2015年8月2日説教「誰がいちばん偉いのか」金田幸男牧師


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 マルコによる福音書9章30~38節

説教「誰が一番偉いのか」

聖書 マルコ9章30-37

 

要旨 新共同訳聖書では、9章30-32と33-37はふたつの部分に分けられていますが、相互に関連するものとしてまとめて取り扱いたいと思います。

 

イエス・キリスト一行はそこを去ったとありますが、14-29節がフィリポ・カイサリア地方で起きたことでありますと、一行は南のほうに下り、ガリラヤ地方のカファルナウムに至ったと考えられます。そこでは家に着いたとありますが、いつもカファルナウムではペトロの家を用いていたと思われます。

 

【弟子たちにだけ語るイエス】

30節では人に気づかれるのを好まなかったとあります。以前は公然と群衆を相手に語っておられましたが、このたびはそのような人々を避けられます。なぜこんなことをされたのか。ひとつは働きの範囲をガリラヤからエルサレムに移すため、ガリラヤでの働きにピリオドを打つためであったと考えられますが、その他にも目的があったと思われます。キリストは31節では弟子たちにだけ語られ、33節では家の中で、つまり群衆を避けて、弟子たちだけを集めて教えを語られます。

 

35節にある、弟子たちとをぐるりと座らせ、ご自身が彼らの前に座る光景は当時の教師が弟子を教えるスタイルそのものでした。キリストは腰を据えて弟子たちに特別に教えようとしておられます。ではこんなことをしてまでもう一度弟子たちを一から教えようとされたのでしょうか。

 

弟子たちに、人の子=メシヤは苦難を受け、死に、しかし、復活すると二度も語られています(8:31)。同じことを二度繰り返すのは強調のためという場合があります。ここは強調とは思えません。むしろ、弟子たちの無理解が原因であったと思います。キリストは肝心要のことを語ろうとしています。

 

ところが最初のときもペトロがそのようなメシヤをまったく拒否する態度を示し、そのためキリストから厳しい叱責を受けます。弟子たちは二回目のキリストの言葉を聞かされました。

 

8:31と9:31の違いは若干記されます。9;31では長老、律法学者、祭司長から排斥を受けるとありますが、彼らは最高法院=サンフェドリンを構成します。最高法院はユダヤ人の宗教問題について裁判権を持っていました。ここでは「渡される」とあります。誰が渡すのか明記されていません。当然、キリストを渡したのはイスカリオテのユダでしたが、ユダというよりも神ご自身がキリストを渡されたのだという解釈もあります。これは興味深い理解です。

 

キリストの苦難は最高法院が裁判を行い、あるいは裏切ったものが神殿警察に身柄を引き渡したことを意味しますが、実はそうされたのは神であり、キリストは無実であるのに裁判にかけられ、処刑される。あるいは、死に渡される。それはキリストの苦難が神の計画の実現に他ならないことを示します。

 

【弟子たちはメシヤの苦難と復活の意味が怖くて尋ねられない】

弟子たちは再度キリストからメシヤの苦難と復活を語られるのですが、今回はその意味を尋ねることが出来ませんでした。その理由は怖かったからだと記されます。

 

分からないことは尋ねよ、は解決の秘訣ですけれども、弟子たちは恐れから聞けなかったのです。聞けないのは、彼らがメシヤについて今まで教えられ、信じてきたことをひっくり返される不安を感じたからだと思われます。ユダの人々にとってメシヤの期待は民族の希望であり、信仰であり、確信でした。それがひっくり返らされようとしています。イエスのいう人の子=メシヤは彼らが思ってきたメシヤと違っていたのです。さらに、弟子たちの間に亀裂があったのではないかと推測します。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人は主の栄光を垣間見ました。誰にも語るなと命じられていましたが、何かあったと他の弟子たちは思ったはずです。そして、残りの9人は悪霊を追い出すことが出来ませんでした。これは失策です。弟子たちの間にふたつのグループが出来そうです。それは分裂の兆しです。

 

弟子たちには信仰的不十分さが見られます。長い間キリストと行動を共にしながら理解は不十分、こういうことは起こりえます。私たちの教会も肝心の信仰の中心が曖昧になったり、分裂が起きたりします。危機的状況と言ってもよいでしょう。そのときどうしたらいいのでしょうか。いろいろ知恵を集めてあれでもないこれでもないと議論をしても始まりません。世間の知恵を借りて問題解決を図ろうとします。その道の専門家から忠告を聞こうとします。しかし、全然解決しないのです。

 

