2015年9月20日説教「神の国に入るのはむつかしいか」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書10章23~31
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
:27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。

説教「神の国に入るのは難しいか」

聖書:マルコ10章23-31

 

要旨

【神の国にはいるのに必要なものとは】

 イエス・キリストに従えと言われながら、従うことができなかった議員であり、金持ちであった若者のことを見ました。彼の場合、財産を捨てることができないためにキリストに従えなかったのです。彼は財産を持ったまま神の国を相続しようとしました。彼にとって財産は生きていくうえで不可欠であり、それなしに人生は成り立たないと考えられたのです。しかし、財産だけではなく、私たちにとってそれがないと生きられないと思うようなものがたくさんあります。ある人にとっては名誉地位であり、家族であり、土地であったりすることもあり、健康や職業も人生にとって欠くべからざるものと思われます。

 

宗教の世界でも、宗教への傾倒,熱心さ、あるいは神学研究へ没頭してしまい、それがないと神の国に入れないかのように思われることもあります。私たちの人生経験、価値観、世界観などに影響されて、神の国に入るためにそれ相応の経験や体験を要すると考えられています。それらが神の国に入る交換条件のように錯覚するのです。

 

 イエス・キリストにところにやってきた若者の場合、律法の行いが神の国に入る条件であると思われていました。律法を守りさえすれば神の国には入れるのはないかと思ったのでした。しかし、彼の予想は覆されます。神の国に入るためには財産を放棄すべきであるとされます。

 キリストは、弟子たちに顔を向けられます。キリストは間もなくエルサレムに行こうとされます。そこで十字架にかけられて命を失うことになっています。それは贖いのみわざです。これによって罪人に救いの道が開かれます。弟子たちに救い、つまり、神の国に入るためにはどうすればいいのか改めて教えられます。

 

【財産のあるものは神の国に入れない】

 財産のあるものは神の国に入れない、つまり、永遠の命を獲得できないと言われます。財産のあるものはそれに固執して、結局、財産も救いにとっては不可欠であると錯覚してしまいます。財産がなければ救いは危うくなると思うようになるのです。財産があればこそ救いも安泰と思うようになります。

 

 ユダヤ人は財産を築くことは神の恩寵であると思っていました。そのように資産が増えることは神の祝福であるということには間違いありません。ユダヤ人の中ではイエス・キリストの教えに違和感を感じる人がいても当然です。富のあるものが神に近いと思われていたのです。英国のピューリタンもそうですが、彼らは、事業の成功自体、自分たちが救われ、救いに選ばれていることの証拠、神の祝福であると確信をしていました。アメリカン・ドリームということがありますように。

 

事業の成功は神の祝福であると考えるのです。敬虔で信心深い人が事業に真剣に取り組み、それでもって豊かな生活ができるようになる、それは神の恵みと考えられたのです。特に資本家にとっては、収益増大は予定されているものに対する神の格別の働きに他ならないとまで考えました。その上、彼らは浪費などしません。その儲けを新しい事業に投資する。結果的に資本が増加し、資本主義が栄えるようになるのでした。近代の資本主義促進とピューリタンの関係を説く学者もいます。もし金持ちが神の国に入れないとすると、財産を得ることが神の恵みとする一般ユダヤ人と衝突することになります。このような考えは誤解であることは間違いありません。確かに財産を獲得することができるのは神の恵みです。しかし、その財産が神の国に入るために妨げになることもあるのです。財産があたかも人間の救いを保証するかのように考えられるならば、その財産は救いにとって妨げとなります。

 

【神に国に入ることは難しい】

 イエス・キリストは弟子たちに語り続けられます。神に国に入ることは難しい。まして、金持ちが神の国に入ることはいっそう難しい。ふたつの文章は同じことの繰り返しではなく、別個の問題を明らかにするものです。私たちはしばしば前半を誤解することが多いと思います。つまり、この文章も金持ちを対象にしていると考えてしまうのです。キリストは弟子たちに向かって語られています。金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい。これは不可能だというものです。しかし、弟子たちなら神の国に入れるのでしょうか。キリストはここで弟子たちが神の国に入るのは難しいと言われたのです。弟子たちもまた神の国に入るのは不可能に近い。まして、金持ちはさらに難しい。ここは弟子たちのほうが可能性は若干高いというような感じはまったくありません。神の国相続は誰にとっても困難なのです。

 

 弟子たちはイエスの言葉をそのまま受け入れています。人間のうち、一体で誰が神の国に入る資格を持っているか。だれが果たして救われるのか。イエスの言葉とおりならば、だれも神の国に入れないではないか。

 

