2015年6月21日説教「あなたはメシア・キリスト」金田幸男牧

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説教「あなたはメシヤ・キリストです」金田幸男 

聖書:マルコ8:27-30

 

要旨

【フィリポ・カイサリヤ】

 イエス・キリストと弟子らの一行はフィリポ・カイサリヤという町とその周辺まで行かれます。フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北約40キロ、ヨルダン川の源流に近いヘルモン山(標高2814メートル)の麓に位置します。ヘルモン山はパレスティナの最高峰です。古くから集落がありましたが、そこでカナンのバール神が礼拝されていました。ギリシヤ人はこの町をペナスと呼びますが、それは牧羊神パンの神殿があったからです。いわゆるヘロデ大王がローマの皇帝アウグストウスから領土を得るとそこに皇帝のために神殿を築きます(紀元前20年)。

 

ヘロデ大王の息子のフィリポが町を拡大し、フィリポ・カイサリアと名づけます。地中海沿岸にあったもうひとつのカイサリアは港湾都市として発展しますが、フィリポ・カイサリアは辺鄙な地方都市のままで、現在はバニアスという小さな町として残っているに過ぎません。キリストの伝道活動の北辺にあたります。ユダヤ人はこのようなパレスティナ北辺にある異教的な都市を好みません。当然そこには多くの異教徒が居住していました。このようなユダヤ人も見向きもしないような地方までキリストは足を伸ばし、福音を宣教されました。

 

【旅の目的】

 なぜ、キリストが弟子たちをこのようなギリシヤ風の町まで連れてこられたのか。むろん、ここにいる異邦人に伝道をするためであったでしょうが、それ以上の目的があったと言えます。それこそ、キリストは何者であるかを弟子たちに明白にするためであったことは間違いないでしょう。

 

 キリストがフィリポ・カイサリアでなさったことは異例な場面と行動を伴っていました。先ず第一は、わざわざフィリポ・カイサリアを選ばれたことです。ここはユダヤ人が少ないところです。キリストはユダヤ人に知られたくない重大な真実を明らかにするためにこの地を選んだということが出来るでしょう。ユダヤ人に知られるとキリストの身が危ないという意味です。

 

【「人々はわたしのことを何と言っているか」】

第2に、キリストと弟子たちの対話は異例なものでした。キリストは弟子たちに「人々はわたしのことを何と言っているか」と質問をしますが、普通の律法学者ならこんな質問はすることがないのです。イエス・キリストは正式の律法学者ではありませんが、律法学者のような存在と認められています。たとえ律法学者ではなくても、他人に律法に関する事柄を教えるからには、律法学者のごときものと見なされていたはずです。そのような人物が、「わたしのことを何と言っているか」など人のうわさを気にして、弟子たちに尋ねることはありません。律法学者なら、弟子たちが「あなたは誰ですか」と問いかけます。このような異例の質問をしているところに、普通ではないキリストの姿勢が見られます。なぜキリストはこんな質問をしたのか。むろん人のうわさなどキリストが気にされているわけがありません。むしろ、キリストは重大な事実を弟子たちに明らかにしようとされています。

 

【偉大な預言者たち】

 キリストとは誰か。これこそ重大な問題でした。これは他のユダヤ人に聞かれてはならない秘密です。しかし、弟子たちにはそれを明らかにしようと決意されたのです。

 

 キリストは弟子たちが次々と出される答を聞いておられます。キリストは先ずその否定から始めます。弟子たちがうわさになっている人の名を挙げていきますが、キリストは明確に否定をされているのではありませんけれども、文脈から見れば、キリストは弟子たちが挙げるうわさをそうではないと否定されていることは明らかです。

 

 弟子たちの返答に注目すべき点が二つあります。それはマルコ福音書には明瞭に書かれていません。先ず第一は、この記事と平行個所がマタイにもあります(マタイ16:143-20)。そこではエレミヤもうわさになっていることが記されています。第二は、ここに挙げられる、エレミヤも含めて、過去に生きていた人物で、キリストの時代にはみんな死んでいましたが、人々のうわさでは、みなよみがえったことになります。死んでよみがえったものが大きな働きをする。イエス・キリストはこのような人々の生き返りではないと明確に語っておられます。

 

つまり、それ以上だということになります。イエス・キリストは人々がうわさをしているような人物ではありません。キリスト自ら否定されます。すると、イエス・キリストとは誰か。死んで復活して大きな働きをするというような人物以上のお方だと言えます。

 

となると、それは人間以上の存在と言わなければなりません。ここに上げられている人たちは偉大です。大きな働きをしました。ある意味で人間以上の力を発揮しています。しかし、キリストはそれ以上の力あるもの、つまり、神ご自身といえるのです。このことをキリストが自らら明らかにされているといえます。

 

