2014年12月14日説教「これと思う人々を呼び寄せ」金田幸男牧師


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マルコによる福音書3章13~19

13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。

14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、

15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。

17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。

18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、

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19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。


 

 

説教「これと思う人を呼び寄せる」マルコ3:13―19

要旨  

イエス・キリストは山に登って行かれます。山といってもおそらくガリラヤ湖の周辺の丘で、湖からの傾斜地、その部分は草原ですが、それを越えると荒地になります。キリストの周りに集まっていた群衆はついて来なかったと思われます。

 

【主の召し集め:12使徒】

キリストは、目的を持って人を召し集められますが、それに応じる人が出てきます。キリスト教信者とは、このように召しに応じて集まった人たちを表わします。キリスト教の集団、教会の基礎は召し、選びと応答からなっています。教えっぱなし、呼びかけっぱなしではなく、その声に応じて集まった人たちこそキリストの弟子です。

 

その中からキリストは12人の使徒を選ばれました。使徒とは「派遣されるもの」を意味します。これは聖霊が降った教会においてその指導者たちを指して言われるのであって、それまでは「弟子」というほうが正しいのです。

 

 キリストは12人の直弟子を集められます。聖書もそうですが、数字に意味を与えるというのはどこにでも見られます。私たちも、4とか9という数字は「死」「苦」を連想するので、部屋番号などに使わないという場合もあります。13は西洋ではキリストの処刑された日に結びつけ、これも嫌われます。

 

【イスラエル12氏族】

半面、3,5,7は完全数といって、そこに整合され、調和された意味を見い出します。12もそうなのです。12は12進法では完全数です。さらに、12は旧約聖書では大きな意味を与えられます。イスラエル民族の始祖、ヤコブは別名イスラエルですが、彼には12人の息子がいました。この12人から12の氏族が生まれてきます。カナンに入国してからは、12氏族が定着し、イスラエル国家を形成していきます。12はイスラエル民族を表わす数字でした。

 

【新しいイスラエル:反ユダヤ教】

神はこのイスラエルを選びの民をし、神の国を形成されます。12人の弟子は新しいイスラエルを意味していました。

 キリストは3章6以前のところでは、主としてユダヤ人の宗教施設である会堂を拠点にして働きを続けられていましたが、ファリサイ派はヘロデの支持者と組んでイエスを殺害しようと企てます。マルコ福音書ではこれ以降、6章2以外、キリストが会堂で働かれたとは記しません。有力な推測は、キリストは会堂と絶縁して、会堂の外で教えを語られたということです。ユダヤの宗教体制は会堂の活動を中心にして営まれましたが、キリストは今後、新しい行き方をされます。同時に、古いイスラエルと異なる、新しいイスラエルを生み出されます。これが12人の弟子たちの働きを通じて実現することになります。

 

 イスラエルは神の選びの民でした。そして、そこに大いなる神の栄光のわざが実行されます。神はイスラエルに大きな祝福を提供されます。神の国とその国籍、神の家族の一員とされます。復活の主の命に預かり、永遠の命を授けられます。新しいイスラエルは、新約の教会に他なりません。

12人の弟子たちの福音の説教を通じて、新しいイスラエルが召し集められます。

 

【使徒の目的1:そばに置く】

 キリストが12人の弟子を選ばれた理由は明らかです。14節に「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」とあります。

 そばに置くというのは、王侯君主が側近に人を集め、権威を誇るというのと同じではありません。また、ただそばにおいて置くというためではありません。そばに置くとは、どういうことかを明瞭に示すのがマルコ14章32以下に記されている、ゲッセマネの出来事です。キリストは十字架につけられようとしています。キリストは苦しみ、悶えられます。それは神から見捨てられるという経験をしなければならないからでした。その苦しみは耐えがたいものでありました。

 

そこでキリストは「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と命じられます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」このようにキリストがいわれたのは傍らに弟子がいて、キリストを励ますように期待されたためです。弟子たちはキリストのために執り成しを求められました。私たちは奇異に感じるはずです。神の子がどうして人間に助力を求めるのか。確かに、おかしな感じもします。しかし、キリストは私たちと変らない人間になってくださいました。喜怒哀楽を感じ取ることができるお方として、私たちにご自身を知らされました。このようなキリストは、弟子たちの祈りの加勢を求めました。キリストは、私たちの祈りを求めておられます。そして、父なる神が助けを与えてくださるように祈るとき、私たちと共に、祈るように招かれます。

 

キリストと共にあるというと、単にそこにいるだけではありません。キリストと共に祈るように導かれます。私たちは祈りにおいて光栄な役割を期待されています。キリストをかしらとする教会のために執り成しをすること、それこそがキリストの求められたところです。

