2014年12月28日説教「すべての罪は許される」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書3章:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。


説教要旨 マルコ3:20―30

 「どんな罪も赦される」

 

【身内の者たちは、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである】

 イエス・キリストはご自身の働きをいっそう前進させるために12人の弟子を選び出されました。その弟子らとカファルナウムにある、ペトロの家に戻って来られたと推測できます。そこへ群衆が押し寄せてきます。病気を癒してほしいという人々であったと思われます。そのためにキリストは食事を取ることもできないほど多忙を強いられました。そこへ、キリストの身内がやってきます。彼らはナザレから来たと思われますが、カファルナウムまで直線距離でも40キロ近くあります。徒歩では2日間かかる距離です。なぜやってきたのか。イエスを連れ戻すためであったと思われます。イエスは気が変になった、と思ったからだと思われますが、イエスが食事もしないで働いていて、過労がひどく、放っておけないので連れ帰ろうとしたと考えることもできます。

 

【エルサレムからの律法学者】

イエスはその人々とナザレに帰ったと推測できますが、それは31節以下に記されます。その前にもうひとつのエピソードが記されます。エルサレムから律法学者がやってきたとあります(22)。彼らは偶然居合わせたのではなく、イエスの言動を調査しにやってきたことは間違いありません。それだけイエスのうわさは広がっていたのです。律法学者は、おそらくイエスの教えが彼ら律法学者と異なるものではないかと疑っていたのです。

 

【悪霊のかしらベルゼブル/ベルゼブブ/サタン】

 律法学者はイエスの言動を見てすぐに結論を出します。イエスはベルゼブルに取りつかれている、というものでした。あるいは、悪霊のかしら、親玉によって、悪霊を追い出している、とも言いました。ベルゼブルはベルゼブブから来ていて、ベルゼブブとはペリシテの神で、蝿の神、したがって汚物の神でありました。害虫の神ですから、人間に災いを下します。あるいは、ベルゼブルはヘブル語で「(悪霊の住む)住まいの主」を意味するとされます。悪霊はその家に住んでいます。その宿の主人公はベルゼブルです。律法学者は悪霊がやすやすと追い出されるのは、その親分のベルゼブル、あるいはサタンの命令であると結論を出します。イエスは悪霊のかしらの所属として、あるいはサタンの力を借りて、悪霊を追い出しているのだというのでした。

 

【内輪もめをする国は成り立たない】

 イエス・キリストはこの律法学者の結論に反駁されます。それを比ゆで語られます。まず、悪霊のかしらが子分である悪霊を追い出しているというのであればそれは内輪もめである。内輪もめをしているような国家は成り立たない。また家族もそうです。現在でも、内戦が長く続くところがありますが、もう国家の態をなしていません。国民は疲弊し、難民となり、飢餓や病弊に苦しめられています。内乱によって国は国の形を失います。それは不幸なことです。家族もそうで、互いに争っている家族はもう家族と言うことができず、その家族の成員は悲惨です。サタンは悪しき霊の集団を体現したものとされますが、サタンがその悪霊集団を追い出すことなどできません。親分が子分を追い出してしまっては、何もできなくなってしまいます。ベルゼブル・悪霊の家の主が、そこに集まっていた悪霊をことごとく追い出したとしたら、ベルゼブル自体が何もできなくなってしまいます。そんな愚かなことを悪霊のかしらがするはずがありません。イエス・キリストは決して悪霊のかしらの力を用いて味方であるはずの悪霊を追い出したりすることは決してない。このことは誰が考えても分かる話です。

 

【キリスト/聖霊は悪霊のかしらに勝る】

 さらにキリストは反論されます。悪霊を追い出している。そうだとすれば、その親分を追い出し打倒するのが先です。そうでないと、親玉が攻撃してきたら、反抗することができません。キリストは悪霊を追い出しているのであるとすれば、すでに悪霊のかしらに勝る力を持っていることを示しています。キリストは、悪霊のかしらに凌駕する大きな力を保持し、それを行使する方なのです。キリストはベルゼブル以上なのです。


【サタンは鎖につながれて今も働く】

 今日は科学万能の時代です。悪霊とかサタンとかいいますと、直ちに作り話、神話、創作という反応が生じます。21世紀の今頃、悪霊の存在など信じているものはないとされます。ばかばかしいと一蹴されてしまいます。しかし、それにもかかわらず、霊に憑かれている、悪霊に呪われている、崇りがある、などといわれると不安に襲われます。そして、あっさりと高価な除霊効果があるとされる品物を買わされたりします。それは霊的なものの存在を否定しながらどこかでその存在を否定できない心の思いがあるに違いありません。

 