【人には出来ないが神には出来る】

 キリストは弟子たちに答えられています。人間にはできない。しかし、全能の神にはできないことはありえない。神は何でもできる。だから、人間的にとっては到底不可能と燃えるようなことが起きるのです。まったく神の国に縁がないと思われるものにも神の国の招きがあるでしょう。人間的には神の国など遠いものと思っているかも知れませんが、神にはできないことはありません。決心されたら神は最も救いに遠いところにいるものにも招き、救いを与えられます。神はそのように救いの道を明らかにされます。

 

 人間は自力ではまったく神の国を相続できるような存在ではありません。しかし、神が可能にしてくださいます。イエス・キリストを十字架につけ、それによって、私たちは神の御前に近づくことが出来るようにされたのでした。人間には救いは不可能であるが、イエス・キリストにあって救いの道を神ご自身が案内されます。

 

ペテロ:「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」】

 ところがペトロが登場します。福音書の中でペトロの行動は愚かな質問をし、的外れの答をしたりでとても12人の使徒団のリーダーとは思えません。キリスト復活後のペトロの役割から見るとずいぶん違ったイメージの弟子と思われます。ここでペトロが言いたかったことは、自分たちはキリストの弟子として全てを投げ打ってきた。キリストにすべてをささげている。となると神の国は私たちのものではないか。キリストの弟子たちの中でペトロは人一倍熱心であったことは間違いありません。金持ちの若者は悲しいことに去って行きました。それに比べて弟子たちははるかに神の国に入るために好条件に恵まれているではないか。ペトロの気持ちの中には、われわれはあの金持ちの若者とは違うのだという自負心も感じ取られます。あのような若者に比べれば、我々は神の国に入る相応しさはあると思ったことでしょう。ところがキリストはそういうことを認められませんでした。永遠の命を得るために家屋、家族、財産を捨てるだけではすみません。そこで求められていたのは神に対する絶対的依存の信仰でした。実際、この時点ではペトロは何も分かってはいませんでした。彼は自分こそ神の国で相当の地位を得られると思っていたのでしょうか。 

 

 キリストはペトロを叱りつけたり、非難されていません。直接ペトロの名を挙げてペトロの発言を退けるようなことをされていません。キリストは本当に神のみ国に入れるのは誰かと教えられています。それは、まず家(家屋)、家族、そして、最後に土地(所有)を捨てるものだと言われています。これらを本当に捨てたものだけが救われます。ペトロはどうであったでしょうか。彼はカファルナウムに自宅があったようです。また、妻子もあったようです。キリストの弟子たちの中には裕福なものもいました。例えば収税人もいたのですが、彼らは不正な手段で多くの財産をかき集めていました。マタイは弟子になったときもその財産をすべて失うように決心したのではないと思います。また、キリストの弟子たちの中には財布係もありました。12人以上が団体で行動するのでした。経費が必要であったようです。ペトロが、キリストの弟子たちの中では、筆頭格で、財産を放棄したとありますが、まったく資産を持たなくなったのではありませんでした。

 

【迫害を受ける】

その上、迫害を受けるとも記されています。迫害に耐えられず、脱落していくものもあるでしょう。こうなると神の国を相続できるのは一体誰と誰かということになります。誰もいないのです。

 このように徹底的に放棄できる人ならば神の国に入れるだろうけれども、どのようなキリスト信者も、とても神の国ははるかに遠いものです。あのペトロとて同様です。何もかも捨ててきましたといえるほど彼らは努力を積み重ねてきたはずですが、キリストが示される基準には達しないはずです。ペトロはここで認めなければならなかったのですが、彼にはとても神の国に入る資格はありません。これを認めてただ神の救いの恵みに頼らざるを得なかったのです。人間はどういうことをしても神の国に入ることができません。ただ神にお願いするしかありません。神の恵みにより、信仰によって捉えるものなのです。

 

 それでもなお、自分は神の国に入るために最大限の努力をしてきた、だから神の国に入れる資格はあると強弁するものもいたことでしょう。キリストは言われます。先のものが後になり、あとのものが先になる。このみ言葉はいろいろなところで用いられています。マタイ20:16、ルカ13:20・ただ文脈から見ると違ったところにおかれていますので、キリストはこの言葉をいろいろな場合に用いられたのでしょう。自分は先頭を切って忠実に努めて来た。こういう自負心を持つものも出てくるでしょう。キリストはそういう先頭を切っていたものも最後には脱落寸前にまで追いやられ、勝利者は別人となるといわれます。自ら救いを率先して獲得できると自負するものはかえって神の国を得られず、できないと思い、神に信頼するものはそれを得るのです。(おわり)


2015年09月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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