2015年3月29日説教「5000人給食の奇跡」金田幸男牧師

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説教「5000人の給食の奇跡」

聖書 マルコ6章30-44

 

要旨

【5000人を5つのパン、2匹の魚で食べさせた奇跡】

 5000人以上の人々を、5つのパン、2匹の魚で食べさせた奇跡が記されています。30-33節はこの奇跡の記事の導入部に当たります。

 

 30節に「使徒」がキリストの元に集められたとありますが、「使徒」はキリストの昇天後、教会に聖霊が下り、教会が宣教活動を開始してから教会を指導する人たちに当てはめられる呼称で。キリストが十字架に上げられるまで「使徒」という表現はふさわしくありませんが、「使徒」とは遣わされたものを意味しますし、また、弟子たちは、宣教、悪霊の追放、癒しをキリストの代理として行なっていますので、まさしく、「使徒」として働いていたことになります。

 

【弟子たちの休息を求めて】

 キリストがこの弟子たちを集められたのは、彼らが教えたことを確かめ、その働きをひとつひとつチェックするためでした。その上で、キリストは彼らを休ませようとされます。そのために人里離れたところを選ばれます。荒野といってもよいのです。荒野というと索漠荒涼とした砂漠を想起しますが、まったく人が寄り付けないようなところではなく、むしろ、人が住んでいないところと理解すべきです。キリストはそこでしばらく静寂のうちに精神的な休息を取るようにされたのです。弟子たちは疲労困憊でした。からだも心も休まなければならないのです。

 

【群衆の先回り】

 キリストはこのように弟子たちのことを配慮されるのですが、そのキリストの計画を群衆が妨害するかのようです。キリスト一行は船で対岸に行こうとされたに違いありません。するとガリラヤ湖の北東岸という想像が可能です。そこは余り人が住んでいない地域です。ところが向かい風のために船足が遅かったのかもしれません。群衆のほうが先に着いてしまいます。キリストの向かう先が湖の北東岸であれば、群衆はヨルダン川を渡らなければならなかったはずです。39節に奇跡が行われたのは青草の生えているときとあります。これが冬の終わりか早春を意味しています。そのころ雨が降ります。降雨量の少ない地域ですが、この時期はかなりの雨が降ります。おそらくヨルダン川は増水していたはずですが、群衆は歩いて渡ってきたと想像できます。それほどイエス・キリストのところへ急いだということになります。

 

【飼うもののない羊のように】

 しかし、キリストの当面の思いは弟子たちを休ませるところにありました。その意図を妨げるかのような群衆の行動です。キリストはこの群衆を近づけないようにすることもできました。どちらを優先すべきかといえば、弟子たちを休ませて再度派遣するほうが先だと考えても不思議ではありませんし、間違っていません。つまり、奇跡が行われる予定ではなかったはずです。群集というものは得て勝手な存在と見えることもあります。大切なキリストの目論見を蔑ろにする面倒な存在と思われます。

 

【荒野とは】

 キリストはこの群衆を遠ざけてしまうようなことをされませんでした。キリストは群衆を見て、飼うもののない羊のように思われたとあります。この場面は、旧約聖書を思い起こさせます。まず、荒野に多くの群衆が助けを求めてやって来ています。モーセは奴隷状態にあるイスラエルを救出するために指導者として立つのですが、最初彼は民衆を荒野に導いていきます。荒野は荒涼たる砂漠も含みますが、イスラエルが40年間さ迷ったところはまったくの不毛の地ではなく、家畜を飼いながら、イスラエルはカナンに入る準備をしたのです。荒野はエレミヤ31章2で言われているように「主はこう言われる。民の中で剣を免れた者は荒野で恵みを受ける」、またイザヤ63章12「主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが、彼らは荒野を行く馬のように躓くことはない」とあって、イスラエルにとって神の救いへの道でした。しかし、キリストの目には、荒野の群衆は飼うものがなく、野獣が狙っていたのです。神の民が羊飼いのいない羊(民数記27:17)のようになっています。それは哀れな場面でした。

 

【弟子たちを試されるキリスト】

 キリストはこの群衆を教えられます。病人の癒しなどのことが書かれてありませんが、キリストは群衆の求めに応えられたはずです。ところが時間が過ぎ夕方になってしまいます。これまでの弟子たちの思いは記されていませんが想像はできます。彼らは休息を取るために船に乗ってここまできたのです。ところが群衆が大挙してやってきたためにその計画は潰えます。夕方になりました。弟子たちにしてみれば一刻も早く群衆を解散させたかったに違いありません。彼ら自身がはやく休みたかったと思います。

 

 キリストはそのような弟子たちの心を見抜いていたはずです。以下に記されるキリストの言動は明らかに弟子たちを試すものです。

 

