2015年6月14日説教「はっきり見えるようになる」金田幸男牧師

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2015614日説教「何が見えるか」金田幸男

聖書:マルコ78:22-26

 

要旨

【ベトサイダ】

イエス・キリストの一行はベトサイダの町に到着したとあります。ベトサイダは、ガリラヤ湖北岸、ヨルダン川が湖に注ぐ地点に位置します。ベトサイダととは「漁師の家」という意味ですが、辞典には、同じ名前のふたつの町があったと記すものもあります。ヨハネ1:44,12:21によると、ペトロ、アンデレ、フィリポの3人はベトサイダの出身であると記されています。

 

そしてまた、ベトサイダはルカ10:13にも出てきます。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。」

 

ベトサイダはキリストの宣教にあずかりながら、その教えを無視し、聞き入れなかったゆえに、厳しい叱責の対象となっています。この町が、もうひとつのベトサイダを意味しており、この町はヘロデ大王の息子の一人であったフィリポがギリシヤ風の町に建て直し、ユリアスと改名されます。

 

住民にはユダヤ人も多かったのですが、ユダヤの正統的な聖書に対する忠実さやその信仰よりもギリシヤ風の生活や文化の影響を強く受けた人たちが多かったと考えられます。ペトロたちの出身地のベトサイダは辺鄙な漁師の村を想像させられますの、領主フィリポが再建した町と別個の町だと考えることもできますが、特に別個の町と考える必要もないかもしれません。このようなギリシヤ文化の影響が濃いところでは、当然キリストの教えも顧みない人たちが多かったでしょう。

 

【村の外に盲人を連れだす】

イエス・キリストがベトサイダを責めるときはその不信仰に対するものであったと容易に考えることができます。このような背景を見ていくと、なぜキリストが村の外にこの人を連れ出した上で奇跡を行われたのかも理解できます。

 

人々がキリストのところへ盲人を連れて来ます。盲人が自発的にキリストのところへやってきたとも、人々にイエスのところへ連れて行って欲しいと言われて連れてきたとも記されません。ベトサイダの人々がこの盲人を連れてきたのは別の動機があったからだと思われます。決してこの盲人への同情や憐憫から行動したのではなく、キリストが盲人の目を癒すという特別なわざを目撃したかったからだと思われます。つまり奇跡を見物したかったのです。

 

その動機は好奇心であり、珍しいものを見たがっただけのことなのです。つまり、イエス・キリストがどんな奇跡を行うのか見たかっただけのことです。奇跡を見物する。これが彼らの動機でした。

 

【密かに行われた奇跡】

キリストは今まで奇跡を公然と行っておられます。密かに一部の人だけしか分からないようなやり方ではありません。ところがマルコ福音書では3回だけ密かにそのわざを実行されています。

 

先ずマルコ5:37です。会堂長ヤイロの娘の蘇生の奇跡が行われたとき、キリストはヤイロと3人の弟子だけしか娘の部屋に入ることを許されませんでした。泣くことを専門とする女たちの騒ぎから離れるためであり、そのような人の目から、そこで行われていることを隠すためであったと考えられます。

 

また、7:33では、耳の聞こえない人の癒しが記されますが、群衆の中から彼を連れ出し上で奇跡を行われています。人々がキリストに癒しを求めてやってきました。その動機は、このベトサイダの人々と同じであったと考えられます。彼らも見物したいというだけであったと思われます。だから、キリストは奇跡を目撃されることを拒否されたのです。

 

奇跡は驚くべき神の行為です。しかし、それは単なる好奇心で見られるべきものではありません。ましてや見世物ではありません。そのような動機の人々には奇跡は一切行われることはないのです。

神の力に圧倒されることもなく、奇跡が行われてもただの見物。こういう人々の心情のあるところで奇跡は行われることはありません。

 

それは今日でも同じではないでしょうか。はじめから受け入れることもなく、驚くべき神の働きなど見物するだけのこと、それ以上ではないという受け止め方があるところでは奇跡が起こりません。

キリストはこの人を「村」の外に連れ出されます。ベトサイダは決して村というような小さな集落ではありません。ローマとかエルサレムのような人口の多いところではありませんが、とても「村」などとは言われないでしょう。寒村であれば、この用語もぴったりします。それはともかく、キリストはベトサイダの町の住民がキリストの大きな働きの目撃者となることを願っておられません。

 

