2015年6月28日説教「死んで復活する救い主」金田幸男牧師

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説教「死んで復活する救い主」金田幸男

聖書 マルコによる福音書31-34

31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、

32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、

33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 

要旨

【あなたこそメシヤです】

 フィリポ・カイサリア地方で福音を宣教している最中にキリストは、人々は自分のことをなんと言っているかと質問をされます。弟子たちは次々に巷間のうわさを報告します。そのあと、キリストは弟子たちに「それではあなた方はわたしのことを何者だと思うのか」と尋ねられます。

 

それに対してペトロが弟子たちを代表して「あなたこそメシヤです」と答えます。メシヤとは油注がれたものを意味していますが、ユダヤ人の間では終わりのときに神の救済事業を特別な力を持って実行するため神に任じられた救済者と信じられていました。ユダヤ人はメシヤの到来を期待している民族です。今もなお、ユダヤ人はメシヤが来ると信じています。ユダヤ教という宗教はその点変わりがありません。

 

しかし、イエス・キリストは、ペトロが言ったことを誰にも話すなと命じられます。そのあとに、31節のみ言葉が語られます。

 

【人の子】

冒頭「人の子」という表現が出ています。福音書においてキリストはご自分を指して人の子と言われます。しかし、私たちはキリストが一人称「わたし」の代わりに「人の子」という表現をされたと考えるべきではありません。

 

人の子は旧約聖書にも出てきます。詩編8篇15「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」ここでは人の子とは人間のことです。エゼキエル書にも人の子は多く出てきます。多くの場合、人の子よ、とエゼキエル自身が呼ばれます。

 

しかし、ダニエル7章13-14では「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」とあり、人の子は神的な栄光と権威をもち、君臨する絶大な権力者、支配者を意味しています。

 

キリストが「人の子」という言葉を用いるときは、このような絶大な権力を掌握し、世界を支配する救済者を念頭に置かれていることは間違いありません。終末のときに来たり、全世界を変革し、統治する救済者が期待されていました。人の子とはこのような神のわざを行う特別な存在とされます。

 

【メシヤ観の修正:メシアの苦難】

 キリストは人の子という表現を用いるとき、超越的存在的な、メシヤを意図されているのは明らかです。弟子たちはあなたこそメシヤであると告白をしましたが、キリストはこの言葉でそれを明確に肯定されたのです。イエスこそユダヤ人が期待してきたメシヤご自身なのです。と同時にキリストは一般にユダヤ人が持っているメシヤ観を修正されます。そのメシヤは苦しまなければならないのです。メシヤはメシヤでもイエス・キリストが明らかにされるメシヤとは苦難の中に置かれるメシヤに他なりません。

 

苦難のメシヤはイザヤ53章に記される苦難のしもべを髣髴させます。イザヤは、神がしもべを立て、そのしもべに苦難を与えられ、そのしもべの苦難は実は民の代わりに受ける苦しみであったと明らかにします。そして、この苦難を引き受けるしもべこそ救済者とされます。

 

ユダヤ人はこの苦難のしもべは個人ではないと解釈しました。それはユダヤ民族そのものだと思ったのです。キリストはそうではなく、この苦難のしもべこそメシヤだと教えられます。

 

【十字架死への言及はまだない】

 メシヤは苦しまなければなりません。キリストは弟子たちにこのことを明らかにされます。苦難について、私たちはここで二つのことを学びます。ひとつは、キリストはメシヤの死を語られますが、十字架の死とはいわれていません。マルコでは3ヶ所メシヤの苦難を予告されます(マルコ31-32,9:30-32、10:32-34)。この3ヶ所ではキリストは十字架に言及されません。どうしてなのか。

 

十字架刑のことはユダヤ人にもよく知られていました。それはローマ帝国の処刑方法のひとつで、最も残酷でローマの身分の高いものには執行されませんでした。ローマに反抗を企てたような政治犯にこの十字架刑は宣告されましたが、その囚人への苛酷な扱いは十字架刑を知る人を震え上がらせるものでした。キリストはこの残忍な処刑法で殺害されるとはまだ言われません。それは弟子たちがそれを知れば躓き、耐えられなくなるからでした。弟子たちの魂のために十字架の上で殺されることをキリストはまだ語られません。弟子たちへの魂の配慮、牧会のためでした。

 

【長老、祭司長、律法学者たちからの排斥】

第二に、キリストは長老、祭司長、律法学者たちから排斥されると言われます。どういう形での排斥か。長老は文字通りユダヤ人のなかの年長者ですが、同時に、世知に長けた民衆の指導者でもありました。彼らは選ばれて最高議会(サンフェドリン)に選ばれます。祭司長は、その議会の議長をすることになっていました。律法学者もまた法律の専門家として最高議会に席を占めていました。つまり、この3者は最高議会の構成員であり、結局のところ、最高議会を意味しています。

 

