2015年5月24日 説教「4000人給食の奇跡」金田幸男牧師

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2015524日 説教「4000人給食の奇跡」金田幸男牧師

聖書 マルコ78章1-10

 

要旨

【ふたつの給食記事】

 マルコはすでに6章30-44で5000人に少しのパンと魚で満腹させるという奇跡の記事を載せています。ふたつの記事はよく似ていますので、本来はひとつの出来事を伝える資料がいつの間にか別個の物語にされてしまったという説が唱えられています。

 

しかし、両者を比べると多くの点で異なっています。先ず一方は5000人、他方が4000人の「給食」となっています。6章では群衆の空腹を心配したのは弟子たちですが、ここはイエス。キリストご自身が群衆のことを気にしています。奇跡に用いられたパンと魚の数が違いますし、残ったパンくずを集めた籠の数が違います。実はその籠の種類も異なっています。

 

6章では群衆は50人、100人に分けられていますが、8章ではそんなことは記録されていません。キリストは一方では天を仰いで祈ったとありますが、8章には感謝の祈祷、讃美の祈りがなされたとだけあります。このように見ていきますと、ふたつは別個になされた奇跡だと言えると思います。

 

なぜマルコはわざわざよく似た奇跡を記しているのでしょうか。このふたつの奇跡は決定的に異なっていますが、最も重要な相違点は、これらの奇跡がどこで行われたかにあると考えられます。

 

6章のほうは、キリストは12人の弟子を近隣の村に派遣をします。彼らが帰ってきてキリストに報告をするのですが(6:30)、弟子たちが戻ってきたところはユダヤ人の居住地と想像できます。キリストは6章の時点では異邦人のところまで宣教活動を拡大していません。

 

ところが、7章24以下で知られますように、キリストは異邦人の住む所を通過して行かれました。それはただ通過したと考えるべきではなく、御国の福音を宣教し、力あるわざを行われたと考えてよいと思います。

 

【異邦人の街々】

7章31のガリラヤ湖畔とは、デカポリス地方のそれと考えてよいと思います。デカポリスは10個の町を意味する言葉で、文字通り、アレキサンドル大王の将軍たちが紀元前4世紀ごろに建設したギリシヤ風の都市でした。むろんそこに住むのはユダヤ人から見れば異邦人、つまり外国人です。8章10ではこの奇跡が行われたあと、キリスト一行は「ダルマヌタの地方」に行かれたとありますが、このダルマヌタはどこにあたるのか不明です。マタイ15章32-39にも4000人の給食の奇跡が記されていますが、そこではキリスト一行はマガダン地方に行かれたとあります。

 

マガダンとはマグダラと同一とされ、マグダラのマリヤの出身地です。カファルナウムとティベリヤの中間に位置するガリラヤ湖西岸の町ですが、キリストが湖を渡って対岸に行かれるのが普通ですから、この奇跡はガリラヤ湖の東岸デカポリス地方のどこかで行われたと結論していいのではないでしょうか。

 

【異邦人伝道】

すると、キリストは、6章にあるようにユダヤ人に対してなされたと同じような奇跡を異邦人にも行われたと見てよいのだと思います。マルコがこの記事を個々に記すのはキリストが異邦人にも神の恵みを豊かに示されるという事実を記録するためであったと考えられます。神の憐れみはユダヤ人だけに限られるのではない。これが如実に語られています。異邦人にも救いの恵みは拡大していく。それがマルコの記す目的ではなかったかと思われるのです。

 ユダヤ人から見れば、異邦人は神から遠くはなれた存在でした。彼らは汚れていて、神に決して受け入れられることはない人々とみなされていました。神から遠い、したがって神の救いから漏れているものたち、これが異邦人の特徴であると思われていました。少なくとも異邦人は救われない者たちと思われていました。しかし、キリストはその異邦人に御手を伸ばし、救いの恵みを示し、そのなかに導き入れられます。救いから遠いと思われ、縁がないとされている人々にもキリストは大きな働きをされます。

 

3日間食べていかった?】

 ところで、キリストは群衆をかわいそうに思われます。これはキリストが全面的に憐れみを抱かれたという意味です。なぜ、キリストが同情されたのか。群衆はキリストは3日間食べていかったとありますが、これは異常な事態です。食べ物も持たないで3日間キリストの許にいたというわけです。おかしな話です。まるで、どこかで迫害され、命からがら逃げ出してきたかのようです。食料も持たないで、いったいどうしてキリストのところへ来たのか。マルコは何も記していません。

 

どう見ても単にキリストの話を聞くために遠路はるばる食料も持たないでやってきたとは想像できません。何かがあったのかもしれません。当時のデカポリスが政治的不安定であったかどうか分かりませんが、何か問題があったのかもしれません。キリストに助けを期待したのだろうと思います。政治的ではなく、もっと社会的な不安が充満していたのかもしれません。キリストは彼らが三日間食べていないから同情をされたのではなく、そうせざるを得ない必然性のある人々、つまり、深刻な問題を抱える人々を深く同情されたと想像します。何があったのか分かりません。

