2015年1月18日説教「聞く耳あるものは聞きなさい」金田幸男牧師

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説教「聞く耳のある人は聞きなさい」

聖書:マルコによる福音書4章21また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。

23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。

25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」


 

要旨

【四つの譬え】

 4章1-34には、四つの譬えが記されています。そのうち、最初の種まきの譬えはキリストご自身の解き明かし、謎解きが記されていますので、譬えの意味を知ることができますが、残りのはそれが記されていません。

4章34には、キリストは譬えで語られたが、その全てを解き明かされたとあります。しかし、マルコはそのキリストの謎解きを記録してくれていません。譬えをどう解釈するかは、読者に委ねられています。説教者はその解釈を試みるのですが、誰が読んでも同じではなく、それどころか、譬えの解明を試みる人の数だけ見解が分かれます。このたびも譬えの解明を試みますが、唯一の解釈だとは思いません。ただ、キリストの教えからは外れることのない解説が求められていることだけは言い得ます。

 

 先に四つの譬えと申しましたが、4章21-25にはともし火の譬えと秤の譬えが記されていますので、計五個の譬えが記されていることになります。ではなぜ四つなのか。21-23節と24-25節はそれぞれ3行からなる文章になっています。ですから形式は同じです。さらに、譬えの内容も同じとはいえなくとも深く結びついていると考えられるからです。

 

【ともし火の譬え】

 4章21-23ではともし火の譬えが記されています。イエス・キリストの時代、多くの庶民の家は一部屋しかありませんでした。夜、部屋を明るくするともし火には、オリーブ油が用いられることもありましたが、高価なので、一般には獣油が用いられました。部屋にひとつだけ、オリーブ油はよい香りを出しますが、高価なので、悪臭を放っても、獣油がともし火として燃やされます。広い部屋ではともし火ひとつではほの暗いのですが、それでも、貴重な光でした。

 

そんな大切なともし火の上に枡を置いたり、寝台の下に置くようなことは誰もしなかったはずです。キリストはそのような庶民の家のことをよくご存知でこの譬えを語られたと思います。このように、ここまでで情景を描くことができます。しかし、このともし火の譬えの意味は何か。

 

 22節との関連で、この譬えを、私たちの心中にあるよこしまな思い、あるいは知られることがなかった私たちの罪はいつか露見するという意味だと説明されることもあります。どんな悪事もいつか明らかになるから、悪いことをしてはならないという教訓を引き出すこともあります。そういう解釈を否定することはできないのですが、別の理解もあるのではないかと思うのです。

 

 ともし火は持って来られると記されています。暗い部屋にともし火が運び込まれます。当時は夜の室内は真っ暗でした。真の闇というべきかもしれません。そこに、弱い光であっても、ともし火が燭台の上に掲げられますと、部屋の中にあるものを明らかにします。イエス・キリストはご自身光でした。闇を照らし出す命の光でした(ヨハネ1:5)。

 

 キリストは、闇の夜を照らす光としてこの世に来られました。全てを照らす光でした。そして、常に、時代は闇の世です。死の陰の谷です。罪がもたらす悲惨に満ちています。今日の世界も同様です。罪と欲望が支配し、暴虐と悲惨が我が物に振舞う時代です。恐るべき闇が私たちの心を押さえつけ、闇の力が自由に行動しています。この闇はますます拡大しています。

 

【キリストは世の光】

 キリストはこの闇の世に光として来られました。キリストがこの世に来られるまでは、福音は明確ではありませんでした。福音は隠されていたのです。また、それは秘められていた奥義でした。

しかし、今、キリストはこの世に来て、託されていた使命を全て果たされました。キリストは福音の光をもって真理を示されました。救いに必要な全ては明らかにされました。一部の人しか分からないような謎でもありませんし、特別な訓練を受けないと分からないような真実ではありません。キリストの教えられた教説は誰にも明らかなのです。

 

 キリストは光です。その光を今やすべて顕(あらわ)にし、公にされています。少しも不明なところはありません。キリストによる救いは誰にも明らかです。

 

【聞く耳のある者は聞きなさい】

しかし、3行目では、聞く耳のある者は聞きなさい、と言われます。光は示されました。その光に照らされなければ見ることが出来ません。聞かなければ、どんなにすばらしい教えであっても何の効果もありません。だが、私たちは自分の欲得を第一にしたり、快適さを求めたり、安楽を好んで、結局耳を塞ぎ、目を閉じてしまっています。これでは光が高く掲げられていても、その光によって心が照らされることはありません。

 

