2014年12月7日説教「あなたは神の子だ」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書3章
:7 それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、
8 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。
9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。
10 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。
11 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。
12 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。


説教 「あなたは神の子」金田幸男牧師

聖書:マルコ福音書3章7―12

 

要旨

  7-12節は、1章40から始まる一連の癒し物語、特に2章1からのファリサイ派の人たちとの対立を引き起こした安息日のわざの五つの物語と、3章13以下を結び付ける「つなぎの文章」となっています。それは以前のキリストの働きを要約し、新しい展開を示します。

 

【立ち去られた】

7節に、イエスがガリラヤ湖のほうへ「立ち去られた」とありますが、実際には退去されたという意味です。キリストはカファルナウムを中心に活動をされていましたが、ファリサイ派は、ふだんは敵対していたヘロデ王家の支持者と手を組み、キリストを亡き者にしようとの陰謀を企てます。

 

【反キリスト】

そのため、キリストはファリサイ派と全面衝突しないように、町から離れて湖の近くに退かれたのです。これはキリストの宣教活動のはじめでした。キリストはその福音宣教の初期から、敵意に直面したのです。キリストの働きはそのはじめから万事順調に成果を挙げていたというのではありませんでした。ファリサイ派の人々、集まってきた大群衆、そして、汚れた霊、これらはキリストと出会います。彼らは直ちにキリストの権威に服したのかといいますと皆がそうではありません。

 

そこに示されたのは敵意、あるいは一方的な期待です。どう見てもキリストの働きは大成功などとは言えないのです。キリストの福音宣教のみわざは当初より困難を極めていたのです。それだけキリストに敵対するものが多く、その力も強大であったといえるのです。

 

まず、書かれてあったことですが、ファリサイ派の敵意を引き起こします(3:6)。一般民衆にはどうであったでしょうか。大勢の群衆が集まってきます。おびただしい数の群衆でした。彼らは各地からやって来ています。早くもキリストの評判は各地に拡大して行ったので、イエスの力を知ったのでした。ガリラヤから始まり、南部に位置するユダヤ、エルサレム、その南にあったイドマヤ、東に位置するヨルダンの向こう側=トランスヨルダン、西南のティルス、シドン(地中海沿岸の町、フェニキア人が住む、現在のレバノン)にまでキリストの名声は伝わって行きました。

 

このうち、イドマヤを除き、福音書ではのちにイエス・キリストがその地方に足を踏み入れたとあります。イドマヤは旧約に出てくるエドム人の子孫が居住した地域で、紀元180年ほど前、ユダを独立に導いたマカビー王家によって征服され、ユダヤ教を強制されます。イエス・キリストが生まれたときユダヤの王であったヘロデはイドマヤ人でした。

 

福音書の視点からすれば、のちに、イエス・キリストは活動範囲とした地域から続々と人がやってきます。大量の人々がキリストのところに来ます。そのあまりの多さのために、キリストは身の危険を感じ、ガリラヤ湖に舟を用意してもらい、難を逃れるという始末でした。そのエネルギーの凄まじさに舌を巻くのですが、それは病気を癒してもらいたいとの思いから出たものです。病気は病苦ともいいます。病気は病人に過酷な苦しみを与えます。苦しみから解放されたいと願う人々が大挙して来ました。これはイエス・キリストからいわゆるご利益を得たいとの思いから出た行動です。そこには、ただキリストに今負っている苦しみを逃れたいと思っているだけです。

 

【求道の動機】

動機が不純であると誰しもが思います。キリスト教は魂の救済を語っている。あるいは人生の最大の価値を説いている、その意味では最高の哲学である。それは偉大な思想である。このように宗教を捉えているものには、群衆の動きはけしからぬと思っても不思議ではありません。現世的なご利益を求めるような信仰は邪道である。こう思っている人は多数ではないでしょうか。

 

イエス・キリストは神の福音を語られます。悔い改めて福音を信じるように、キリストは訴えられます。だから、この各地からやってきた群衆を避けて身を隠してしまうことも可能でした。群衆はイエス・キリストに迫って湖まで押し立てるところまで押し迫ります。イエス・キリストは身の危険を感じて舟に逃れたのです。異常といえば異常です。キリストがこれ以上の働きを断固拒絶してしまうこともありえました。

 

【癒しを求めて】

 でも、キリストはどうされたのか。キリストは多くの病人を癒されました。動機が不純だといって直ちに群衆を追放されたのではありません。キリストは癒しを求めてやってきた人たちの願いを聞き届けます。その動機の中に真実な求道など見い出せないところで、人々の思いを聞かれます。それはキリストの憐れみのゆえです。キリストはただ病を癒してもらいたい、今負わせられている重荷を軽くしてもらいたい、キリストの助けを求める思いに満たされている人の期待を潰すことをなさいません。

