2014年11月30日説教「手を伸ばしなさい」金田幸男牧師

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マルコによる福音書3章:
1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

説教「手を伸ばしなさい」 マルコ3:1―6

 

要旨

【安息日に片手の萎えた人】

 イエス・キリストと反対者の論争物語の最後を共に学びたいと思います。場所は会堂、時は安息日とあるだけで具体的なことは分かりません。そこに片手の萎えた人がいました。彼がなぜ会堂にいたのか記されていません。イエス・キリストが会堂に来るとのことで、癒しの奇跡を期待してやってきたのかもしれません。あるいは、安息日にイエスが人を癒すのかどうか見たいと思う人たちが連れてきたのかもしれません。たまたまそこにいたことも考えられます。

 

彼がどうして手が萎えてしまったのかも記されていません。脳梗塞や脳出血で体が麻痺することは珍しくありませんでした。あるいは怪我の後遺症で手に障害が残ったのかもしれません。手に障害がある、特にその手が利き手である場合、仕事に支障が出ます。多くの場合、仕事ができなくなり、失職の恐れがあります。失職すればたちまち生活に困る場合もありました。

 

安息日に人が癒されるかどうか、居合わせた人たちは興味を示し、イエス・キリストを非難する理由を見つけようとしていました。彼らはもちろん安息日の礼拝を守るために来ていたのでしょうけれども、それ以上に、この日にイエスが病人を癒すかどうか見ようとしていました。

 

【ファリサイ派の安息日規定】

ファリサイ派は安息日に医者が病人を癒すことを安息日の規定違反だと解釈していました。ただし、死にかけているような人の癒しは許されるとしていました。このような安息日規定はよく考えるとファリサイ派に都合のよい理解です。彼らは安息日厳守を主張しています。安息日を守れないような人は罪人だと決め付けていました。

 

安息日は仕事を休む義務があるとされます。でも、仕事を休むことだけなら案外簡単でしょう。しかし、この日、体のどこかが不具合があるにもかかわらず,無理をして安息日の礼拝に出る。そうすると周囲の人は絶賛します。痛みがあるにも拘らず安息日を守っている、何とすばらしい信心の持ち主か、というわけです。この規定があるために、ファリサイ人は人から誉めそやされます。よほどの重病でもなければ、礼拝に出席して評価されます。

 

その上、この規定では重病ならば安息日の礼拝遵守の義務から解放されます。都合よく用いると、つまり、重病だと言いさえすれば安息日は守らなくてもよいということになります。ファリサイ派のしたことはまことに勝手な解釈です。人間が決める規則とは往々にしてこのようなものと言うことができるでしょう。抜け穴だらけの規則を作り、規則を守ってよい評判を獲得できるようになっています。

 

【イエス・キリストと手の萎えた人】

イエス・キリストは、そこにいた人たちの思いを見抜いておられました。そこで、キリストはまず手の萎えた人を真ん中に立たせます。見世物にするためではありません。誰もが見える所に彼を立たせて神のなさる働きを公にするためです。

 

【安息日は何をする日か】

奇跡を行う前にイエス・キリストは人々に問われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」安息日に何が禁止されているかが問題なのではない。この日に何をするかが問題であるとキリストは問われます。安息日とは本来どういう目的で守られるのか。キリストはこれを問題にされています。ところで、安息日に人を殺すといわれますが、殺すことなど果たしてあるのでしょうか。関係のない、極端な話をキリストが持ち出されていると受け止めることはできるかもしれません。しかし、人を殺すとは具体的な殺人ではなくて、広い意味で語られていると解釈する立場もあります。

 

イエス・キリストはこの日に、この会堂に入ってこられました。次の主の日は別のところに移動されています。そうすると、もしこの機会を失えばこの人は癒される機会を失います。そうすれば二度と癒されることはないかもしれません。手に支障があるということは生活が破綻するのに直結しています。職人や、あるいは、普通の労働者にとっても、雇ってもらえず、仕事ができなくなるのは飢えに追い込まれるかも知れず、生きていけないこと意味していました。それが当時の一般的な社会のありようでもありました。そのようなところに追いやられるかもしれないのです。ここで癒されなければ手の萎えた人にはある意味で死が待ちうけていました。

 

だから、キリストはこの安息日に人を生かすことと死に追いやることとどちらが相応しいのかと問われたと見ることが出来るのではないでしょうか。安息日に、手が萎えているゆえに不幸に見舞われ、人生の労苦を背負っている人をその軛から解放することはよいことなのかどうか。安息日の目的にかなっているのはどちらか。キリストはここでは安息日に何をしていいのか、してはならないのかという問題からは離れて、安息日の目的は何かに、主題を転じておられます。安息日は何のためにあるのか。

 

