2014年12月21日説教「神がまことの人になるとき」金田幸男牧師

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新約聖書
ヨハネによる福音書1章1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

説教 「神がまことの人となる」

聖書:ヨハネ1:1―5

 

要旨 

【「めでたい」と言うこと】

 クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日と、このように一般に捉えられています。誕生日はめでたい。「愛でる」とは美しさを褒めるという意味があります、誕生日は何が美しいでしょうか。生まれてきた、可愛い赤ん坊が美しいとも言えるかも知れませんが、むしろ新しいのちが存在するようになったことがうるわしいと言えるのではないでしょうか。今まで存在していなかった生命が存在するようになった、そこに、めでたさがあります。

 

【クリスマスを祝うとは】

イエス・キリストの誕生もまた、それまでありえなかったような存在が地の上に与えられた、だから、クリスマスは祝うべきだというのです。

 

 しかし、クリスマスの喜ばしさはそれだけではありません。ヨハネ福音書1章4に「言は肉となって私たちの間に宿られた」という文章が記されています。その言は1章1では「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言は神であった」と記されていいます。つまり、「神が肉をとって人間となられた」ということになります。

 

【はじめに】

「はじめに」は、いつか分からないけれども単なる時間のはじめというような「はじめ」を意味していません。むしろ「永遠のはじめ」を意味しています。永遠のはじめなど、言葉の使い方が間違っていると思われるかもしれません。永遠にははじめもなく終わりもないというべきでしょう。しかし、すべてが始まる以前、時間すら開始される前、その永遠から存在していた言葉が、とき至って肉体を取り、人間となられたのです。時間というようなものがまだなかったときから存在しておられた方が来られたという意味です。

 

【「宿られた」】

 「宿られた」とは「住まわれた」と言うことであり、私たち人間の間で生活し、行動されるようになったというのです。

 神である方が人間と成り、人間の中に住まわれて、生きるようになった。これがクリスマスの大きな意味なのです。神が人となられた。

 

【人間が神になる世界】

私たちは人間が神になるという世界にいます。歴史に残るような大きな活躍をした英雄、傑出した業績を残した人が死後神として祭られる世界、これが私たちの住む世界です。人が死ねば、その人は人間を越えるものとして、例えば子孫を守護する存在として崇められます。人間の神化はごく自然な現象として認められています。でも、神となった人間は、生きていたときの特質をあまり失いません。人間としての特質に神の特質が加わると言うことでしょう。

 

【神が人間となる】 

 しかし、クリスマスはこれとは異なったことを教えられます。神が人間となった、つまり、逆方向の出来事が起きたとされます。神が人となった。

 これはどういうことでしょうか。神がどこか遠くに存在するだけで、人間世界で起きていることを眺めているだけだというのではありません。人間の住む只中に降って来られたと言うのです。神が神であることをやめず、しかし、人間となってくださった。

 

 神が人となるということとは、人が神を見ることが出来るということを意味しています。イエス・キリストこそその人間となった神です。イエス・キリストの周囲には、残念ながら、画家はいなかったようです。もしいたら、彼はイエス・キリストを描くことができました。むろん写真で撮影することができました。キリストはそのような点でまぎれもなく人間となられました。

 

 キリスト教では神は見えないことになっています。私たち日本人もその神観念では、神は見えないことになっています。ご神体の多くは鏡です。鏡は像を移すことができますが、神は見ることができない存在です。神は目には見えません。

 

【見えざる神】

 わたしは牧師としていろいろな質問を受けますが、そういう中で一番多い難問は「神がいるなら見せてくれ、見たら信じる」というものです。神を見せることができれば、手っ取り早く神存在を証明することができるかもしれません。でも、神は見ることが出来ないのです。見ることが出来るようにされた神は神ならざるものでしかありません。

 

【人となられた神イエスは見ることができた】

 イエス・キリストは神であるにもかかわらず、人間となられたのですから、キリストそのものは見ることが出来ます。キリストは幻の中で姿を表したのではありません。

キリストを見れば、確かにそこでは「人間イエス」を見ていることになりますが、そのイエスが神です。神を肉眼で見ることが出来ませんが、イエスの働き、行動行為、説教を聞いておれば、私たちは神の何かを見ていることになります。

