2014年11月9日説教「罪人を招くイエス・キリスト」金田幸男牧師1

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新約聖書
マルコによる福音書2章13~17節
2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


 

要旨

【ガリラヤ湖畔の説教】

 2章1から、ファリサイ派や律法学者との論争を記す五つの物語が記されています。イエス・キリストはガリラヤ湖の岸辺を行かれます。そこでキリストは教えられます。ガリラヤ湖はすり鉢状の地形で、かなりの急な斜面の底に湖面があります。イエス・キリストは岸辺の下あるいは湖上の船から斜面に立ったり座ったりしている群衆に説教をしたものと思われます。音響効果はよく、多くの人がイエス・キリストの教えを聞くことができました。

 

【アルファイの子レビを弟子に招く】

話を終えて岸辺を歩いて行かれたと思われますが、その近くで、アルファイの子レビが収税所に座っていたと記されています。その場所からでもイエス・キリストの説教を聞くことができたと考えてよいだろうと思います。

 アルファイの子レビとありますが、マタイ9章9-13とルカ5章27-32に同様の記事が記されていますが、そこではレビではなくマタイ(神の賜物の意)とあります。レビが本来の名(親がつけた名前)でマタイは、イエスの弟子となったときに、イエスから、あるいは自分でつけた名であったと思われます。昔から、新しい特別な立場や人間関係に入ったことを示すために名が変えられました。

 

【徴税人】 

徴税人というのは当時、税金の徴収に従事した役人のことです。支配者、この場合、4分の1領主と呼ばれた(父ヘロデの領有地が4分割されたためにこのように言われます)ヘロデ・アンティパスの任じた役人です。

 

徴税人は税金を集めるのですが、給料が支払われるのでなく、税金を取り立て、その一部を収入とするような制度になっていました。ですから強引に税金を取り立てたり、税率を勝手に高めに設定すればそれだけ収入は増える仕組みになっていました。当時、金持ちになる手取りはやい職業選択でありました。しかし、徴税人は二重の意味でユダヤ人から嫌悪されていました。

 

ひとつの理由はあくどいやり方で狡猾に税金を取り立てるものが多かったせいです。なかには公正な人もいたでしょうけれども、金持ちになる早道であってみれば、職権を利用して一般庶民から多くの税を取り立てたことへの恨みが逆巻いていました。

 

第二は、外国人と結託して税金を取り立てる仕事であったからです。そして、収税された多くは、ローマ政府の国庫に入れられました。征服者であるローマの手先として徴税人は嫌われたのです。その上、ユダヤ人から見れば汚れている外国人と付き合わざるを得ない徴税人は宗教的にも厭うべき存在であったのです。ところが徴税人の大半は読み書き計算のできる類の人たちです。当然知的な理解もできる知識人も多かったのです。頭がよく、知識もある、しかし、人からは嫌われているということで、徴税人は、憎しみや敵意から不正に税金を取り立てます。それがかえってまた反目するという結果を生み出しました。

 

レビは収税所に座っていたとありますが、カファルナウムはシリアのダマスクスから地中海に抜ける街道の途中にあり、多くの商人が行き交うところで、その商人から通行税や関税を取り立てる適地でありました。

 レビはイエス・キリストから「わたしに従いなさい」と命じられます。ただこれだけのやり取りしか記されていませんが、レビはおそらくイエス・キリストの教えを聞いていたと思います。レビは単純に従ったように思えます。しかし、レビの決心は相当なものであったといわなければなりません。他の弟子たちは漁師でした(ペトロ。アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)。彼らは元の仕事に戻ることが可能でした。事実、キリストが十字架につけられた後、彼らは漁をしています(ヨハネ21章)レビの場合はそうではありません。徴税人の仕事はユダヤ人から嫌われていましたが、金持ちになる近道であってみれば希望者は多かったのです。多額の金を出しでこの役目を買い取るものさえありましたが、すぐに元を取り戻せたといいます。レビが徴税人の仕事を辞めれば二度とこの職を得ることはできなかったでしょう。レビは主に従います。これは割に合わない選択です。イエス・キリストの教えを聞いたでしょうけれども、まだ時間はそんなにかかっていたわけではありません。キリストのことをそんなに深く知ったのでもなかったでしょう。それでもレビは仕事を捨ててキリストに従います。

 