 

今日でも私たちは不測の事態に巻き込まれることがあります。天災も人災もそうです。戦乱や飢餓もないとは限りません。キリストに助けを期待してキリストのところに集まって行きます。そのようなものをキリストは深く憐れまれ、助けの御手を伸ばされます。異邦人であろうと艱難の中で呻く者たちを助けられるのがキリストです。

 

 ここでなされたのはパンを与える奇跡でした。パンの問題を解決されました。パンの問題はいつの時代でも切実です。食べることが人間にとって一番の心配事です。私たちはいまや飢えることは余りありません。しかし、本当に将来にわたってパンの問題は解決済みなのでしょうか。そんなことはありません。異常気象で広範な地域で農作物が収穫できないというニュースはしばしば流されています。人口が増大して食糧生産が追いつかないとはありえない問題ではありません。食べられない事態は深刻な問題です。キリストはパンの問題を一切関わりなしとされる方ではありません。

 

【信仰とパン】

いえ、これこそキリストが関心を払っておられる問題でもあります。キリストはパンを提供なさる力ある方です。パンの問題だからこそキリストは力ある働きをされるのです。信仰は腹の問題と関係がない、先ず腹を満たすことのほうが先だと公言する人がたくさんいます。パンの問題の解決が第一であって、信仰など暇な人間のすることだというのです。そうではありません。キリストはパンの問題だからこそ力を振るわれるのです。にもかかわらず人はキリストに期待をしないのです。それは間違っています。私たちはこの奇跡からキリストに期待をするように求められています。信仰とパンの問題は決して無関係ではありません。

 

 弟子たちのことが記されています。弟子たちが群衆の圧倒的な多さに目を回し、またもや不信仰な言葉を吐いていると見ることが出来るかもしれません。しかし、そうではないと見ることもできます。確かに6章で5000人もの人々を食べさせなさいとキリストから言われて、みんなに食べさせるのには200デナリ、今日の価値にして100万円以上のお金が必要だと答えます。

 

【弟子たちの信仰】

ここには弟子たちの不信仰ぶりが述べられます。そして、キリストが湖上を歩く奇跡が行われますが、6章52では、弟子たちはパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたと酷評されます。キリストから面と向かって批判されたのです。それなのにまだ弟子たちは悟っていなかったと取るべきなのでしょうか。そうかもしれません。しかし、「これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか」という弟子たちの言葉は疑いの言葉ではなく、いわゆる反語的に、キリストに向かって、「あなたにはできないはずがありません」と奇跡を期待する言葉と解釈することはできないでしょうか。

 

弟子たちが信仰的に開眼したのではないことは8章14-21にキリストの叱責の言葉から明らかですが、弟子たちがキリストを何もできないお方とは見ていないことは確かです。彼らはすでに何度も奇跡を目撃しているからです。

 

 キリストはパンを取り、感謝の祈りをしたとあります(6.7節)。魚には讃美の祈りをしたとあります。私たちは感謝と讃美を別物と考える傾向にあります。しかし、キリストの祈りを見ると、両者は別個のものではありません。祈りのなかで感謝と讃美は同一の種類のものと見なければなりません。感謝のないところでは讃美は出てきません。神に感謝することなくただ讃美が単独でなされることはありません。感謝は神を讃美することにつながって行きます。

 

【大きな籠で7籠の残飯】

 残ったパンくずは集められます。6章では12籠、8章では7籠となっています。単純に見れば6章の場合のほうが残りが多いと思われるのですが、ここで用いられている言葉をみると、6章の籠は旅行者が持つ食料=パンを入れる籠なのだそうです。8章の籠は大きな籠のことで、パウロがダマスコを脱出するとき、城壁伝いに釣りおろされたのですが、そのとき使用された籠と同じものなのです。4000人の人たちは3日間食べていませんでした。だから残り物が少なくても不思議ではありませんでした。ところが、大きな籠で7籠。正確にはいうことができませんが、6章の場合と比べて決して少ない量ではありません。むしろ、こちらのほうが多かったと想像することができます。

 

キリストがなされた神の大きな働き、恵みのわざにおいて、キリストは豊かに、人々を満たしておられます。これがキリストのなさった働きです。相手が異邦人であろうとなかろうと関係ありません。キリストはただ憐れもうとするものを憐れむ方なのです。ここに記されている奇跡は科学万能の合理主義からは信じがたいものであるかもしれません。確かに現代人には受け入れがたいかもしれません。信じるしかありません。ただ、信じることによって、私たちはいかに神がキリストによって恵みに満ちている方なのかを改めて教えられ、励まされます。(おわり) 

2015年05月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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