2015年8月16日説教「本当に恐れるべきこと」金田幸男牧師

CIMG0082.JPG
L150816001.wav ←クリックで説教が聴けます。

聖書:マルコによる福音書9章
41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。
44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。
46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。
49 人はすべて火で塩づけられねばならない。
50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。


説教「本当に恐れるべきこと」

 マルコ9章42-50

 

要旨

イエス・キリストが弟子たちだけを集めて語られた教えが続きます。42節以下50節までは三つの部分(42、43-48、49-50)に分かれていますが、それぞれ別個の教えとも取れます。しかし、つながりがあるとも考えられます。その見方でこの部分を学びたいと思います。

 

【小さな者】

まず42節ですが、41節と結びついていると考えられます。「小さな者」とは子どもを意味しますが、ここでは「わたしを信じる」とありますから、イエス・キリストの弟子たち、しかも12人の弟子たちだけではなく、広くその他の弟子をも指していると見るべきです。

 

イエス・キリストを信じているものたちを躓かせるものは首に石臼を巻きつけられて海、この場合はガリラヤ湖に投げ込まれたほうがいい。石臼を首に結わえられて湖に放り込まれたら溺死は避けられません。生きたままですから、当然苦しみながら死ななければなりません。これは法に則った処刑ではなく、個人的な憎悪からなされる私刑ではないかという人もいます。できるだけ苦しむように殺すやり方です。

 

キリストの弟子たちを躓かせるとは、キリストの弟子として生きることを妨げる行為を意味しています。キリストの教えに従うことを阻み、その道から落伍させてしまうようなこと、その中には暴力的に圧迫して棄教させることも、誘惑で信仰の道から外れてしまうようにすることも含みます。

 

キリストの弟子たちを惑わせ、試み、信仰から逸脱させるようなことをするものは、ひどい殺され方で死ぬほうがよほどましだ。キリストの言葉は激烈です。世間では宗教とか信仰とかは小さな問題で、信仰の道を行くものを脱落させても些細な問題だと思われています。

 

しかし、キリストは弟子を信仰から外れるようにすることは最大級の悪虐行為だとしています。罪を犯させることは決して神の前では小さな問題ではありません。それは恐るべき邪悪な行為なのです。宗教など小さな問題、取るに足りない問題に過ぎないと片づけられてしまいます。神の眼からすればそうではありません。小さいもの=キリストの弟子たちに一杯の水を施すものには大きな報いがあります。その逆にキリスト者を躓かせるものは最大級の処罰があります。

 

43-48節には、手、足、目が取り扱われます。一方の手、足、目が躓かせる。罪を犯させるという意味です。42節で躓かせるのは外部の人間を指していましたが、ここでは本人です。本人の手、足、目が躓かせる。罪を犯させる。その根っこには邪まな願望や欲望があるでしょう。何かを無闇に欲しがるようなことを念頭に置けばいいのでしょう。その場合、片手、片足、片目を切り捨てたり、潰したりしたほうがよい。両手、両足、両岸が無事だが地獄に陥るよりもそのほうがよほどよい。

 

【地獄:ゲヘナ:ベン・ヒノムの谷】

ここで地獄と訳されている元の言葉は「ゲヘナ」です。このゲヘナは、実在するヘブライ語でいうベン・ヒノムの谷のことなのです。ヘブライ語をギリシヤ語で読むとゲヘナとなるのです。

 

ベン・ヒノムの谷とは丘の上に立つエルサレムの右側の谷を指します。ここは旧約聖書に出てきます。列王記下23:10にはヨシヤ「王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。」

 

モレクは近隣の諸国で礼拝されていた偶像神ですが、ベン・ヒノムの谷ではその神が礼拝されるだけではなく、子どもを犠牲ささげていたというおぞましいことが行われていました。ヨシヤ王は改革の中途でエジプト軍と戦いあっけなく戦死をします。その後のユダの状況はエレミヤ7:31-32で知ることができます。「彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。そのとき、人々はもはや余地を残さぬまで、トフェトに人を葬る。」

 

ユダ王国滅亡寸前の時代までこのような悪弊が行われていました。こののち、この谷はエルサレムのゴミや汚物が投げ込まれる場所とされました。また、死んだ動物の死体も、ときには人間の死体も投げ込まれました。エルサレムの町から見ればいつもゴミを焼く火が見え、悪臭が漂い、骸骨さえ転がっている薄気味悪いところとされました。エルサレムの人たちはそれが地獄絵のように見えたのです。醜悪で、汚染し、気味が悪い、とても人間のいるべきところではない様子を見て、地獄とはこのようなところだと想像したのです。

 