【キリストに従う信仰は賭けか】

実際、私たちは将来のことなど知りません。一秒後にさえ何が起きるのか分からないのです。キリストに従うといってもこの先どうなるか分かりません。ましてやレビの場合は二度と元の仕事には戻れないのです。信仰は賭けだという人がいます。考えてみればそうかもしれません。しかし、賭けはどうなるか分からないけれども飛び込む。そういう冒険を伴います。しかし、信仰はそうではありません。神の子であるキリストが「従いなさい」と命じられます。すべてのことを知り、私たちにいつも最善のことをしてくださる方が私たちを導かれます。これは決して賭けではありません。キリストは安んじて従いなさいと命じられます。

 

【イエス・キリストが、罪人、徴税人と一緒に食事を】

 レビは従いました。物語はこれで終わりません。本論が控えています。

 イエス・キリストはレビの家に入られます。そして、食事の席に着かれます。おそらくレビは仲間と共に送別の宴を催したのだと思います。これまでの付き合いを感謝し、お互いの将来の幸いを祈りあう場であったと思われます。ところが、マルコの福音書を見ていきますと、様子が違う書き方をしています。16節で、イエス・キリストが、罪人、徴税人と一緒に食事をしている、とあります。これはファリサイ派の律法学者の見方ではありますが、まるでイエス・キリストが主賓のような書き方です。主人公はイエスというわけです。むろん、レビがそのような形にしたのかも知れまぜん。レビ自身ではなく、キリストが主宰する食事の席、この食事の席の主人公はキリストであるかのような設定になっています。イエス・キリストもそのように振舞われたのかもしれません。

 

ですから、キリストは食事に招かれているようにも思われます。ファリサイ派の律法学者にはそう見えました。彼らはそのことを弟子に告げています。なぜこんな遠まわしなことをしているのか分かりません。ただ単純にキリストの近くにいなかっただけかもしれませんが、やはり、直接言うのを避けたかったのだろうと思います。まだファリサイ派にはキリストが敵であると明確に意識できていなかったのかもしれません。

 

【共にする会食の意味】

食事を共にするということはユダヤ人には特別な意味がありました。今日でも食事を共にするのは友愛と親密さのしるしでもあります。仲間であることを食事を共にして表します。古代のユダヤ人にはそれ以上の意味がありました。それが外国人とは食事をしないというところから示されるように、ユダヤ人の信仰的結束のしるしでした。さらに、それは神の民の一致を示します。神から特別の恩顧を蒙るべきものの集団であること、それが食事の共食に示されたのです。さらに言うと、キリストはさらに特別の意味を含められています。

 

【ファリサイ派の律法による罪人】

 ここに罪人という言葉が出てきますが、これは犯罪人を意味していません。ファリサイ派の律法学者が解釈したような律法遵守ができない人、あるいはその遵守を拒否した人を指しています。ユダヤ人の中にはファリサイ派の律法理解による、律法の行いを不可能とする人々がいました。例えば羊飼いです。彼らは生き物である羊を飼う仕事をしていますが、そのためにファリサイ派の言う安息日は遵守できません。徴税人も、外国人と付き合って、汚れに染まってしまう仕事をしています。こういう人々をファリサイ派は罪人と言ったのです。そして、罪人は宗教的には汚れていて神から見離されていると見なされていたし、彼ら自身神から遠い、とても神から顧みられることもない存在と思っていました。

 

律法学者からすればあってはならないことが行なわれています。イエスは教師でした。人にものを教える人でした。いつの時代も教師は尊敬されなければなりません。ところがイエス・キリストは罪人と食事をしている。これはとんでもないことだと思われます。

 キリストはこのやり取りを知られます。律法学者は弟子たちに言ったとありますが当然聞こえるように言ったに違いありません。

 

【天の宴会に招かれる者とは】

そこで言われた言葉が17節です。とても有名なみ言葉のひとつです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。」何も注釈の必要のない言葉ですが、ただひとつ言うと、病気が重ければ重いほど医者が必要です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」ここでは罪人、徴税人が主賓であるイエス・キリストの招かれる食事の席についています。食事は、完成された御国での祝宴の、前味、予行演習のようなものです。キリストはこのことを意識されておられます。天における大きな主の民の宴会を予め示すのです。キリストはそのとき、全ての救われたものと共に宴会の席に着かれます。招くのはこの地上での食事だけではなく、完成された御国の食事にです。

 

 天国での食事の席に招かれているのは罪人、徴税人と言われます。この人々は救いに入ることができないと見なされ、みずからそう思っている人々でした。キリストは言われます。彼らこそ導かれるのだと。とても救いに入れないと思っている人、天国にふさわしい信仰などない、信仰生活のしていない、むしろ疑い深く、神から離れていると思っているものをキリストはいつも招いておられます。信じるものを必ず救われますが、その信仰たるや情けないほど弱い私たちをもキリストは救いの道に招かれています。(おわり) 

2014年11月09日

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