2015年1月11日説教「種まきの譬え」金田幸男牧師

CIMG0652.JPG
L150111001.wav ←クリックすると説教が聴けます

2015.1.11説教「種まきのたとえ」

 

聖書 マルコによる福音書マルコ4章1―20

1 イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。2 イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、3 「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。

5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。

8 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

9 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。

10 イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。

11 そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。

12 それは/『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。

13 また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。

14 種まきは御言をまくのである。

15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。

16 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、17 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

18 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、19 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。

20 また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。

 

要旨 

【譬えで語られる】

 4章1-34には四つの譬え話が記されています。今日はその最初の譬えを学びたいと思います。この部分では、あとの三つの比べると違う点があります。それは13-20節なのですが、謎解きというべき解説が記されています。福音書では例外的なので、ここは後世の教会の付記だという説もありますが、33-34節でキリストは弟子たちにはその意味を説明したと記されていますので、マルコ福音書の著者が他の譬えの謎解きを記さなかったというだけだろうと思われます。

 

【なぜ譬えで語られたのか】

 ところで、1-20節の中に、なぜキリストが譬えで語られたのかを語るところがあります(10-12節)。そこではイエス・キリストはその人々には譬えで語られてもそれを理解することがないといわれます。つまり、外部の人、キリストの弟子ではない人たちが分からないようにするために譬えで語ると言われます。これは妙な表現です。実際、譬えは話を分かりやすくするために用いられます。難しい話を、「譬えてみればかくかくしかじかだ」とよくいわれます。教会の説教でも話を分かりやすくするために、世間で起きている事件を譬えとして用いる手法が用いられます。

 

改革派教会ではあまり推奨されませんが、新聞記事やテレビ報道を材料にして、つまり、ひとつの譬えとして語ることがあります。これを一概に拙いとはいえません。教会学校の教師のために例え話集なども出版されています。子どもたちに教理を説明するために比ゆや例話を用いるのは昔からのやり方です。

 

【彼らが、「聞くには聞くが、理解できない」ため】

 イエス・キリストは弟子ではない人たちに譬えで語るのですが、それは、彼らが、見ても認めず、「聞くには聞くが、理解できない」ためだといわれます。こうして立ち返って(悔い改めて)罪が赦されることがない。これはそのままではありませんが、イザヤ6章9-10の引用です。譬えで語られるのは、分からなくするためというのは理屈にあわない話です。キリストはどのような意味でこのように語られたのでしょうか。

 

【理解するとは】

 理解する、あるいは分かるというのは二重の意味があります。種まきの譬え話のように、全て共通しているのは一応聞くということです。分かりやすい日本語で聞けば大体分かります。聖書はどんな無学な人にも分かるように書かれてあります(ウエストミンスター信仰告白1:7、誰でも「通常の手段を用いれば、十分な理解に達する」)。聖書を紐解けば書かれてあることは理解できます。だから、それでほんとうに理解したのかというとそうではありません。もうひとつの理解があるのです。その理解は単に書かれたあることを理解するという以上の理解です。腹に収まるという言葉がありますが、それ以上の理解です。人生を変えるような、価値観や世界観をひっくり返されるような理解があります。心が満たされ、じっとしておれないような感激を伴う知識もあります。

 

 譬えで語られてもその情景は思い浮かべることができるかもしれません。キリストがここで語られた譬えは当時のパレスティナの農業形態を反映しています。粗放というか、粗い農法が用いられていましたから、その情景を見慣れている人たちにはイエスの譬えはすぐ分かったはずです。しかし、それで譬えの意味が分かったわけではありません。謎解きをしてもらう。そして、それで終わりではありません。そこに記されていることに感動するか、衝撃を受けるか。

 

【二重の理解】

 言葉そのものは誰でも分かるけれども、それで終わりではありません。例えば、祈りは聞かれる、という約束は言葉としては分かっても、祈り、しかも約束を信じて祈り祝福を受けるということとは異なります。この言葉に震え、感動することとは違います。聖書に書かれてあるのは単なる言葉ですが、その言葉を信じて受け入れるとき、聖書の言葉は衝撃的に作用します。このような二重の理解があり、理解の究極までイエス・キリストは導こうとされていますが、所詮外部の人、つまり、神の言葉を受け入れない人には、どのような分かりやすい譬えもそれ以上には聞かれないのです。

 

キリストが求められているのは、外の人ではなく、キリストの弟子となって聖書の言葉を生きた神の言葉として聞き、理解することなのです。

 

【播かれた種】

 譬えそのものを学びましょう。この譬えは分かりやすい譬えである上に、説き明かし、すなわち、イエスの解説までついています。種まきは神の言葉を語ります。語り手がイエス・キリストか、父なる神ご自身か、それとも、御言葉の宣教者かは判断できません。種はみ言葉です。そして、蒔かれた土地は受け入れる人のこころのあり方を示しています。

 

