2014年10月26日説教「清くなれ」金田幸男牧師

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20141026日説教「清くなれ」金田幸男牧師

 

聖書 マルコによる福音書1

40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、

42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、

44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 

 

 

要旨

【ライ病、ハンセン病、重い皮膚病】

 「らい病」という言葉は、この病気に対する悲惨な扱いの歴史からあまり使われなくなっています。むしろ、この病気の病原菌の発見者であるハンセンという人の名をとってハンセン病というのが一般的です。この病気に対する扱いは最近まで、犯罪人でもないのに療養所に強制的に隔離し、外部との接触を厳しく制限するなどという非人間的なものでした。

 

聖書においても、狭い意味でのハンセン病ではなく、重い皮膚病に対して、このような規定がありました。「重い皮膚病にかかっている患者は,衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です、わたしは汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まわねばならない」(レビ13:45-46)。

 

多くを説明する必要はありません。私たちの感覚からすればひどく残酷な規定です。神の言葉である聖書にこのようなことが書かれているゆえに躓きを感じる人はいると思います。確かにこのような規定を文字通り実践する必要はありません。この律法の掟は古代イスラエル国家の法律として機能しましたが、それはイエス・キリストによって完成するはずの御国を指し示す役割を担っているだけであって、キリスト以降はもう廃棄されています。さらに、「汚れ」の意味も変わっています。聖書は古代の書物であり、当時の思考方法や考え方を反映しています。宗教と実生活は密接でした。レビ記11章(食物規定)、12章(出産時)、13-14章(皮膚病)、13:47以下(家屋のカビ)、15章(男女の漏出物)にあるように、外見上の汚れは宗教上の穢れと深く結びついて理解されていました。今日では両者は別のものと理解されています。

 

【御心ならば】

重い皮膚病にかかった人がイエス・キリストのところに来て平伏します。これは明らかにレビ13:45-46に規定された律法に反する行動です。イエス・キリストの時代、この律法は厳格に実行されていました。この病にかかっている人は町のなかに入ってくることは禁じられています。おそらく周囲にいた人はぎょっとしたに違いありません。それどころか石を投げられたかもしれません。しかし、彼はそのようなことを顧慮せずイエス・キリストに近づいたのです。驚くべき行動です。

「御心ならば」と言いますが、この言葉は彼の行動と比較すると違和感を感じます。もしよければというのはそこに譲歩、あるいはへりくだりの感じを受けます。しかし、彼の態度や行動はとても積極的です。律法の掟は社会的拘束力のある規定ですが、彼はそれを無視し、違反してまで強行に行動しています。大胆というべきか。跪いたとも記されますが、東洋と違い、跪く行為は相手が神(的)なもの、あるいは絶対的な権力者に対して取るものでした。これはこの思い皮膚病を患う人の最大級の期待の表現であると言っても過言ではないでしょう。何とかしてほしいと言う思いが強くこめられています。

 

【祈りは期待】

彼はイエスの奇跡を見聞したに違いありません。カファルナウムでの悪霊の追放や、病人の癒しにニュースをよく知っていたことでしょう。自分にもイエスの力が現われると期待したのでしょう。

イエス・キリストに何も期待しないというところでは何事も起きません。祈りは期待です。期待してこそ祈ります。何も期待せずという祈りは無きにしも非ずです。しかし、多くの場合、祈りは期待を持って祈るものです。祈りは決して独り言ではありません。単なる願望ではありません。祈りがそうであるように信仰も期待です。期待のない信仰はありえます。しかし、期待なくして信仰から何も生じません。

 

この思い皮膚病の人が抱いたのは強い期待でした。だからこそ「御心ならば」と言ったのであって、可能性は低いけれどもまあ少しだけは期待しておこうというような態度でキリストの前に身を投げ出したのではありませんでした。期待はずれを恐れる信仰や祈りはあるかもしれません。しかし、期待なしには何も起きないのも事実です。重い皮膚病の人は積極的にイエス・キリストに懇願しています。

 

【深く憐れみ】

キリストは深く憐れみ、彼に触ったと記されます。これは律法の規定からすれば違反行為です。してはならないことでした。汚れたものに触れる人も汚れるからです。ところがイエス・キリストにはためらうことがありません。このような行動の動機は、憐れみでした。異なった聖書の写本では、ここでは「怒りをおぼえて」と言う言葉もあります。

 

