2015年7月12日説教「イエス、山上の変貌」金田幸男牧師

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聖書:新約聖書
マルコによる福音書9章
2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。


説教「山上のイエスの変貌」

マルコ9:2-8

 

要旨  

【六日ののち】

六日ののち、イエス・キリストは12人の弟子のうち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを選んで高い山に登られました。先ず、六日とはいつからか明示されていません。また、高い山がどの山かも記されていません。キリストが主としてみわざを行われたガリラヤ湖周辺であるとすれば、エスドラエロン平原からよく見えるタボル山であろうと推測する注解者がいます。タボル山は533メートル。これで高い山と言えるかという疑問が生じます。そこで、この高い山はこの地方の最高峰、ヘルモン山だと考える人もいます。

 

ヘルモン山は2814メートルですからかなり高い山と言うことになります。ヘルモン山の麓にフィリポ・カイサリアの町が建設されていました。フィリポ・カイサリア地方で、ペトロがイエスを指して「あなたはメシアです」と告白をしました。キリスト一行がフィリポ・カイサリア近辺におられて、ペトロの驚くべき告白から数えて6日後と解釈することができます。すると、キリスト一行4人は6日間かけてヘルモン山に登られたと受け止めることができます。6日もあればヘルモン山のいただき近くまで十分に行くことができます。そこは人が殆どいない場所であったと考えてよいでしょう。キリストは誰も見ることのない人里離れた山中でその姿が変わるという大きなみわざをなさったのです。

 

【山上の変貌】

 ここに記されている記事は山上の変貌と言われます。キリストはその前に、人の子―メシアは苦難を受ける。つまり、ユダヤ人の最高議会によってさばかれ、有罪とされ、処刑されるとメシアの運命を予告されました。同時にキリストはメシアが復活すると明言されます。

 

復活は単なる蘇生ではありません。仮死状態から息を吹き返すというのは復活ではありません。復活は死人の復活であり、死に対する勝利を意味します。それはまた、死をもたらす罪を帳消しにし、赦しと贖いの結果でもあります。このような復活は普通の人間が経験するものではありません。それは神の力を持つもの、それ以上に神の性質と働きを併せ持つ方そのものを指しています。

 

つまり、変貌するキリストは神の栄光の輝きを照らし出し、神ご自身であることを告知されるのです。変貌は単に姿かたちが変化したと言うのではなく、キリストの本質が明らかにされたと言うことを示しています。復活するメシヤはどういう方か明らかにされます。その姿を見て弟子たちはしっかりしたメシヤ観を持たなければなりませんでした。特にペトロが問題でした。彼はメシヤが受難すると言うことを受け入れられませんでした。それでは栄光に満たされたメシヤを理解し、受け入れることができるかどうか。それはのちに分かります。

 

 山上の変貌は、キリストの栄光を垣間見させます。まだ、完全に現される時は来ていません。キリストはゴルゴタの丘で十字架にかけられますが、そののち三日して墓からよみがえられました。それは神の栄光の御子を指し示しています。山上の変貌は栄光のキリストが一瞬ご自分を現された事件、出来事なのです。

 

【光り輝くキリスト】

 キリストは真っ白に輝かれます。その白さはどんな職人に布をさらして白くすることが出来ないほどの白さであったとされています。白は清さを表します。キリストはあらゆる罪とは切り離され、罪を一切担わないお方です。ここでキリストは単に白い衣を着ているのではなく、また白く変化した着物を着ていたというのではありません。内から強烈な光が上着を刺し貫いているのです。そのためにキリストは白く輝いているように見えたと言う意味でしょう。それほどまでキリストは光となっておられます。キリストは光の光、光の主となられています。光は神の栄光を啓示しています。

 

神はしばしば光り輝く方と表現されます。神は見ることは出来ません。しかし、その臨在は光において知ることができます。キリストは神の栄光の輝きによってご自身が神であることを明白に現されます。キリストが神であることを明瞭に語る、そのゆえにこの記事はとてつもなく重大です。

 

 しかし、ここに記されていることは現実にありえないと思う人が圧倒的多数だと思います。聖書を読む人が単純にここに書かれてあることを受け入れるわけがありません。聖書は宗教書だから、奇跡など信じがたいことが書かれる。しかしそれは事実ではない。たいていの人はそう思います。ここに記されていることが作り話ではないとしても幻想、幻視の類なのだと考える人もいます。とにかくありえない、そういう印象を抱かれます。

 