 

キリストのところに来る人々の期待はさまざまです。いわゆる高尚な宗教理念に反するような願いを携えてやってくるというような人もいました。キリストはそのような人たちがはじめから福音のメッセージなど聞く耳も持たないとして、退けられることはありませんでした。動機はさまざまであってもよいのです。キリストは人々の期待を無にするようなことをなさいません。これがキリストなのです。

 

 単純にキリストを求めてやってくる。時には興味半分、あるいは、懐疑的に、キリストを求める人もいるでしょう。しかし、キリストはそのような人たちの思いを大事にして、その願いを実現されます。キリストが地上におられたときその範囲は現在のパレスティナ一帯に限られていましたが、今キリストの昇天後は、そのような地理的限界が取り除かれています。キリストは今も期待をもって近づくものをないがしろにしたり失望に終わらせたりすることはないのです。

 

【汚れた霊に憑かれた者】

 キリストのところにやってきたもう一種類の存在があります。汚れた霊、悪霊といわれる霊的存在です。彼らがキリストのところになぜやってきたのか記されていませんが、清らかな思いからでなかったことは確実です。悪霊は決して回心してキリストのために働くなどということはありません。悪霊はキリストに敵対するだけです。悪霊は、その存在そのものが神に敵対する存在です。人間は回心する可能性があります。誰もが回心することができます。しかし、悪霊はそのようなことにはなりません。

 悪霊につかれた人たちがいました。彼らはキリストのところへ来たのはキリストに敵対するためでした。悪霊が近づく、つまりは悪霊につかれた人間たちが叫びながら、キリストに反対するべく集まってきたのに違いありません。

 

【「あなたは神の子」と叫ぶ悪霊】

悪霊どもは、キリストに向かって「あなたは神の子」と叫んでいます。イエスが神の子であるという信仰こそキリスト教の存続に大きく関わるものです。悪霊が神の真理を語る? 恐ろしいことです。この叫びはキリスト教信仰で最も重要な教義を本当に告白する叫びなのでしょうか。神は悪霊に神の真理の宣教をさせようとしておられるのでしょうか。そんなことは決してありえません。確かにキリストが神の子であるという言葉は真理です。キリスト教最大の真理です。これによってキリスト教は成り立ちます。それほどまで大切な信仰の内容です。悪霊がこんなことを叫ぶとは驚きです。

 なぜ、悪霊はこんなことを言ったのか。敵対する相手の素性を明らかにするというのは戦いの常套手段であったといわれます。相手の本名を明らかにする、そのとき相手は無力化されるというのです。ですからめったに本名を明らかにしません。悪霊はイエス・キリストが神の子であると語ることで、キリストを無力化しようと計ります。これが、悪霊どもの、「あなたこそ神の子です」という言葉の背後にある動機です。悪霊どもはキリストを無力なものとし、キリストを圧倒しようと企てています。動機は敵意、敵対意識からです。悪霊はイエス・キリストをただ単純に神の子といっているのではありません。

 

【クリスマスは光の祭典?】

悪霊に、キリストは沈黙を求められます。これは悪霊に、真理の伝達などさせないと言うものです。神に敵対するもの、神とかかわりを持たないものが、キリスト教の真理を声高に叫んでいる。こういうことは至るところで見られます。クリスマスなどその典型です。イルミネーションを飾り立て、光の祭典などと称しています。しかし、それは人工的な光に過ぎません。暗い闇の中できれいに見えます。しかし、それ以上ではありません。私たちの世界に巣食っている闇の力に対して光を提供することなどできるのではありません。むしろ、人間世界の暗闇はますます大きくなるばかりです。悪、不正、不公平が蔓延しつつあります。光の祭典と言っても人間の魂の闇をとても明るくできるわけがありません。

 

 キリストはご自身に敵対するものに真理の告知の任務を与えられるのではありません。キリストは神の言葉を不真実な勢力に任せられることはありません。

 キリストは敵対するものは真実を語っているとしても、彼らには沈黙を命じられます。悪霊が、イエスは神の子だと大声で叫んだとしても、沈黙を命じられます。つまり、彼らによって神の真理は少しでも語られることなど望まれないのです。

 

【福音宣教はキリスト者の召し】

とすれば、キリストはこの最大の教義をどのようにして世界に発信させられるのでしょうか。キリストの弟子たち以外には考えられません。教会が、そして、キリスト者が神の言葉を宣べ伝えるように召されています。教会以外、キリストを信じるもの以外が何かすばらしい真理を語っているかのように思われても、福音の真理は彼らの口から語られることはありません。キリストを心から愛し、信じるものにこそ「イエスは神の子である」という福音が委ねられているのです。これを世界中に告げ知らせるように、私たちは召されています。(おわり)



2014年12月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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