2015年5月31日説教「天からのしるし」金田幸男牧師

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説教「天からのしるし」金田幸男牧師

聖書 マルコ8章1-4

 

要旨

【キリストを「試す」ため】

 キリスト一行はダルマタヤ地方に上陸されます。現在ではそれがどこであったか不明ですが、同じ記事が載せられているマタイ15章39ではマガダン地方とあり、それがマグダラのことであろうと考えられています。マグダラはキリストの女弟子であったマグダラのマリヤの出身地で、カファルナウムとティベリアの間にある町です。キリスト一行はおそらくガリラヤ湖の西岸に着いたのだと思われます。そこにファリサイ派の人たちがやってきます。同じ記事が記されるマタイ16章1-4ではサドカイ派も一緒であったとされています。普段は敵対する関係の両派がキリストのところへやってきたのはキリストを「試す」ためでありました。

 

この「試す」はマルコ1:13の「誘惑」と同じ言葉です。サタンはキリストを荒野で誘惑しますが、その誘惑はそれで終わったのではなく絶えず手を変え品を変えて続いてということを示しています。

 

【天からのしるし】

 ファリサイ派が求めたのは「天からのしるし」でした。しるしとは奇跡であることは間違いありません。天からの奇跡ですから、おそらく壮大で絶大な奇跡、言語を絶するほどの奇跡のことでしょう。神が実行なさる最大級の奇跡。天変地異のようなものが想定されていたのでしょうか。山が二つに割れる。星が落下する。地上のものがなぎ倒される暴風。あるいは大洪水、火山の噴火、大地震。おそらくそのような誰も経験したことのないような大きな奇跡を行なえとイエス・キリストに要求しています。むろん、それはキリストを試みるためです。

 

 ファリサイ派は今までの奇跡を経験しなかったとは思えません。今までキリストは病人を癒し、悪霊を追い出し、何千人もの群衆に少ないパンで腹を満たし、湖の上を歩かれました。そのすべての目撃者ではありませんでしたが、いくらかは見聞していたのではないでしょうか。そのような経験は一向にファリサイ派の考え方を変えることはなかったと思われます。奇跡を目撃した。それは稀有な経験ですが、彼らにはイエス・キリストへの恐れも敬いも生じませんでした。かえって反感なり疑いなりを生み出したようです。

 

 どうして奇跡を見たのに変化がないのでしょうか。当時の医学には呪術的なものも含まれていました。まじないもれっきとした治療法の一つであってみれば、ファリサイ派にはキリストのなさった奇跡はその類のものでしかありません。つまり、少々不思議であってもさほどびっくりするほどのものではない。だから、ファリサイ派が奇跡を見たからといって彼らの心を変えることがなかったと想像できます。あるいは、奇跡を見てもキリストへの反感が圧倒して、キリストへの考え方を変えられず、ひいては疑いを帳消しにできなかったともいえるでしょう。

 

 たとえそこで奇跡が行なわれていても、キリストへの疑い、反感がまさって、奇跡そのものになんら感動もしないということは起こりえます。頭から信じないかたくなな思いが奇跡と言う事実を捻じ曲げてしまうこともありえます。

 

 ファリサイ派にとっては、キリストは議論の対象でしかありません。むろん友好的な議論ではありません。キリストをないがしろにし、引き摺り下ろそうとする議論です。キリストがどんな権威を持っているかどうかを議論し、その権威が疑わしいものであれば宗教当局(サンフェドリン)に告発するつもりであったでしょう。ファリサイ派はイエス・キリストが民衆に人気があることに耐え難い思いを抱いていたに違いありません。権威を失墜させれば民衆は離れていきます。

 

【深く嘆かれ】

 キリストはどのような反応を示されたか。まず、深く嘆かれます。この言葉は7章34で出てきます。息をハーと吐く行為を示しています。息は命を表します(創世記2:6)。吐き出す行為はむろん単なる呼吸に過ぎませんが、癒しにおいてはキリストの生命力がその人の上に吐き出され、ここでは生気を失うほどまでの失望が表現されています。

 

 イエス・キリストは天からのしるしを与えられることはありませんし、一切のしるしを行なわれることがありませんでした。 

 私たちの常識では、神が大いなる奇跡を行なえば世界中の人間が一瞬にして信じるだろうと思います。全世界の人が驚愕するような大奇跡。そういうものを神が実行されたら人々はみな神に額づき、跪いて神を敬うだろうと考えます。私たちはよく言われます。奇跡が起これば信じよう。そうでなければ信じない。そして、奇跡などない。だから何も信じない。

 

 こういう不遜な人たちに奇跡があれば彼らはたちまち神を信じるものに変わるでしょうか。そんなことはまずないでしょうし、神はそのようなことをされません。キリストはファリサイ派の前でどんなことも行なわれませんでした。

