彼らに子どもを祝福してもらうことになっていました。偉い人であればあるほどその祝福の祈祷には効力があると思われていました。そして、祝福は単なる祝福祈願に留まるものではなく、その祝福は現実に実を結ぶと信じられていました。

 

ルカ18章15では、触れていただくためにやってきたものの中には、乳飲み子も含まれていたことが知られます。マタイとマルコの出てくる子どもは12歳くらいの子どもをさす用語ですが、ルカの場合はまるっきりの赤ん坊を指しています。中には泣き叫ぶような小さい赤ちゃんもいたでしょう。さらに、人々と訳されている言葉は「男たち」と訳されてもよい表現です。連れてきたのは一家の長でした。だからその妻も同行し、子どもの兄弟姉妹もいた。となるとこの場は騒然としていたに違いありません。

 

【叱る弟子たち】

 イエスの弟子たちがこれを見て叱りつけたとありますが、理由は容易に推測できます。キリストは長時間教えておられました。今日と違いマイクやスピーカーがあるわけではありません。キリストは声を張り上げて語られたことでしょう。長時間の教えにキリストは疲れきっていました。弟子たちも同様に疲れを覚えていたでしょう。そこでたくさんの人が押し寄せてきたのです。弟子たちはその勢いに怒りをおぼえたのです。疲れきっているキリストをはじめ、弟子たちの休息を邪魔するなどとはとても失礼なものと思ったのでした。

 

【主の憤り】

 ところがキリストはそのような弟子たちの言動に憤られたとあります。なぜ、キリストは腹を立てられたのでしょうか。マルコの福音書では、キリストの感情を率直に記している個所があります。マルコはイエス・キリストをこのように情に動かされるものと見ています。実際キリストは喜怒哀楽を示す方です。決してキリストは冷血漢ではありません。キリストの感情がよく表現されています。マルコの特徴的な表現です。

 

 キリストは子どもたちを祝福したいと切に思われていたに違いありません。ところが弟子たちが阻もうとしています。それに憤られたのです。キリストは子どもたちを祝福したいと願われました。子どもは祝福されなければならないと思われ、祝福したいと願われたのです。

 

 キリストは子どもたちを来させ、神の国はこのようなものたちといわれます。「はっきり言っておく」は厳かに真理を宣言されるときに使われる表現なのですが、神の国の真理をキリストは自らの口で明言されようとしています。

 

【子どもはなぜ祝福されねばならないか】

 ここで私たちは二つのことを十分区別しておかなければなりません。この二つはもちろん相互に深く関係します。ただ、区別が必要なのです。

 

 まず第一のことから見て行きましょう。イエス・キリストは何としても子どもたちを祝福しなければならないと思われます。弟子たちがそれを阻もうとしたとき激しく怒られました。それほどキリストは子どもの祝福を重視されています。

 

 今日、私たちが見ている子どもたちと当時の子どもたちは大いに異なる状況に置かれていました。子どもは弱い、というよりも価値のないものとみなされていました。その弱さは二重の意味を持っています。まず、子どもたちが幼くして死ぬ率は極めて大きなものでした。私たちの中で高齢者と言われている世代には,子どものころに兄弟をなくした方も多いのではないでしょうか。わたしも実は6人兄弟ですが、二人の姉は「赤痢」とか「疫痢」と言われている病気で、一人は6歳,もう一人は3ヶ月で亡くなっています。子どもすべてが順調に育つことのほうが稀な致死率でした。

 

イエス・キリストの時代にはいろいろな病気があり、栄養状態も悪く、それにさまざまな事故で子どもはあっけなく命を失ったのでした。キリストはそのような子どものために祝福を祈ろうとされています。

 

もうひとつの弱さは社会的なもので,子どもは価値のない存在と見なされていました。家父長制家族制度の中で父親は生まれたばかりの子どもを殺害しても犯罪にはなりませんでした。また、子どもを負債のために奴隷に売ってしまう権利を有していました。子どもの置かれた状態はこのように劣悪でありました。それは実はほんの2.3百年前まで続いてきた状況でした。子どもは弱く、価値もなく、重視されていません。まして子どもの人権などまったく認められてはいませんでした。そのような子どもたちをキリストは祝福されたのでした。それは弱いものへの憐れみ、同情を持って祝福するものであったと断言できます。

 

キリストは弱い立場のものへの憐れみを示されます。10章1-12では、離縁された社会的には疎外されている女性への憐れみを示されていますが、ここでは弱いものと見られていた子どもへの深い慈しみを示されます。

 

 ここでキリストは子どもたちを祝福されました。この子どもたちは、劣悪な状況に置かれていましたが、キリストはその子どもたちが苦しみの中にないようにと願われたのです。そして、実際医学の進歩で子どもが小さいときに命を失う状態は少なくなって来ています。ますます医学が進歩して子どもたちが幼いときに死ぬというような悲しみが少しでも少なくなるように私たちは願い、また実現のためにもっともっと教会は関心を払うべきでしょう。

 

キリストの祝福から2000年も過ぎています。その間、キリストのなされた祝福は文字どおりに現実のものとなって来ています。また、社会的に子どもの人権が認められて来ています。子どもたちは大事に育てられています。これこそキリストの祝福の実現です。キリストが祝福されて何百年かかり、祝福が現実のものとなって来ています。だからこそ、世界にも日本にも不幸で悲惨な状態にある子どもが多くいることを覚え、そのような子どもたちが少なくなることを願い祈り、またそのために支援の働きも肝心でしょう。

 

【子どものように】

 もうひとつのことを学ばなければなりません。イエス・キリストは厳粛に真理を宣告されます。神の国は子どものような者たちに属する。子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることは出来ない。ここで子どもは比ゆ的なものとして表現されています。

 

子どものように、という表現は二種類の意味があります。ひとつは子どものような無知蒙昧で、知恵がないという意味がありますが、ここでキリストがいわれる意味ではありません。キリストがここで言われているのは、子どものように素直で、純真で、疑うところのない、という意味です。

 

母親がこのような経験をしていることだろうと思います。疑うことなく母親の愛に依存している子どものように、神に疑わず、真実に、神を信じるもの、そのようなものが神の国に入れます。

 神の国とは何か。単語そのものは「神の支配」を意味しますが、抽象的な物言いです。地獄はどういうところか私たちはすでに見ました。(10章42-50)

 地獄は聖書ではどういうところか表現されていませんでした。私たちはこの世界で地獄を見ます。地獄絵を見たと表現されたりします。そのとおり、地獄のような悲惨な有様を、私たちは目にします。戦争、飢餓、疾病、あるいは、天災、このような事件に遭遇してその有様を見た人には地獄をみたかのように思われますが、それは地獄絵なのです。正確に言えば、本当の地獄はそれ以上だということです。想像を超えています。私たちは地獄がどれほど恐るべきか真実に知らされているのではありません。

 

神の国、天国についても同じことが言えます。黙示録21以下に記されている新しいエルサレムはまことの神の国の表象ではありません。あくまで幻です。黙示とはそういうものです。偽りではありません。しかし、それは本当のものを目撃して言い表されたものではありません。神の国はそれ以上なのです。私たちはその神の国に入りたいと思うのであれば子どものように、神を信じ、自らは救いに相応しいものは何もないとへりくだり、ひたすら神からの救いの賜物を期待するしかありません。自分の相応しさを主張し、救いに相応しい実績をもっていると神の前で強弁など出来ないもの、それがここでいう子どものようなものを指しています。ただ、神から恵みを受けられることだけを期待する、それが神の国に相応しい子どものようなものなのです。(おわり)

2015年09月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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