聖書には不思議なことに地獄についての詳しい描写はありません。48節では「蛆が尽きず、火も消えない」と言われていますが、これだけでは地獄が十分に描写されていません。地獄に行って戻ってきた人はありませんから当然のことかもしれません。ゲヘナつまり地獄とはベン・ヒノムの谷のようなところだと想像されました。それはあたかも地獄絵のようだと思われたのです。

 

地獄はそれ以上の、想像を絶した恐ろしいところとしかいいようがありません。地獄の存在を否定する人が多くいます。しかし、聖書は、人間の目で見る最悪の災害、それは人災であり、自然災害であるのですが、特に戦争などが引き起こす悲惨な光景はまるで地獄のような風景です。地上にも地獄のような光景が展開されます。しかし、それは地獄そのものではありません。地獄は想像を超えたところであり、景色なのです。

 

地獄はそれは恐ろしいところです。もし、手、足、目が私たちを躓かせるならば健全なまま地獄に落ちてしまうでしょう。しかし、両手、両足、両眼が健全なまま地獄に落ちてしまうよりも片手、片足、片目を失うほうがよほどいい。イエス・キリストの言葉はここでも過激です。しかし、私たちは躓き、つまり、罪によって神から裁きを受けることを恐れるべきなのです。それは本当に恐ろしいことなのです。躓き以上に恐ろしいことはありません。罪を犯すことは些細な問題ではありません。罪は放置しておけば地獄に落ちてしまう原因となります。それは最大級に私たちが警戒すべきことなのです。ところが、手が、足が、目が、罪を犯しても平気、些細な問題と片づけけられています。これは恐ろしいことなのです。これこそ身震いするべき重大問題です。

 

地獄は恐ろしいところです。しかし、私たちには想像を超えています。罪がもたらす地獄の問題は小さい問題ではありません。それは世界最大級の問題です。ところがこの罪の問題ほど軽く思われているものはありません。罪がもたらす大きな災いを誰も念頭に置きません。地獄の問題は空想とされます。だから、罪の結果が地獄だと言われても平気です。この世の地獄を見たと言う人でも、神が用意されている本当の地獄が恐ろしいとは思いません。この世界の地獄絵以上に地獄は悲惨なのであり、悲劇的なのです。キリストはこのように罪の結果を軽視することに警告を発せられます。

 

49-50節は、43-48節と直接に関係にない話のように思われるかもしれません。塩のたとえ話です。しかし、49節で「人は火で塩味をつけられる」とあります。この火は前とのつながりから言えば地獄の火と言うことになります。人間と言うものは地獄の火で味気がつく。地獄絵を見たものはそれによって塩味をつける。ところが当時の塩は岩塩を砕いて利用しました。岩塩には不純物が含まれ、塩化ナトリウム以外の物質が含まれています。そういうところをいくら砕いても塩味にはなりません。まさしく味気がありません。何の役にも立たないのですが、いくらこの世の地獄を見たと言っても、それで味気を持たないなら何とも食えたものではありません。

 

地獄を想像し、あるいは恐れ、身を引き締めることもないようなものは塩気がないために食べても味のないつまらないものとなります。地獄を教えられても、それを聞き流すだけ、あるいは無視するだけ。そういう人は結局、塩味のない食べ物と同様と言うことになります。

 

では、塩が塩気を失えばどうするか。そのような塩は捨てられるだけですが、もうひとつの方法は自分の内に塩を持つことだと言われます。この塩とは何なのでしょうか。地獄と言う火で塩味をつけられない場合どうするか。そのままでは煮ても焼いても食えない状態、つまり何の役にも立たない状態です。しかし、塩を内に持つことができます。

 

【塩の役割】

その場合の塩とは何か。旧約聖書を思い起こします。レビ記2:13「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」神は日々穀物のささげものをささげることを命じられます。ささげものは献身のしるしです。それは動物の犠牲だけではありません。ささげるのは祭司ですが、それは民の代表として行なう行為です。そして、このささげものには塩を加えなければなりませんでした。

 

 塩はむろん保存用に用いられるのですが、そのような実用以上の目的がありました。それは神との契約を示す役割です。イスラエルの民は穀物に塩を混ぜた供え物をささげて、神との契約を確認しました。契約は、神がイスラエルの神、イスラエルは神の民であると言う契約です。こうしてイスラエルは神から特別の民とされ、憐れみと救いの対象とされます。塩はこの神の契約のしるしでした。

 

塩は契約の神に対する信仰を示します。神こそ契約を締結して私たちを贖われる。この塩を内に持つとは契約の確かさを真実に信じる信仰に他なりません。

 契約の民であることの自覚は、互いに平和であることに結びつきます。イエス・キリストの12人の弟子たちの間に亀裂が生じそうでした。キリストはそれを察知して、弟子たちに、まことのささげものの塩を持ち、互いに契約の民と自覚して、互いに一致せよと命じられていると受け取ることができると思います。(おわり)

2015年08月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1079