【三人の弟子たちの証言】

 ふたつの理由で、この山上の変貌は事実であったと認めなければなりません。第一は三人の弟子たちの存在です。聖書が書かれた時代、ユダヤ人社会では二人以上の証人の証言は何よりも確実な証拠でした。今日では物的証拠という客観的、科学的な証拠の方が証拠能力があるとみなされますが、古代では逆です。人間の証言ほど確実なものはないとされていました。三人の弟子たちが選ばれたのは彼らが確実な証人となるためでした。

 

【キリストは神ご自身であること】

第二に、キリストはこの変貌によって神の力を持つ神的な人物、それ以上に神ご自身であることを証言されます。キリストが神の栄光をあらわすということは決して見過ごしにしてはならない真実です。これは事実でなければ、キリストが神の御子であることをあいまいにしてしまいます。山上の変貌が事実であれば、キリストは神の栄光を担う大いなるメシヤ、救い主であられます。

 

【エリヤとモーセ】

 この場面にエリヤとモーセが登場します。エリヤについては旧約聖書列王記上17章以下に登場します。しかし、ここで重要なのはマラキ3:23の預言です。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」エリヤは火の車に乗って姿を消しますが(列王記下2:11)、終わりの日に再来すると信じられていました。エリヤは死ぬことなく天に挙げられた稀有な存在です。それゆえにエリヤは再来すると信じられたのです。その信仰はキリストの時代に人々の心を捉えていました。モーセもまた終わりの日に現れて、第2の出エジプトを敢行させる、つまりイスラエルを再度救済されると信じられていました。このことは明確に旧約聖書には記されていません。モーセは確かに死んでいます(申命記34:5)。モーセは自分のような預言者が立てられると語っていました(申命記18:15)。モーセのような人物が再来する。特にモーセは出エジプトの立役者でした。モーセがしたような救済のわざを神は行われる。そのような信仰が人々を捉えていました。

 

【終わりの日】

 エリヤとモーセの登場は、終わりの日の接近を語ります。間もなく終わりが来る。かれらの出現はそれを示します。ということはキリスト・イエスのみわざの完成も近いという意味でもあります。終わりの日とは恐るべき審判の日でもあります。しかし、強調すべきは救いの完成でしょう。

 

 ペトロの言動が続きます。彼は3人が話し合っているところに介入したとあります。口を挟むなどということは出来るような人たちではありませんでした。どうしてそこにいた人物がエリヤ、モーセだと分かったか記されていません。ペトロには面識などなかったわけですが、それ以上の大きな問題は、この二人は旧約を代表する偉大な人物です。ペトロはのちにはよく知られた大使徒になりますが、それでも、エリヤとモーセは偉大すぎます。こういう人の会話に介入するなどとはありえないことです。その上、彼は、小屋を建てようと提案しています。ここは高い山であって人もいません。この小屋はテントを指しています。雨露をしのぐための家という意味でしょうか。しかし、エリヤとモーセ、それにイエスをとどめておくような施設ではありません。小屋など作ってどうしようと言うのでしょうか。ペトロの言っていることは支離滅裂です。彼はおそらくパニック状態に陥ったのでしょうか。わけの分からないことを口走っています。

 

 しかし、このような場面に居合わせた者は誰でもおそらくペトロと同じようになるのではないでしょうか。ペトロのように何を言っているのか分からない混乱振りを示すだけではないでしょうか。山上の変貌は誰もが見聞しても信じがたい光景であったでしょう。

 

 雲が起こり、そこに居合わせた人たちを覆い隠します。そして、声がありました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」この言葉はキリストの聖霊のときの声に似ています。

 

 ペトロは大混乱を起しました。当然です。このような光景を見たらパニックになるでしょう。ペトロはメシヤは苦難を受けるというイエスの言葉を受け入れることができませんでした。今度は栄光のメシヤを見ても信じがたいというか、わけが分からなくなっています。誰でも同じことです。容易にキリストが神の栄光を担う偉大な救い主であると信じがたいのです。

 

【栄光のメシヤ】

 しかし、天からの声は、キリストに聞け、でした。キリストのみ声に聞くことこそ栄光のメシヤとは誰かを認知する道だというのです。

 私たちが栄光の主と言われてもなかなか理解することが出来ません。しかし、ペトロは徐々にキリストこそ栄光の主であることを知るようになります。時間はまだまだかかりますが、ペトロはキリストとは誰かをはっきりと認識するようになりました。そのためには十字架の主を見、また復活の主を目撃しなければなりませんでした。主イエスから彼は教え続けられます。私たちもキリストのみ言葉を何度も学びながら、キリストとは誰かを学びます。そして、ついに栄光の主がどういう方か明瞭に知ることができるようになっていきます。(おわり)

2015年07月12日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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