【キリストの「手当て」】

キリストはこの盲人を、村の外に連れ出されます。そして、目に唾をつけ、両手をこの人の上に置きます。手を置くという行為は「手当て」という表現があるように、ひとつの治療方法でありました。キリストはこの意味では、治療を実施されたということになります。しかし、この行為はやはり奇跡に他なりません。単なる普通の治療ではありません。イエス・キリストは明白に奇跡を行われたのでした。

 

キリストは盲人に何が見えるかと尋ねられます。「人が見える」と答えます。木のようだが、歩いているのが分かります。よく考えて見ると奇跡は殆ど効果を表していません。ある注解者は、この目の見えない人がもともと全盲ではなく弱視であったら、殆ど奇跡が起きていないことになると断定をします。人なのか、木なのかが判別できないようではあまりキリストの行為は効果があったとはどうしても言うことはできません。こんなことでは癒されたことにはなりません。そのあと、第2回目のキリストの働きが行われてこの盲人の目は完全に開かれます。

 

【2回の業】

キリストは一挙に問題を解決するように奇跡を行われませんでした。2回もキリストは働きかけられました。最初のキリストの働きは効果を表わしませんでした。この盲人にとって切なる願いは見えることです。それが直ちに行われない。失望したことと思います。期待していたとおりにはなっていません。

 

私たちキリスト者もいろいろな重荷を背負っています。長い病気を背負っている人もいます。障害のある人もいます。事業がうまくいかない。学業がついていかない。突然の災害に見舞われた。人間関係がうまくいかない・・・いろいろな苦悩、悩みを味わっています。キリスト者であろうとなかろうと人生は労苦ばかりです。信者はさらに信仰のゆえの苦しみを味わっています。人生はさまざまな重荷を背負っていくものでしょう。そのとき、私たちは神に願います。労苦から解放してくださいと叫びます。ところが直ちに神は問題を解決してくださらない。

 

この盲人ははじめ何の効果も経験できませんでした。そこで彼はこの場所を去ることは可能でした。キリストは何もしてくれないという不満が生じたかもしれません。だから盲人はその場所を去ることもありえました。つまり、キリストともう何の関係もないようにすることです。そして話はそれで終わりということになります。

 

神は直ちに私たちの問題を解決してくれません。何も起こらないも同然の状態に任せられます。私たちも経験します。祈りは聞かれると信じ、祈り続けます。しかし何も起こりません。相変わらず苦しみは続きます。神は一体何をしているのかと、不満さえ漏らします。そして、神に背を向けてしまうことも珍しくありません。

 

【完全な癒し】

私たちは見ます。キリストは第2回目の行動をとり始め、結果は完全な癒しでした。キリストはこの盲人の目を完全に癒されました。ここから私たちが学ばねばならないこと、それは決して失望しないことです。キリストは最終段階まで助けのみ手を伸ばされる方です。

 

神は全能の神ですから一挙に、直ちに信じるものの苦しい状態から解放することもできます。しかし、そのわざは短期の内に完了するものではありません。キリストは意図的に直ちに助けのわざを完成されません。むろん、即刻解決されることもあります。けれども、多くの場合そういう方法を取られません.神は必ずその民を救われます。間違いありません。でも、私たちが要求すると直ちに言うことを聞いてくれる便利な方ではありません。

 

もし、私たちの願いを何でもかんでも速やかに実行されるだけならば、神は私たちにとって便利な存在だけに過ぎません。神はときに私たちをじりじりさせられます。神に不平をぶっつけたくなるほど神は動かれません。だから、私たちは「もう神は嫌いになった、神のことなど考えず、期待もしない」などと捨て鉢な言葉を発するようになってしまいます。そんなことがあってはなりません。

私たちは今すぐに期待が満たされなくても、ある期間が過ぎ去れば神は思いを超えて大きな祝福を味わわせてくださいます。

 

キリストは盲人の目を開きますが、村に戻らず、直ちに家に帰るように命じられます。これはベトサイダの人々、特に彼をキリストのところへ連れてきた連中に会わないようにするためでした。

 

【過去との決別】

なぜ、このようなことをされたのでしょうか。不信仰な人々と再び会わない、つまり奇跡を見せないためだと考えられますが、この人自身が元に戻らないためです。彼がキリストを信じてキリストのもとに来たのではありません。はじめ彼自身も癒しを信じてはいなかったのではないでしょうか。ところが彼は驚くべき神のわざにあずかりました。そのとき、彼は圧倒的な神の働きに心を動かされ、キリストを信じるようになったに違いありません。もう過去に戻ることはありません。過去との決別なのです。ただ直接家に帰るとは単なる帰宅ではありません。別の人間に変えられているのです。 (おわり)




2015年06月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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