 ゲッセマネでは弟子たちはキリストの願いを充分に汲み取ることができませんでした。弟子たちは眠りこけてしまいました。そして、キリストの裁判のときは蜘蛛の子を散らすかのようにどこかに姿を消してしまいました。キリストが弟子を招かれた目的は期待はずれに終わりました。

 

しかし、その後の教会は、いつもキリストがそばにいてくださる(おらせられる)という信仰によって力を取り戻します。

 

【使徒の目的2:福音宣教と悪霊追放】

弟子たちを選ばれたもうひとつの目的は、福音宣教と悪霊追放です。この両者は密接です。福音を宣教することは弟子たちの専ら委ねられた任務でした。ところが弟子たちは悪霊の追放も命じられます。今日では「悪霊」は神話的なもので、その実在は信じられていません。人間の創作だというのです。古代人の想像の産物だとも言われます。悪霊は存在します。

 

そして、悪霊は私たちに神を呪えと命じ、私たちを神から引き剥がすように努力しています。そのための常套句は、神はいない、神の救いはつまらない、価値がないなどというものです。しかも、悪霊は、私たちが福音を信じようとすると、巧妙に妨害をします。悪霊は私たちに神を呪わせようとします。キリストに不信感をあらわにさせようとします。

 

福音が宣教されるとき、悪霊の居る場所は失われます。キリストを信じるものを悪霊は一番嫌います。福音が宣教され、福音を信じるものが起されると悪霊は無力になります。悪霊の存在は薄気味悪いものです。悪霊を描いた絵があります。そういう絵が私たちの頭に記憶されてしまっています。だから悪霊など実在するといわれると直ちに迷信的であるとか、神話的だと切り捨てられます。悪霊は目で見ることはできませんが、存在します。私たちは気持ち悪く思う必要はありません。福音が純粋に宣べ伝えられるところで悪霊は消えていきます。福音の勝利こそ悪霊を圧倒する方法です。

 このように、人里はなれたところで、12人の弟子たちは、地の果てまで派遣されるために訓練され、教育されます。実際に派遣されるのは6章6節以下に記されているとおりです。この間はどれほどか判然としませんが、キリストは弟子たちを派遣する備えをされました。

 

【弟子たちの多様性】

 キリストの弟子たちのリストが挙げられています。ひとりひとり見ていくことは興味あることですが、ここでは全体を眺めまず。この弟子たちは多様です。職業から見ていくと、ペトロたち4人は漁師です。マタイはレビともいわれ、収税人でした。収税人は読み書き計算ができるのでなければ職につけません。しかし、収税人はその職業から同族ユダヤ人に嫌悪されていました。蔑視されていたというべきでしょう。

 

同じ漁師でも、ヤコブとヨハネの父親は舟を所有し、人を雇う立場で裕福な階層であったと思われます。ペトロはそうではない、とすれば船を持たないで沿岸で漁をし、ときどき網元に雇われるような人たちであったと推測されます。ペトロは既婚者でした。熱心党のシモンはキリストの弟子となったときすでに党派を離れていたかもしれませんが、それでも政治的にはローマの支配を、力を用いてでも覆そうとする過激派でした。

 

イスカリオテのユダは他の弟子と違い、ユダヤのヘブロンのケリオテ(ヨシュア記15:25)出身であったと思われます。他の弟子は大半がガリラヤ出身でした。このユダがイエスを裏切ります。十字架のときは全員が姿を消します。信仰が強烈で不動といった人たちではありませんでした。

 

12人の弟子たちのうち、ペトロやヨハネは多く登場しますが、約半分の弟子たちは弟子団のリストに名が挙がるだけで、新約聖書に登場しません。したがって何を語り、何をしたか分かりません。ユダヤ人の宗教的なエキスパートである律法の学者は一人もいません。種々雑多、しかもいわゆるエリートではありません。キリストはこういう人たちを集められたのでした。

 

【教会の船出】

この12人から教会は出発します。教会はこのように単一の性格を持った人からなる純粋な宗教団体ではありません。いろいろな人が加わってこそ教会たりうるのです。むろん、烏合の衆ではありません。いろいろな人がいるだけではばらばら、何のために組織立てられたか分からない曖昧模糊とした集団になってしまいます。教会はいろいろな人からなりますが、その人たちが教育され、訓練され、そして、福音を宣教するために遣わされます。このようにして教会は形を取ります。

今日のキリスト教会もまたいろいろな人が加わっています。それぞれ個性があります。老若男女が集まっています。このような人たちの力が福音宣教のために結集されるときこそまことの教会になります。教会とはこのような特質をその当初から与えられていたのでした。(おわり)

2014年12月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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