2014年11月23日説 教 「本当の安息」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書2章
23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

 

要旨

【ある安息日】

  「ある安息日」とありますが、その日がどんな安息日であるか、マルコによる福音書は何も記していません。たぶん「ありふれた」安息日であったに違いありません。

 

安息日はユダヤ人にとっては特別な意味があったとされています。安息日を遵守することはユダヤ人にとってその民族意識を駆り立てる重要な行為でした。しかし、多くのユダヤ人にとっては、ただその日が労働を休む日以上に特別な意味を見出せなくなると、いわゆるマンネリに陥ってしまう傾向もあったでしょう。

 

習慣的に安息日は仕事をしないだけ。この実情を何とかしたい。この安息日の意義をもっと意識させる方策はないものかと、ユダヤ人の指導者たちが熟考したとしても不思議ではありません。

 

ファリサイ派の安息日の禁止事項】

ファリサイ派といわれる宗教的な指導層が考えついたことは、この日を厳格に守ること、そのためにさまざまな禁止事項を設けることでした。こうして安息日を厳守することで安息日の重要性を強く認識させ、これによって民族意識を明確に同胞に持たせようとします。そのために彼ら自身がその規定の遵守に励みます。

 

ファリサイ派は安息日には労働をしないばかりか、家畜に軛をかけることもせず、医者が医療行為をすることも禁じ、安息日に調理することもだめだとします。食事をしないわけには行きませんから、安息日の食事は前日に準備するようにしたそうです。このような細かな規定を定めて、その遵守が敬虔、信心の熱さを示すものと受け止められたのです。

 

【麦穂を食べる弟子たち】

 ある安息日に、キリストの弟子たちが麦畑を通って行きます。ここには記されていませんが、キリストは安息日にはユダヤ人の会堂に入り、礼拝を守りました。詩編歌を歌い、聖書朗読を聞き、定式化された祈祷をささげることがその礼拝の形式でした。弟子たちがその途中、麦の穂を摘んで口に入れます。この行為は律法では許されていました。申命記23:26に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあります。鎌で刈り取るのは盗みになりますが、手で摘むのは許されていました。弟子たちの行為は犯罪にはなりません。弟子たちはおそらく空腹であったのでしょう。

 

彼らはイエス・キリストと共に宣教活動に従事していました。何かの事情で前日に食事を整えることができなかったのでしょう。キリストの弟子たちは空腹に襲われたために、麦の穂を摘み、籾殻を手で揉み、口に入れたのです。米は生で噛んで食べることをしませんが、麦(大麦)は石臼で粉にしないでも、口に入れているとでんぷんが変化して食用となるのだそうです。空腹を充分に満たすことはできなくとも、当座の飢えを満たすことができます。

 

それを見ていたファリサイ派が非難をします。彼らがわざわざ町からキリストの一団を監視するためにやってきたとは思えません。ファリサイ派は安息日に何キロメートルを歩いてはならないと規定していました。キリストを監視するためとはいえ、安息日に何キロも歩くはずがありません。おそらく歩いている最中に、たまたま弟子たちと合流し、弟子たちの行為を見てしまったと考えられます。

 

【ファリサイ派の批判】

ファリサイ派は問います。どうして、キリストの弟子たちは安息日にしてはならないことをするのか。ファリサイ派にとってこれは調理することであり、安息日の禁止事項にふれるというものでした。他人の麦畑で穂を摘んで食べたことを彼らは批判しているのではありません。ファリサイ派が非難したことは、安息日の規定に反するというものです。ここでは、ファリサイ派が定めている安息日規定に反しているとされています。

 

ファリサイ派は、信心深いとされている一派でした。当時、禁欲的な集団が多くあったと考えられています。明らかに洗礼者ヨハネもそのような集団と見なされていました。イエス・キリストも弟子たちを選び、彼らと共同生活をしていました。そのようなキリストの弟子たちも敬虔で信心深くなければなりません。キリストも民衆に教えていますが、ファリサイ派から見ればキリストの弟子集団も禁欲グループであることが期待されていました。

 

そのキリストの弟子たちは安息日にしてはならないとされている行動をしています。これは批判に値するとファリサイ派は考えました。

 

【アビヤタルが大祭司?のとき】

キリストはこの批判にどう答えられたでしょうか。キリストは旧約聖書の故事を用いられます。ダビデの例です。サムエル記上21:2-7にそれが記されています。ダビデはサウルに命を狙われて、ノブという土地で祭司であったアヒメレクのところへ単身出向きます。(マルコ2:26では「アビヤタルが大祭司のとき」とあり、明らかにサムエル記上の記事と異なります。これはイエスが誤ったのか、それともマルコの謝りか。どちらにしても錯誤だと重大視する人もいます。聖書に対する信頼性を失わせないために、ここを「のちに大祭司となるアビヤタルのとき」と訳すこともできますので、アヒメレクとその息子アビヤタルがダビデを迎えたとして、記述には誤りではないとします。)