キリストの質問に答えることは難しくありません。ファリサイ派の人々にとっても答は明白です。安息日に善をすることは正しいことです。ファリサイ派ですら、安息日に医者が重病人を癒すことを認めました。安息日に死にかけている人を癒すことまで拒否して安息日厳守を訴えていたのではありません。ファリサイ派も人道的な行為をすることは認めていました。

 

【ファリサイ派の沈黙】

ところが、ここで彼らは沈黙します。答は明白であったにもかかわらず、彼らは何も答えようとはしませんでした。この沈黙が意味しているところは明白です。彼らはそれが正しいかどうかは別問題で、今まで安息日にしてきたことを固守しようとしています。安息日には医者が治療行為をすることを拒んできました。それだけではなく、安息日にさまざまな禁止事項を定めていました。そうする生き方を若いころから続けてきました。正しい行為で神に義と認められたい。イエスに答えるということは彼らの人生観、いえいえ、そんな大袈裟なことではなく、今までやってきた生活の仕方、スタイル、習慣を放棄することをいました。それができないということを暗黙の内に認めています。彼らの生き様、考え方をここで放棄できないというのです。いまさら修正できない。人は長く生きてきた道の行き方を急に変更できないものです。

 

しかし、キリストのみ言葉は私たちに変更を求めます。長く続けてきた、そのような生き方や習慣の変更をキリストは要求されます。それがキリストのみ言葉が持つ特性なのです。そのとき、多くの人は沈黙で応じます。キリストのいうことは分かっている。実際、安息日に善を行うことは正しいことなのです。そういうことは分かりきったことです。だからといって人生の道筋を急に変えることはできない。誰もがそう思うのです。

 

【キリストの怒りと悲しみ】

キリストは、怒りをおぼえ、またその心の頑なさを悲しまれます。福音書において、キリストの感情表現が記されているのは珍しいのです。マルコ福音書は怒りと悲しみと二重にキリストの抱かれた感情を記します。それは強調でもあり、読者に印象付けようとしていると見るべきです。決心を求められているのに、今まで生きてきたあり方に縛られて、心を変えることができない。それは多くの人たちが示す反応です。そのような反応をキリストは心を痛められています。それはキリストにとってはとても残念なことなのです。このことは今でも変わらず起きています。

 

【「手を伸ばしなさい」】

手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と命じられると、その通りになります。真ん中に立たせられたのは、心を頑なにしている人たちの只中で、神の大きな力が現われることを明示するためです。安息日に神は大きなわざを行われます。それを多くの人が目撃します。こうして、キリストは安息日に、手が萎えていることで人生に労苦を負う人を救われました安息日にこそ、このことが起きたのです。ファリサイ派にとってはこの日はいろいろ規則に縛られた日に過ぎません。ところがキリストはそのような人々の目の前で神の恵みを示されたのでした。

 

【イエス・キリストを殺す企て】

安息日、会堂に集まって、神の言葉を聞き、讃美し、祈るという祝福された状況の中で、生ける神の子のなさるみわざをただ眺めただけではなく、キリストと敵対する道が選択されました。ファリサイ派はふだんは敵対しているヘロデ派(こういう政治党派はありません。ただヘロデ王家と結託しているグループというべきでしょう)と手を握ります。イエスという相手を前にして、ライバルと手を結ぶ、それだけではありません。イエス・キリストを殺そうと企てるのです。

 

行いによって神に義と認めていただく。そのような生き方を否定するものを亡き者にしてしまおうとする。恐ろしい不信仰の連鎖です。キリストのみ言葉に抵抗する考えの行きつくところはキリスト抹殺なのです。キリストを否定するだけではすみません。敵意を持つだけで終わりません。キリストを殺し、抹殺してしまうという大罪を犯すことになってしまいます。これは例外事項ではありません。

 

【サタンの存在と病】

キリストはこうして病につかれた人を癒されました。病気は、現在ではその原因を科学的に説明します。細菌の感染のせい、遺伝子の異常による細胞の増殖、血管の閉塞・・・しかし、聖書では病の背後に霊的で人格的なものの働きを見ています。悪しき霊の活躍。その筆頭がサタンです。私たちは病気になるのは偶然と見なされていますが、病気は、神の創造のみわざから見れば逸脱です。これをもたらしたのは人間の罪です。ですから、病気もまた悪霊の追放と同様霊的な敵の行為を見て行かねばなりません。そして警戒しなければなりません。

 

【病の真の癒し】

私たちは病の癒しを祈ります。単なる科学的因果関係で病が発生するのであれば祈りは制約されます。病気の背後にある霊的な事柄、罪の結果という面を考慮するなら、霊的存在を支配する神の力に頼りつつ、祈れます。また、それは祈りでしか解決しません。病の癒しのために祈るのは、神が霊的領域で自由に働かれることを期待して祈るのです。神は安息日にこそその力を示されます。神は安息日の礼拝において、人間を縛り付けている霊的拘束も打ち砕かれるのだと宣言されます。安息日にキリストはここでもよきことを行われます。(おわり)





2014年11月30日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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