 福音の真理は聞かれなければ何の結果も生み出すことはありません。光は高く掲げられています。その光に照らされています。その光を覆い隠そうとするものは愚かです。キリストはご自身を隠そうとされませんでしたし、今も同じです。福音に耳を傾けるものは、上からの光に照らされて、まことの光の源である神にいたることが出来、光に満ちている神の国まで導かれていくのです。

 

【秤の譬え】

 もうひとつの譬えは秤の譬えです。秤は、当時天秤が使われました。棒の両端に器を垂らし、一方に計るべき物を置き、他方に分銅を置きます。分銅を少しずつ増やし釣り合ったところで分銅の重さの合計を計るとその重量が計測されます。ところで、今日では重量を測る器具には公の機関が正確さを保証しています。公的検査を通過しないような計測器具を用いることは犯罪とされます。

 

【不正な秤】

イエス・キリストの時代、そんな公的な機関はありません。商人は重量を測る分銅を都合のよいように変えてしまい、そのことによって不正な利益を獲得していました。金銀のような少量のものであれば、少しの操作でも、収益は異なります。こうして不正な商人が莫大な利益を得たのでした。当時、貨幣は金属の重量で決められていましたし、地域ごとにその貨幣が異なりますので、両替商がたくさんいました。その中には不正なものもいたようです。イエス・キリストがそのような商人たちの行動を知っていたかどうか分かりませんが、庶民の生活にキリストはよく通じていましたので、このようなことをご存知であった可能性は大きいと思います。

 

 そうすると、この譬えで言われていることは何か。マタイ7章2で同じ譬えが記されていますが、そこではさばきの不可避性、必然性という、さばきの文脈で記されます。ここでも、文脈からそのように読めないわけではありませんが、前後の文章(3行句の前と後)との関連で見ますと別の読み方も可能ではないかと思います。

 

【自らを測る秤で測る】

「何を聞いているかに注意しなさい(24節)」。この場合、「み言葉を聞いている」と取ることができます。福音の真理を聞いているという意味です。すると、何を分銅にして測るのかというと、み言葉で測ることになります。自分の測る秤は他人の秤ではありません。それはごまかしようのない測り、規準です。他の規準で測れば間違った結果となりますが、自分で測ればそんな不正はできません。しかし、私たちはいろいろな規準を用いて自分を測ります。他人の規準、世間の規準、常識という規範、利得の価値基準を持って自分を測ろうとします。

 

 自分の測りで測ることこそ正確です。正確な取引は賞賛されます。その賞賛は思いのほかの結果をもたらします。予測以上の真実を発見するというような・・・。

自分の秤で測るならばごまかしようがありません。曇りのない眼をもって自分を見る、それはいやでも真実の姿です。否定のしようのない自分の姿です。無視していた自己も発見します。

 

 わたしは過去の時間と未来の時間を比べると圧倒的に過去のほうが多くなりました。過去を思い出します。ところが、いい思い出もありますが、いやな思い出も次々と思い浮かんできます。中には恥ずかしくなるような思い出もあります。過去を思い出して、苦しくなります。

 

 神の前で、過去を振り返れば、わたしにはひどい罪人であるとしか認識できません。こういう思い出し方は不快ですから、忘れてしまうとか、他のことを考えて居直ってしまうとか、何とかして消し去ろうとしますが、過去は簡単に忘れることはできません。

 

 曇りのない眼で自分を見ると言いましたが、実は耐え難い行為です。考えていた以上の醜悪な自己発見になります。だから、私たちは違った秤で自分を測ります。自分を測るのではない秤で、何事も測って安心したり、自分を慰めたりしています。

 

 しかし、そういう自己認識では結局なにものも生じないのです。自らを測る秤で測るとき、それは真実な計測を実践していることになります。そういう計測では思う以上の結果をもたらします。神の言葉で自分を測るとき、私たちは想像以上の罪深さを測ることになります。そういう自己認識に耐えられるものはありません。結果はひどいものです。

 

【十字架の福音】

 もし、私たちが、この自分を測った結果を見れば絶望状態になります。神にさばかれ、滅ぶだけです。だからこそ、私たちは罪の赦しの福音に耳を傾けざるを得ません。キリストの十字架にしか私たちに希望はありません。もし、赦しを確信できなければ私たちは恐るべき神の裁きだけを覚悟しなければなりません。十字架の福音こそ唯一の望みです。

 

 25節の、持っているものとは神の言葉と理解することができないでしょうか。罪の赦しの福音です。これを持っているものは、神の赦しに安らうことができます。そして、これ以上の平安の根拠はありません。しかし、神の言葉を拒否すれば当然このような罪の赦しの約束は心に何の影響も残しません。罪の赦しのないところでは、安らぎもなければ心の平安もありません。(おわり)

2015年01月18日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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