 キリストを信じないものに何もなされることはない。これが結論です。キリストはただその権威や力を疑うものには沈黙されるだけです。

 

 不信仰という土台ではキリストは何もしない。このことは今も通用する真実です。不信仰なところでは奇跡はないのです。

 

【奇跡はいまも】

 むろん、奇跡というべきものがないわけではありません。私たちにとってさまざまな経験がありますが、その中には奇跡としか言いようのないことも多々あります。不治の病が癒される。間一髪災害から免れる。こういうことは奇跡と言うべきかも知れません。また、私たちには説明ができないような事象もよく起こります。むろん、そのようなものを一概に奇跡と言うことができない場合もあります。不信仰の目を持ってみれば結局何も起きていません。どんな奇跡があってもファリサイ派と同じく何も心に変化が起こりえないどころか、かえって、キリストを無視し、敵対するだけなのです。

 

【ヨナのしるし】

 奇跡はないのか。しるしはないのか。マタイ16章1-4をもう一度ご覧ください。そこでは、キリストはヨナのしるし以外には与えられないとありますが、ヨナのしるしは与えられるとの意味に取れます。

 

ヨナのしるしとは何でしょうか。旧約聖書のヨナ書を読んでいただかなくてはなりませんが、ヨナは神からニネベ伝道を命じられます。しかし、ニネベはイスラエルの敵です。そんなところへ行くのは真っ平ごめんとヨナは拒否します。そして、神の命を避けるために逃亡を企て、大きな船に乗船します。ところが大嵐に巻き込まれます。その原因がヨナであることが判明します。そこでヨナは自分を海に放り投げてくれと申します。結局その通りにされるのですが、ヨナは大きな魚に飲み込まれてしまいます。その後ヨナは三日三晩魚の腹の中にいるのですが、ついに吐き出され、そして、拒んだはずのニネベで悔い改めを求める宣教活動をします。

 

【キリストの復活】

ヨナのしるしとは大魚の腹の中に三日間もいたことですが、これは、イエス・キリストが三日間墓にいたことに対応します。つまり、三日目に死人の中からよみがえられた復活の事実を予め示す出来事でした。ヨナのしるしとはしたがってキリストの復活を示すことになります。

 

ヨナのしるし以外にしるしは与えられないとはキリストの復活というしるし以外にはしるしは与えられないことでもあります。ファリサイ派には何のしるしも与えられません。ただし、キリストの復活と言う巨大な奇跡が与えられます。むろんファリサイ派は復活ということ自体は信じていました(使徒言行録23章8)が、この奇跡=キリストの復活を受け入れることはありませんでした。しかし、キリストの復活を信じることは天からのしるし以上の類例のない恐るべき、しかし、大きな奇跡を信じることに他なりません。

 

天からのしるしはファリサイ派が要求したようには与えられません。今日でも奇跡を見たら信じようと侮りの気持ちで語る人には何も起こりません。しかし、復活の奇跡は奇跡中の奇跡、いやそれ以上の奇跡です。この奇跡を信じるならば、その他のさまざまな奇跡というべきものは信じることができるようになるでしょう。そればかりではなく、キリストの復活にあずかる希望を与えられることになります。

 

 奇跡は起こりえます。むろん、キリストが行われた様な奇跡が起きるという意味ではありません。しかし、神は今も働いてくださっていますし、そのなかには到底信じがたいことも含まれます。それが起こるのです。わたしは信じるはずもない頑なで強情なものが主イエスを信じるようになることは奇跡だと思います。また、神は私たちをお見捨てにはなりません。これもまた奇跡です。この愚かで罪深いものが神に守られて生きること自体奇跡としか言いようがありません。その意味で奇跡が起こります。

 

【未来を知る】

 マタイ16章1-4では、ときのしるしとされます。朝焼けを見て近く雨になる、夕焼けを見ると明日はよい天気になる。経験ある漁師は空を見て気象を判断します。しかし、私たちは将来のことを見分けることができません。未来は知りたいものです。占いやおみくじの類はどの時代でも盛況です。なぜか。未来を知りたいからです。けれども、私たちには1秒先だって分かりません。ときのしるしとは、終わりのときの予兆のことです。終わりが来て救いは完成します。その時はいつの日なのか。聖書の字句を並べて正確な終わりのときを計算するものもいますが、残念ながら誰一人知ることは許されていません。では、私たちは将来について一切知らされていないのか。ヨナのしるしであるキリストの復活は、そのとき、私たちはキリストの復活にあずかってもはや死ぬことがないものとされ、永遠の命を獲得し、復活のからだを勝ち取ることができます。これは確かな将来です。終わりのときがいつ来ようとも私たちは一切恐れる必要がありません。(おわり)

 


2015年05月31日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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