 

大祭司はレビ記24:5-9によれば安息日ごとパンを焼き、それを祭壇に供えなければなりませんでした。普通は12個焼くことになっています。そして、安息日に新しいパンを備え、古いのは下げます。パンと一緒にささげられた香料は燃やして主のものとされますが、取り下げられたパンは祭司たちが食べたのです。ただし、このパンは祭司とその子どもしか食べてはならないと規定されています(レビ24:9)。

 

【ダビデ、アヒメレクに備えのパンを所望】

 ダビデはやってきてアヒメレクに5個のパンを所望します。アヒメレクはダビデたちが律法では清いとされている状態か問い、ダビデがそうだと答えると、その後パンを与えます。これは明らかに律法に違反しています。このパンは祭司たちしか食べることができません。それなのに、ダビデはこのパンを口にしています。しかしながら、ダビデは律法違反をしたからといって罰せられたことはありません。

 

 イエス・キリストはこの例を引いて、弟子たちの行為を正当化しようとしているように思われます。ここで明らかになるのは、ダビデだけではなく、アヒメレクも緊急状態の中で律法に反することをしています。

 

【例外的緊急避難的措置か?】

同様にキリストの弟子たちも空腹でありました。こういう事情があるときは律法の規定は停止される。世間では法律が国民の生活を律しています。しかし、大きな事件が起きるとその法律を停止させることがあります。それは合法的な事態だとされます。それと同じように、緊急事態のもとでは少々の律法違反は認められる、キリストもここでは律法を無視しても仕方がないとされているのだと主張する人もいます。緊急避難的措置として、律法を曲げることも許されるのだというわけです。果たしてキリストが律法違反を承認しているとか是認しているとか主張できるのでしょうか。緊急避難的に律法は曲げられてもよいとすべきなのでしょうか。

 

 律法は神の言葉です。緊急状態ならば律法は守られなくてもよいというようなことをキリストが発言されるはずがありません。では、どう考えるべきなのでしょうか。

 

【安息日は人のため】

 「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。人の子は安息日の主でもある」とキリストは言われました。

 アヒメレクの家で起きたことはこれを示しています。祭司が安息日に備えのパンを食べることができます。

 

安息日に祭司は12個のパンを手に入れることができます。ダビデは5個を求めました。祭司はなお残りのパンを取得しています。安息日は彼らにとってパンを獲得する日でした。安息日は祭司たちのためにあります。祭司は特別聖なる務めにつけられますが、また、彼らは人でした。空腹を経験せざるを得ない人間ですが、そのために神は備えのパンを祭司たちが食べるように取り計らってくださったのです。ダビデがそのパンを食べることになります。これは律法の違反ではなくて、本来、安息日が人のためにあったことを如実に示す実例なのです。

 

神が燃やされる香料をご自分のものとされますが、パンは人間が命をつなぐために用意されるのです。

 

【本末転倒のファリサイ派】

 安息日にこれが起きました。まして、キリストの弟子たちが麦の穂を摘んで食べますが、これを許す律法の規定も人間のために定められたものです。ファリサイ派は安息日を禁止事項で人をがんじがらめにする日にしてしまいました。これは本来の律法の規定にとって本末転倒です。安息日は、何もしない日ではありません。この日は人間にとって最高の神の恩恵を覚える日です。それは祭司たちにとって、そして、ダビデにとって命を救われた日でした。パンはそのしるしです。神がダビデを守られる、安息日にそれが起きたのです。

 

【安息日は救いの日】 

安息日はただパンが配給される日だというのではありません。この日、神の安息を味わう日です。世俗化するとこの日は休暇になります。あらゆる仕事から解放されて、リクレーションなどの楽しみに打ち興じるときになってしまいます。現実の安息日は単なる休養の日です。本来、そうではありませんでした。まして、何もしないでボーとしている費ではありません。安息は魂の安息を意味しています。安息日は、神の救いを味わう日です。ダビデは安息日に聖なるパンを食べ、サウルの追っ手を避けることができました。それは現実の救出を指していますが、霊的な領域で、神はその民に救いを示されます。安息日に主イエスは私たちと親しくあられること、いつも共におられることを約束し、真の心の平安と慰めを確信させられます。安息日こそ、キリストが私たちの救いを完成し、それを現実の与えてくださることを強く覚える日です。

 

 律法はこうして成就します。ファリサイ派のように安息日を規定だらけにして、恩恵を感じられなくするのはイエスの本意などでは決してありません。(おわり)




2014年11月23日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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