最高議会はいわゆる民法や刑法だけではなく、宗教関係の裁判も行いました。最高議会は死刑も宣告できましたが、ローマはユダヤを征服しますと、最高議会から死刑執行権を奪ってしまいます。 

 

【メシヤは裁かれる】

例外を除いて、死刑は執行できません。ただ、死刑に値するとローマ総督に訴えることができました。人の子、メシヤは裁判にかけられるということを意味しています。メシヤは裁判を受けなければなりません。無実にもかかわらず有罪宣告を受けます。そして結果は死刑なのです。

 メシヤの苦しみとは、裁判を受け、有罪と宣告され、死刑に値するとされ、そして、殺される(十字架にかけられる)ことを意味していました。

 

 メシヤは苦しむ、しかも十字架の苦しみを受ける。これは重大な発言でした。だからこそペトロは受け入れることが出来なかったのです。

 

【なぜメシアは苦しまれねばならないか】

 メシヤの苦しみは、キリスト教信仰の中核部分です。メシヤは苦しまなければなりません、なぜ苦しむのか。私たちの罪を背負い、私たちに代わって十字架の上で死に、私たちはもはや罰せられることのないようにされたのです。キリストは裁判を受け、無実なのに有罪とされ、そして、処刑されました。それは私たちの罪を引き受けてその刑罰を引き受けてくださったのです。こうして私たちの罪は許されます。帳消しにされます。こんなに喜ばしい出来事はありません。

 

【メシアの復活】

 メシヤは3日後よみがえられます。3日後と言っても72時間後ということではありません。キリストが十字架につけられたのは金曜日の日没前でした。一日の境い目は日没となっています。キリストは日曜の朝復活されました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人・・・この人たちは皆死んで、蘇生したと想像されています。

 

蘇生と復活は異なります。蘇生はまた死ぬ可能性があります。つまり息を吹き返しただけで、また死ぬことになります。エリヤは火の車で天に駆け上って行きました(列王記下2:11)。彼の場合は蘇生、あるいは、再来となりますが、これは復活ではありません。復活は死に対する完全勝利を意味しています。このような復活はキリストの勝利でもあります。

 

復活は単にキリスト個人だけが復活するというのではありません。キリストだけ例外的に復活したと言うのではありません。キリストは私たちをもよみがえらせるためにご自身が先ず復活されました。この点で決定的にキリストの復活は大きな神のみわざといえます。

 

【ユダヤ人のメシヤ理解】

 メシヤは死んで復活する。ユダヤ人は到底こういうことを信じることはできませんでした。彼らのメシヤに対する考え方では、キリストと真正面から衝突していました。ユダヤ人のメシヤ理解はあくまでも世界を改変し、ユダヤ民族を救済する(政治的にも)解放者の役割を期待するものでした。メシヤとは死んでよみがえるものなのだと教えられます。このメシヤの考え方は一般のユダヤ人が心に抱いたメシヤ観と異なります。だからこそペトロも聞き入れることを拒みます。ペトロの持っていたメシヤ観は一般のユダヤ人と異なりません。メシヤは栄光に満たされ、権威、権力を掌握しています。メシヤは苦しむはずがない。これがペトロの考えであったでしょう。

 

【サタンよ、引き下がれ】

 ペトロは、イエスをいさめ始めます。ペトロはイエス・キリストに弟子なのに、それを弁えようとしません。キリストは一喝されます。「サタンよ、引き下がれ」。キリストはペトロのほうを向かず、弟子たちを見ます。これは微妙なキリストの御心の発露だと見ていいのではないでしょうか。確かにいさめたのはペトロです。ペトロ自身が苦難のキリストという観念を受け入れることが出来ませんでした。しかし、サタンはそのような人間の考え方を利用し、キリストに対して敵意をむき出しにします。ペトロの言葉はサタンの常套文句でありました。ペトロは苦難のしもべたるキリストを受け入れることは出来ませんでした。メシヤがそんな惨めな仕方で死ぬはずがない。これがペトロの考えでしたが、サタンはそれを用いて、メシヤは苦難を受けるはずがない、犠牲の死を遂げるはずがないといっているのと同然です。しかし、このキリストを否定することこそサタンの考えなのです。

 

キリストはペトロを叱りつける場合、神のことを思わず、人間のことを思っていると言われます。人間のこととは、何か日常生活の中で自分の欲得のことばかり考えているといった意味で用いられることがありますが、本来ここでキリストが言われたのは、キリストが苦難を引き受けるメシヤであるということです。これを否定することこそがサタンの主張であり、苦難を受ける神の子はありえないという意味です。しかし、それこそサタンの考えなのです。

 

私たちのために裁判を受け、代わって有罪宣告を受け、ご自身を犠牲にして罪のあがないをし、その上で信じるものに復活のいのちを与える。これを否定することこそサタンの考えなのです。

2015年06月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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