【キリストに聞く】

イエス・キリストはどういう方法を取られたでしょうか。弟子たちを集めて直接教えられました。問題を解決する方策はキリストに聞くことです。それ以外に方法はありません。私たちはいろいろの声に耳を傾けるべきでありますが、それは決定的な方向を示される道ではありません。困難なとき、惑うとき、悩むとき、私たちはキリストに答を見い出すべきです。聖書にはキリストのみ言葉が記されます。だから、聖書に聞き、答を求めるのです。この世の人々が言うような解決策ではないかもしれません。でも、そこにキリストの意志が示されます。それが最も正しい道なのです。

 

 弟子たちは議論をしていたのでキリストは尋ねられたとあります(33)。メシヤの苦難と復活については問うことが出来ませんでした。しかし、メシヤが来るとき神の国が完成するという信仰は弟子たちの共通の信仰でした。神の国は神の直接的な支配を意味します。弟子たちはそのような国が現実に成就すると信じていたのです。もっといいますと、弟子たちにとっては、神の国はローマ帝国のようなユダを圧迫する国家を打ち倒すことで成立し、ローマ帝国のような強国を打倒する現実の国家なのです。

 

神の国は弟子たちにとっては夢幻の国家ではなく、現実に存在する新しい国家そのものでした。むろん、神の国についてさまざまな考え方がありましたが、弟子たちがそこで高い地位を得られると言う望みを抱いていました。ところが弟子たちの中で3人組とその他の弟子たちの間で亀裂が生じ、神の国が完成したとき誰が一番高い地位につくかと議論を始めたと考えられます。

 

【間違ったメシヤ理解】

根本にはメシヤについての理解に間違いがあります。弟子たちはキリストから再度メシヤの苦難と復活を教えられましたが、受けいれられず、固執していました。それだけではなく、その国で高い地位に付くのは誰か議論をしていたのです。キリストは弟子たちの不十分さを叱り付けられていません。むしろ、神の国で一番偉いのは誰かということを教えられます。

 

【神の国では一番えらいものとは】

 キリストの教えは、一番えらくなりたいと思うものは仕えるものとなれというものであり、そのためにキリストは子どもを彼らの前に連れ出されます。この子どもはペトロの家のものかもしれません。ある注解書によると、アラム語では子どもと召使は同じ語であるそうなのですが、そうであればキリストが子どもをみんなの真ん中の立たせたのはどういうことか分かります。

 一番えらいものは誰か。一番先に立つもの、先頭を切るものは誰か。それは一番あとのもの、身分が低いものだと言うことになります。仕えるものとは、召使、奴隷のことです。当時の社会では身分の違いは決定的でした。ところが神の国が来たとき起こることは何か。それは普通に考えられているのとはまったく違う事態なのです。神の国では一番えらいものとは召使のように人に仕えるものだ。

 

 一番えらいものは最高の召使、奴隷なのだと言われます。つまり、神の国で実行される原則は、この世界とは逆なのです。子どもは古代ローマ社会では価値のないものとされていました。父親は嬰児を殺害する権利を持っていましたし、成長した子どもを奴隷として売り払うことも認められていました。子どもが権利を認められる、いえ、それ以上に人格を認められるようになったにはほんの数百年までで、それまでは子どもの権利などまったく認められていませんでした。キリストはそのような子どものようなものが神の国では権威があるとされています。

 

 そして、教会はその神の国の予表です。教会は予め完成された神の国を示します。ですから教会は神の国で通用する原則が生きているところです。教会では最高の地位あるものは一番へりくだっているものです。

 

 教会で、上に立つものが権力を振るうということがよく起きます。物理的な力、暴力さえときに用いられます。しかし、教会が神の国を予め示すものであれば、その教会は神の国で通用する原則に生きているところといえます。

 

 神の国の主はキリストです。そのキリストは、神の子でありながら、その栄光をかなぐり捨てて人となり、それどころか私たちのためにご自身を犠牲にされました。それはしもべの姿でした。キリストは最高に仕えるものとなられました。キリストこそ模範です。

 

 キリストのなされたことはこの世界の知恵とはまったく逆です。この世界では力を持つものが上に立ちます。政治的権力を握るもの、金の力を掌握するもの、ときには伝統とか技量とかを振るって上に立とうとします。地位とか学歴もときには上に立つための条件とされます。能力のあるものがもてはやされ、上に立つものと見なされます。キリストはそうではないと宣言されます。

 

 キリストの言われていることは理解はできます。ただ実践できるかと言われるとそうではありません。この世界のただなかに生きている私たちは、キリストの弟子たち同様、この世の原則や価値観で行動します。キリストの教えと齟齬を来たします。それが当然です。神の国の原理はこの世と異なります。私たちは神の国の原則に立つときこそ、神に受け入れられます。

 

子ども=価値がないと思われているものを受け入れる、それはキリストの教えを受け入れることです。キリストを受け入れるものには神を受け入れることになります。神を受け入れることこそ、神に受け入れられる条件となります。キリストの弟子たちは、このようにして正しい道を歩むことが出来るようになるのです。(おわり)

2015年08月02日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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