 

言は肉となったと記されていました。肉体を取った神、それは言が肉の姿をとっただけではなく、言葉はイエスの口から発せられます。それは単なる音声に留まるのではなく、神の意志を伝えます。神が何を願い、何を求め、何を欲し、どんな驚くべきことをしようとしておられるのか明白にされます。

 

言葉は神の御心を明らかにします。その言葉を聞いておれば神とはどういう存在か、神は私たちにとってどういう価値があるのか。神は一帯どんな恵みを提供しようとしておられるのか。神は決して人間を滅ぼしつくそうとしておられるのではありません。そうすればきっとよきことをしようとされています。神は憐れみの神です。救いの神です。

 

【聖書に記録された神の言葉】

キリストを通じて、私たちは神の意志を知ることができるのです。単なる宗教的天才の発明した思想を受け取るのではありません。

キリストの言葉、すなわち神の言葉は聖書に記録されています。聖書を読めば、神の意志が分かります。キリストが降誕されたのは、イエス・キリストによって神の御心が明白に、隠れるところなく示されるようになるため、また、すばらしい神の働きがなされたことを示されるためです。キリストを信仰の目で見れば神が見えてくるということができます。肉眼で見えなくても、心で神を見ることが出来るようになります。

 

【処女マリアから生まれたキリスト】

神の子、イエス・キリストが降誕した、その意味は多くありますが、中でも最も大切な意味が何か。キリストの降誕で、キリストは私たちと同じ人間になられました。正確に言うと、罪を除いて、全く私たちと等しい人間となられたということです。罪を除いて、について詳しい説明が必要ですが、処女マリアから生まれた理由です。この点、キリストは私たちとは同じ出生ではありませんでした。だから、キリストは罪なくして生まれてこられました。

 

【身代わり】

同じ人間であると言うのは私たちの身代わりになれるということです。

子どもが何か悪いことをして誰かに損害を与えたとします。その場合、親が子どもに代わり、謝ります。ときには賠償責任も負います。こうして身代わりになるものが負い目を引き受けて、その(よこしま)な行為の張本人は免罪されます。責任を取らされず、処罰されないのです。

 

【イエス・キリストの贖罪】

イエス・キリストが人間となられたのは身代わりになれる、いや、身代わりになるためでした。人間は身代わりを必要とする闇を背負っています。それは死の陰という闇です。私たちは死の気配の中で生きています。そして、世界もまた、破滅の予兆を示しています。人類はその罪のゆえに戦争、戦乱、飢饉、疫病など数え切れない不幸と災いに見舞われます。その原因は、どこにあるのでしょうか。直接の原因は解明できるでしょうけれども、その打開策を人間は持っていません。例えば戦争ですが、戦争の原因はいろいろと探り知ることができるでしょうけれども、根本的な原因は見い出せません。むろん人間の貪欲、あくなき欲望と言えるかもしれませんが、それを解決する方策は今もって見い出せていません。

 

人間の悪き存在は自覚されていてもその解決はありません。

イエス・キリストは、人間の悪とその結果を引き受けるためにこの世に来られました。ご自身が十字架につけられることで身代わりになられました。

キリストは、自らを犠牲にすることで、神の裁きを引き受けてくださいました。そうすることで、根本的な人間の中にある闇を取り払われました。

 

【キリストによる平和の完成】

現在はなおも罪の支配があります。それはまだ力を発揮しているかのようですが、根本は解決しています。キリストのこのみわざを信じるところでは闇は払われています。信じる心があるところで平和が来ています。完成されるまではまだ時間がかかるかもしれませんが、それでも、神は徐々に完全な平和の到来を実現しておられます。

クリスマスはこの神の働きを覚え、また救いの完成を待ち望むときでもあります。主を待ち望みつつこの季節を過ごしたいものです。 (おわり)


2014年12月21日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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