 キリストは先ず弟子たちに「あなた方が群衆の食事の用意をしなさい」と言われます。5000人は成人男子で、その他に彼らの家族もいたはずですから1万人近い人数がそこにいたはずです。弟子たちはすぐに計算をしたはずです。この人数を食べさせるために、200デナリオンものお金が必要だと思いました。よく知られているように、1デナリは当時労働者1日分の賃金でした。200デナリオンを現代の金額に換算すると、おそらく100万円から200万円近い額になると思います。

 

弟子たちがそんな大金を持っていたかどうか分かりませんが、それにしても大金です。群衆を食べさせることなど不可能と考えて当然です。どこにそんなお金があるか。これが正直、弟子たちの感想ではなかったかと思います。

 

 イエス・キリストは食べ物がどれくらいあるかと尋ねられます。弟子たちにとってそれは彼らの食事の分であったと考えられます。彼らは空腹でした。ところが、休みは取れない、なけなしの食物も拠出されそうになっています。でも、こんな少ない食料でどうして大群衆を食べさせることができるか。弟子たちはそう思い、内心腹を立てていたかもしれません。

 

 弟子たちの持ってきた食料だけでは到底群衆を養うことができません。僅かのパンくずだけが割り当てられるに過ぎません。考えてみればそれも不可能なことかもしれません。

 

【5000人給食の奇跡】

 5000人給食の奇跡が行われます。ここにはその奇跡の具体的な経過は何も記されていません。福音書は奇跡がどのようにして実施されたかを詳しく語りません。なぜなら、聖書は奇跡の行い方を書いてはいないからです。ただ、キリストは、食べ物を取り、天を仰いで祈りをささげています。これはおそらくユダヤの食前の感謝の祈りであったと思われます。その祈祷は、神を創造主として呼びかけることから始まります。食べ物は天と地をその中にあるすべてのものを創造された方からきます。

 5000人以上の人々が食べます、しかも、満腹しただけではなく余りも出ます。この奇跡は、洗礼者ヨハネを殺害するきっかけを作ったヘロデ・アンテロパスの祝宴と対照的です。ローマ人上流階級の食事、宴会は豪華なもので、食べきれないご馳走が並びます。

 

この宴とキリストの5000人の給食は対照的です。一方は食べきれない食事が並び、贅を究め、美食の限りを尽くします。対照的にキリストの給食はパンと魚だけです。質素といえばそのとおりです。しかし、ここには奇跡が行われています。ヘロデの祝宴では醜悪な計画が実行されました(洗礼者ヨハネの殺害)。

 

 5000人給食の奇跡はたいていの人にとっては信じがたいと思われるのに違いありません。少量の食料でそんなに多くの人の腹を満たせるわけがない。

 

【奇跡に合理的解釈は要らない】

 そこでいろいろな合理的解釈が行われてきました。ある人は、これはイエスが一種の暗示をかけた。そこにいた人はイエスの話を聞いて精神的にその気になった、つまり食べた気になったのだと考えるのです。ある人は、残りのパンを入れた袋は携帯用の子袋で、そこにはもともと食べ物が入っていた。それをみんなで分け合ったのだといいます。ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をするのを嫌いました。異邦人は汚れた動物の肉を食べます。彼らと同席すると汚れに巻き込まれるとして、食事には自分の分を持参していたのです。

 

 このような合理的解釈では私たちは何も心は満たされません。洗礼者ヨハネの死はキリストの受難の予告であったように、ここに記されている奇跡はキリストの復活の前触れと見てもよいのだと思います。

 

【キリストは命のパン】

 パンはそれなしに生きていけません。生きていくうえでパンは必要不可欠です。いのちを維持し、支えます。そのいのちのパンをキリストは準備されました。キリストは大群衆をただ食べさせただけではありません。そこに彼らにとっていのちを与える力を持っている方としてご自身を示しておられます。

 

 キリストは死を打ち倒された方です。死人の中から三日目によみがえられました。聖書はこのキリストの復活の証人たちの証言集と言っても過言ではありません。キリストはよみがえられました。

 

【キリストの復活】

その証人たちが地の果てまでキリストの復活を証しし続けました。多くの人たちはキリストの復活など信じられないといいます。そのとおりです。常識では考えられないことです。しかし、キリストは事実よみがえられました。もし、キリストがよみがえったのであればキリストこそいのちの主です。そのいのちを、キリストは信じるものに約束されています。キリストが5000人もの人々にパンを提供されたとしたら、信じるものには確実に、もはや死ぬことのないいのちの息、いのちのパンであるみことばを約束してくださると信じて疑いません。(おわり)

2015年03月29日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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