イエス・キリストは人間を悲惨にし、苦しめている状況を憤られたと見るのです。しかし、「深く憐れむ」という方がキリストの思いを的確に表現していると思います。キリストは深く同情されました。心を動かされました。それは習慣や掟を破ってまで、そのためには石を投げられても仕方がないと言う状況下であえてキリストに願いがささげられたのです。キリストはこの思い皮膚病を患う人の境遇に同情されます。ただそれだけです。イエス・キリストはその御業にふさわしい条件を求められません。何かその人の価値を見つけられたのでもありません。ただただ深く同情されただけのことなのです。

 

【手を伸ばされ】

イエス・キリストは直接彼に手を伸ばされます。この意味も深いのです。キリストは私たちと全く同じ人間となられました。少しも変わることがありません。ただひとつの点を除いて。キリストは罪なき、従って罪の結果である汚れにも染まっておられません。それで孤高を守られたかと言うとそうではありません。私たちと同じところに立ってご自身は汚れなどないお方であるのに、私たちの汚れを引き受けてくださいました。キリストはご自身が汚れがないのに、他人の汚れを、一人の人間として一身に引き受けられます。それだけならばキリストは汚れた存在になるのですが、神の子として、このような汚れを克服する力を持っておられます。汚れを払拭し、汚れを除去し、清くする力をキリストは所持されています。

 

【清くなれ】

だから、「清くなれ」と命じることができるのです。私たちは宗教施設で清らかな水で手を洗うと汚れが洗い流されるという信仰を見ることが出来ます。それは宗教的な一種の儀式です。キリストはそうではありません。キリストは神の御子として自ら汚れを克服されるだけではなく、「清くなれ」と命じられます。もはや汚れてはおらず、私たちもまた清くされます。

 

私たちはさまざまな汚れの中に生きています。魂もまた汚れていると思わざるを得ない思いに打ちのめされることもあります。自分は汚れたものだ。心が汚い。生活も汚い。そういう思いに悩まされることもあります。そのような汚れの感覚はキリストによって除去されます。それは確実です。キリストがこの思い皮膚病の患者に示されたのは一切を清めるキリストのみわざと力です。

 

【祭司たちに見せなさい】

重い皮膚病は癒されます。これで物語りは終わってもよいのですが、キリストはレビ記13章に記されているような行動を取り、さらに、癒しそのものについては沈黙を求められます。なぜなのでしょうか。

 

祭司たちに見せなさいと命じられます。祭司は神殿でいけにえをささげるだけの務めを行なう人ではありません。この皮膚病の検査に見られるように、そして,そのようにするために、医師の仕事も課せられていました。他に、占いもしました。カウンセリングのようなこともしました。また、民事の争いには裁判官の役割も果します。祭司がもう病気は治ったと判断しますと、この思い皮膚病の人は社会復帰できました。 キリストはこのような律法のとおりにさせることで、余計な摩擦を避けられたのです。彼は堂々と町のなかでもとの生活をすることができます。キリストはこのようにスムーズな生活ができるように律法どおりの手順を命じられます。

 

【だれにも、何も話さないように】

さらに、キリストは、この人には誰にも奇跡を語るなと命じられます。逆のように思われます。癒された人が自分の体験をどんどん語ったほうが伝道になる。証しというキリスト教会の伝道集会などで行われる信徒の体験談があります。伝道集会で聖書の話だけでは面白くない。だから体験談も語ってもらいましょうと。このように体験談を語ることで伝道が推進されます。ですから、重い皮膚病を癒された人のほうが宣伝効果は出そうです。ところがイエス・キリストは沈黙せよと命じられます。なぜこんなことをされたのでしょうか。

 

イエス・キリストの伝道活動が単なる人集めであればそうかもしれません。人々は、キリストの奇跡だけを求めて集まってきます。関心事は癒しです。そうすることで、御言葉の宣教はないがしろにされます。もう聞く耳を持ちません。キリストは実際、多くの人に追いかけられます。病気を癒し、悪霊を追放する奇跡だけが人を集めるきっかけとなりますが、ただそれだけです。

 

奇跡を見聞きした人が神を信じるのではありません。奇跡的に助かった人が、では信仰を告白するかと言うとそうなりません。信仰は奇跡によって生じるのではありません。私たちは実は数限りない奇跡的な出来事を経験しながら生活をしています。では、奇跡が行われるとこぞって信仰を持つか。そんなことはありません。奇跡が信仰を生み出さないのです。信仰が奇跡を生みます。この思い皮膚病を癒された人は確かに奇跡を経験しています。それは彼がイエス・キリストに大きな期待と希望を抱いたからです。だから、奇跡が起きたのです。奇跡だけを求める人のためにかえって宣教が妨害されます。だからこそ、誰にもしゃべるなとキリストは命じられたのです。(おわり)



2014年10月26日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

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