 だから、サタンは何か君臨するものとも考えられています。力ある者と見なされます。そして恐れられています。ある注解者が言っていることですが、サタンは鎖につながれている。キリストはまずサタンを縛り付けられました。ところがそのつながれている鎖は長いのです。ですから鎖につながれている範囲でサタンは行動しています。サタンはまだ徹底的に滅ぼされていません。そのためになお暗躍しています。私たちの心に恐怖心を与え、自分は力があるように振る舞います。サタンは自分の力に人が屈するように試みます。そして、しばしばそれは成功しているかのようです。

 

 しかし、私たちはイエス・キリストが言われたように、サタンはまず縛り付けられていることを覚えなければなりません。サタンは全能者のように振舞っていますが、所詮鎖につながれています。鎖を引きずって最後のあがきをしています。しかし、その力は強力でもあります。だからその誘惑に敗北する人が何と多いことでしょうか。

 

 キリストはサタンを打倒し、打ちのめし、追い出す方です。サタンはせいぜい反抗できる程度です。サタンは強大と思われてもイエスの前には無力です。キリストは悪霊を追い出されましたが、悪霊のかしらはキリストに抗することはできません。私たちは霊的な事柄ではだまされやすいのです。しかし、キリストはあらゆる霊的な力に対しても主であることができる方です。薄気味悪い感じを与えて私たちに恐怖心を起すのですが、サタンはキリストに全然勝つことができません。

 

【赦されない罪とは】

 さらにキリストは、イエスがサタンに取り付かれていると中傷する律法学者に反論されます。あらゆる罪は赦される。突然、キリストは罪の赦しを語られます。しかし、赦されない罪がある。その赦されない罪とは何か。聖霊を汚す罪です。聖霊を汚す罪とは何か。

 

【あらゆる罪は赦される】

 人の子ら(罪人)が犯すあらゆる罪は赦される。その罪に中には冒涜の言葉も含まれます。私たちの世界は罪に満ちています。いたるところに罪があります。お互いに人は罪を犯しています。傷つけあい、罵りあい、誹謗のきわみにあります。到底赦しがたいと思われるような罪もあります。ところがキリストは赦されると言われます。

 

 キリスト御自身もときに嘲られ、侮辱されました。ついに命を奪われます。このようなキリストに対する犯罪は赦しがたいものとも思われますが、キリストは,赦されない罪はないといわれます。キリストはそのために十字架につけられました。キリストは私たちの世界に来られて、私たちの罪を全て負い、十字架でその罪に対する神のさばきを身代わりに引き受けられました。

 

 人間は過去の罪を引きずっています。過去の罪に苦しんでいます。そのことを思い出すと立っておれなくなるような気持ちになります。くよくよしている場合もあります。良心の呵責に悩まされていることもあります。どうすることもできない恨みに満たされ、そのために自己嫌悪に陥っている人もいます。罪は私たちの人生を暗くしています。個人だけではありません。人類は多くの罪を積み重ねています。人類の悲劇の根源に人間の罪がある。このように言うことができます。

 

 イエス・キリストはあらゆる罪を赦してくださいます。神の赦しを約束されます。だから、神のさばきを恐れることがありません。キリストの十字架の効果は全体に及びます。過去、現在、未来の全ての罪は赦されました。教会はこのことを全世界に語るように命じられています。

 

【聖霊を汚す罪】

 しかし、赦されない罪があるとキリストは語られます。ひとつの例外がある。それは聖霊を汚す罪です。聖霊は、悪霊にまさる力を持っている方です。聖霊こそ、まず相手のかしらを縛り付けることができる方です。その聖霊は、イエスは主であると告白させる霊です(1コリント12:3)。神の深みを究める方です(1コリント2:10)。聖霊は欺くことができない方です。この方を汚すような罪とは、結局、キリストを悪霊につかれていると主張する場合です。

 

律法学者はイエスの言動をベルゼブルに取り付かれてやっていることだと結論するのですが、それは最も危険なことを言っているのです。赦されないような罪を犯していると言えます。

 イエス・キリストを批判しているのですが、そのイエスの働きがどこから来ているのか、律法学者はサタンに根源を求めました。キリストは、中傷され、批判され、非難されました。しかし、イエス・キリストはそのような攻撃を甘受されます。

 

【キリストを信じない不信仰こそ赦されない罪】

 キリスト教に対する批判、教会批判は、批判であるというだけでは、赦されざる大罪などとはいえません。キリストの十字架は効力が大きいのです。ところがその十字架を否定したり、キリストの救いの効果を否定すればどうでしょうか。それによって私たちの罪が赦されるその根源を無視したり、拒否したりすれば罪赦される余地はなくなってしまいます。

 聖霊を汚す罪とは結局救いの根源を否定する罪だということになります。つまり、キリストを信じない不信仰こそ赦されない罪だということができます。(おわり) 

2014年12月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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