【洗礼者ヨハネの再来か】

うわさでは、洗礼者ヨハネの再来と言われていました。洗礼者ヨハネはマルコ6:16-29にありましたように、ヘロデ・アンティパスの暴虐の犠牲となって殺されていました。ヨハネは大きな影響力を残した人物です。悔い改めよと叫び、多くの人々を回心に導きました。彼は来るべき者、救い主の備えをするものでした。しかし、キリストは生き返った洗礼者ヨハネではないと断言されます。キリストはヨハネ以上の存在です。

 

【エリヤか】

第2に、エリヤだといううわさがありました。エリヤは列王記上17章から登場し、列王記下2:1-18でその最後が記されています。エリヤは旧約史上最大の働き人の一人です。彼は激しい説教を語り、ときには国王に面と向かって非難し、攻撃しました。奇跡も行っています。そして、最も注目すべきは、彼は死ぬことなく、火の車に乗って天に昇って行ったと記されています。エリヤは戻ってくる、このことがユダヤ人の中で信じられていました。終わりの日にエリヤは再来して大きな働きを行う。しかし、キリストは自分はエリヤの再来ではないと宣言されます。そして、それ以上のものだと言われるのです。

 

【預言者の一人か】

第三は預言者の一人といううわさがありました。ここで言う預言者は旧約の預言者のことであろうと思われます。エレミヤもその一人でした。エレミヤはユダがバビロンに滅ぼされる前後に預言者活動を行い、その預言の言葉の峻烈さは心を刺し貫くほどの強力なものです。エレミヤの最後は不明です。彼もまた再度終わりのときに現れ、かつても同じように預言者としての働きを実行すると信じられていました。洗礼者ヨハネもエリヤも預言者と見なされています。うわさではイエス・キリストは旧約の預言者のような存在だと言われていたことになります。キリストはご自身がそれ以上の存在であると語っていることになります。

 

【「あなたこそメシヤです」】

 弟子たちが挙げたうわさの人物であることを否定され、ではあなた方はわたしを何者だと思うのかと切り込まれます。ペトロが答えます。「あなたこそメシヤです。」

 

 メシヤとはヘブライ語の油注がれたものを意味します。ギリシヤ語に訳されると「キリスト」になります。イスラエルでは、王、祭司、それに預言者は油を注いで任職されました。油は神の聖霊を表しています。聖霊が与えられて、神の人としてその働きを完遂すると思われていたのです。王も祭司も預言者も神の務めの代行者でした。油注がれてその職務を果したのです。

 

 ところが時代が下るにつれてメシヤはもっと広い意味を持つようになっていました。パレスティナ地方がギリシヤやローマの支配を受けることになりますが、そのような時代、神は終わりのとき、メシヤを送られ、世界の救済を敢行されると信じられていました。そのような信仰、終わりの時の救済者、解放者という観念がユダヤ人の中に芽生え、定着していました。むろん、そのメシヤが意味している概念はひとつのものではなくて、それこそ他にも多様な考え方がありました。対ローマ戦争を指導する軍事的なメシヤ、あるいは終末的な幻想と言うべき姿で現われるメシヤ、道徳的革命をになう世界改造者等々、メシヤとは何か、いろいろ考え方が並存していました。

 

【ユダヤ人を救う解放者】

 しかし、世界を救済するもの、特にユダヤ人を救う解放者という観念は共通しています。間もなく神は救済者を送られる。これがユダヤ人の希望でありました。ペトロはイエスがそのメシヤであると告白したのです。むろんペトロ一人の告白ではなく、彼は弟子たちを代表してこのことを言葉にしたのです。

 

 これは重大な言葉です。ユダヤ人は今もメシヤを待望し続けています。メシヤを神が送られる、この希望こそユダヤ人の最大の希望であり、信仰でした。イエスとはキリストである。救い主である。このことこそキリスト教信仰の最も重大な信仰内容です。他のことは曖昧であろうとも、あるいは知らなくても、イエスこそまことのキリストであるという信仰さえあれば、キリスト教信仰にとっては十分だともいえるのです。

 

【キリストの口止め】

 しかし、キリストは口止めをされます。遠く、フィリポ・カイサリアまで来て明らかにされたことです。それは重大な信仰告白です。だから、キリストは誰にもこのことを語るなと言われます。ユダヤ人が知ればイエスにとっても弟子たちにとっても危険な事態を招きかねません。

 それと共にペトロの信仰ではまだ不十分であったからです。まだ十字架と復活が起きていません。十字架の上でキリストが犠牲となり、その結果、私たちの罪が赦されるようになり、罪がもたらす死の問題が解決されるまで、そして、キリストがよみがえり、死に対する勝利者となり、さらに、永遠の命が約束されるようになってからメシヤとは誰かと言うことが明白になります。それまでキリストは誰にも言うなと命じられます。(おわり)

2015年06月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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