【道ばたに落ちた種】

種まく人は麦の種を空中に投げます。種は風に乗って広範に地面に落ちます。日本の農法のようにひとつひとつを丁寧に土に埋め込むというようなことをしません。すると、当然、種は畑地にだけ落ちません。中には道路に落ちてしまうものもあります。道路は人や家畜が歩くところですから、固くしまっています。そんなところの落ちた種は根を出すことなどできません。そのうちに鳥がやってきて食べてしまいます。

【石地に蒔かれた種は】

パレスティナは耕作に不向きな土地が多いところといわれています。それは石灰岩のような石がいその石地の上に重ねなければなりません。当然薄いものとなります。上から見ても分かりませんが、蒔かれた種は根をおろそうとしてもしっかり根を張ることができません。太陽が照って来ると枯れるしかありません。

 

【茨の土地に蒔かれた種は】

茨の土地の場合はどうでしょうか。日本の冬にはたいていの草は枯れるとしても若干青い草はどこかに生えています。かの地では乾燥期には雑草も全く枯れてしまいます。種が蒔かれたときは耕作地に見えます。ところが雑草は急速に成長しますので、せっかく目を出した麦も陰になり、成長することができません。よい土地に蒔かれると豊かに実を結びます。

 

【譬えの解説】

 この譬えをイエス・キリストは解説されます。道端に蒔かれる種が鳥に食われてしまうとは、サタンがやってきてみ言葉を奪い取ってしまうことだ。具体的には分かりません。御言葉を受け入れようとするものに邪魔をするのがサタンです。サタンの方法は多様です。み言葉を聞いてもくだらないと思う、あるいは経験が邪魔をする。一応は聞くが、宗教に対する偏見がみ言葉を拒否するという場合もそうかもしれません。石地に蒔かれるが、結局枯れてしまうとは、み言葉を聞くが、艱難や迫害、辛いことが起こると躓いて、み言葉から離れてしまう。茨の中に蒔かれて成長しないとはこのようも思い煩い、富の誘惑に負けて、いろいろな欲望に妨げられて、み言葉をいったん受け入れても途中で捨て去ってしまう。

 

 このような意味であることもすぐに分かります。よい土地に蒔かれるとたくさんの麦に実る。これも分かります。よい土地で多くの実を結ぶ点について考えたいことがあります。実はその土地の農業形態を知っている人はキリストの譬えに首を傾げるはずなのです。キリストはよい土地に蒔かれた麦が30倍、60倍、100倍になるといわれました。これは常識ではありません。麦の生産量は、せいぜい数倍といわれています。今日小麦を生産するところでは、肥料を多くやり、手入もきちんとして、十数倍は収穫することができるのですが、100倍は大変多い数字だそうです。ちなみに米は多く実ります。それでも農法が発達していない昔はさほど多い収量は望めなかったそうです。ということは、30倍、60倍、100倍という数字は極端というか、ありえない、あるいは奇跡的と言ってもよいのです。

 

【み言葉を受け入れ信じるとは驚くべき奇跡】

 好条件の土地に落ちた種が引き起こす現象はそれ自体奇跡と言ってもよいものなのです。み言葉を受け入れて信じると、そこから大きな祝福を受けるという謎解きに違いありません。み言葉を受け入れて信じるならばその結果その人の中に大きな神の祝福が生じます。それは驚くべき祝福です。

 奇跡と言ってもいい現象が起きます。それは神がなさるわざです。み言葉を受け入れるということは奇跡を伴うのだというのです。

 実際、御言葉に心を開いて受け入れること自体が奇跡といわなければなりません。その上、信じるところには信じがたい神に働きがなされます。

 

【最大の奇跡は、キリストの復活にあずかること】

最大の奇跡は、キリストの約束のとおり復活にあずかることと思います。キリストは死を打ち倒して三日目に墓から復活されました。これは最大の奇跡です。そして、私たちはキリストを信じて受け入れるならばキリストとひとつにされて、神の子とされ、復活のいのちにあずかることができます。死ぬべき私たちが、死を征服したキリストに結合されることほど大きな奇跡はありません。この大きな奇跡と同様、私たちは信仰によってさまざまな幸いを約束されていますし、事実その約束の実現を我が物とすることができます。

 

【罪の赦しも奇跡】

罪の赦しの恵みもまた偉大な奇跡です。イエス・キリストを信じるならば、私たちはその十字架の贖いによって罪が赦され、神に受け入れられます。私たちは神の民として、み国に集合できます。神のまことの家族の一員として受け入れられます。それだけではありません。私たちはイエス・キリストに守られ、導かれ、成長することができます。

 

 これらは信じて受け入れるしかありません。そのとき、キリストは約束されています。種まきの譬えそのものは分かりやすい、興味あるお話であって、理解しがたいところは何もありません。しかし、そこで留まっていては、この譬えからまだ何も学んだことになりません。み言葉を学んで、信じ、受け入れ、それによって私たちが大きく変えられる、そのことが期待されます。み言葉を受け入れるところでは言語の絶する大きな神の働きがあるのです。



2015年01月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1047