2014年10月12日説教「病気を癒すキリスト」金田幸男牧師

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2014年10月12日説教「病気を癒すキリスト」金田幸男牧師

 

マルコによる福音書1章29~39

29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。

30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。

31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。

33 町中の人が、戸口に集まった。

34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

(ほかの町や村で宣教する)

35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。

38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 

 (要旨)

【すぐに】

 安息日、カファルナウムの会堂(シナゴーグ)で、イエス・キリストの働きを妨害しようとした汚れた霊=悪霊を追い出されました。29節によると、キリストはそのあと「すぐに」会堂を出られたようです。何か急いで、あるいは慌ててすぐに会堂を出てペトロの家に行かれたと感じるほどです。それは安息日の悪霊追放と関係があると想像できます。

 

ユダヤ人、特に律法の遵守を力説するファリサイ派の人々はこのイエス・キリストの行為は認めがたいものであったはずです。安息日の厳守は妥協できない戒律でした。ファリサイ派の批判攻撃を避けるために早々と会堂を去ったと考えられます。

 

【安息日にペトロの姑が熱病に】

キリストとその一行はシモン・ペトロの家に行かれます。ペトロの姑が熱を出して横になっていました。シモン・ペトロは結婚していて、妻とその母と同居していたことが分かります。キリストの弟子たちはのちの修道士のように独身者ばかりではありませんでした。キリストの弟子たちは、よくあるように戒律中心のゆえに自由を失うというようなことはありませんでした。シモンの姑の熱病の原因や程度は何も記されていません。当時は効果のある解熱剤はなく、あっても高価でした。また、この日は安息日で医者は医療行為を禁じられていました(マルコ3章1-6参照)。高熱であってもただ横になっているだけという場合も多かったのです。

 

30節、人々はイエスにシモンの姑の熱病のことを話したと記されます。状況から判断すると、ただ彼女の病状を報告しただけであったのではないかと推測します。その日は安息日です。医療行為は禁止されています。あえてキリストにシモンの姑の癒しを願ったとは思われません。ただ、キリストには彼女の病の深刻なことが知らされただけだったと思います。ところが、キリストはどうされたか。

 

31節、イエスは姑の近くまで行き、手を取って起こした、とあります。詳しい癒しの過程は記されていません。福音書はそんなことにはあまり関心を示していないと見ることが出来ます。私たちにとってはイエスがどういう手順で病気をなおされたのか知りたいところですが、この福音書は教えてくれません。大事なことは癒しがキリストによって安息日に行われたということです。

 

 キリストはこの日が安息日であったことをよく承知しておられたはずです。しかし、キリストはペトロの姑を癒されました。この日は安息日であったからこそキリストは癒しのわざを実行されたというべきでしょう。安息日はユダヤ人にとっては何もしない(してはならない)という戒律の第一位に位置づけられる重要な日です。

 

【安息日の本義】

キリストはこの日の重要性を否定されませんが、誤って用いられているのには反対をされます。この日は何かをしてはならない厳格な律法遵守の日ではなく、神の大きな働きが示される日なのです。安息日であるがゆえに神の大きなわざが啓示されます。それは悪霊追放や病気の癒しという形で明らかになります。

 

安息日だから何もしないというのではなく、この日に大きな奇跡が実施されたのです。そして、病に苦しむものをその縄目から解放されます。キリストの奇跡は行われました。詳しいことは書かれていませんが、安息日に神は大きなみわざをなされたという事実は否定できません。

 

ペトロの姑は熱病のために会堂の礼拝に出られませんでした。戒律を重視する立場から見れば安息日を守れなかったものに神の祝福があるはずもありません。ところが、ペトロの姑は安息日であるからこそ神の大きな幸いを味わう事ができました。安息日はこのように一方的に恵みを受けるときなのです。神は真実に生きようとするものを、安息日であるが故に、大きな喜びを体験させられます。安息日とはそういう日なのです。

 

シモンの姑は癒されました。彼女はさっそく起きて一同をもてなします。安息日は煮炊きが禁じられていました。彼女は前日から食事を用意していたに違いありません。イエス・キリストから大きな祝福を受けたものは直ちにその応答をしています。

 

【夕方になると】

 32節によると、夕方になるとたくさんの病人や悪霊につかれた人が連れて来られました。ユダヤ人の日の数え方では、一日は日没で終わります。ここでは安息日(土曜日)が終わり、日曜日が来たことを意味しています。するとたくさんの人々が癒しを願ってやってきました。安息日を避けたことが分かります。人々は安息日に癒されることはないと思ったのか、またファリサイ派から攻撃されると思ったのか分かりませんが、とにかく、日が変わってから続々とやってきました。

 

考えて見ると、彼らは都合のよいことだけを求めています。安息日の規定に反するのを避けるのはいいのですが、それはファリサイ派かの批判を避けるためというなら便宜主義です。しかし、彼らはそれでも病人を癒してもらいたいという切なる願いを持っていました。だから連れてきたのです。キリストはこのような人々の思いを無視したり退けたりはされません。このような人をも見捨てられないのです。イエス・キリストは大勢の人たちを癒されます。キリストは憐れみのみ手を誰に対しても差し伸べられます。

 

【近くにある多くの町や村に宣教しよう】

35節によると、日曜日の朝、一人離れて祈りに専念されます。ところがシモンその他の人々がイエスを追いかけてきたとあります。彼らの目的は何か。みんなが探していますという報告ですが、もっと多くの人が癒しを求めているということでもあります。

38節、イエス・キリストはこれを聞いて「近くにあるもっと多くの町や村で宣教しよう」といわれます。これは人々が宣教よりも癒しを求める、弟子たちでさえまだこの頃はイエスの超自然的な奇跡実行者であることだけを期待していたので、それを拒絶するために、カファルナウムでの働きを中止されたのだと取れますが、イエス・キリストは宣教とそれに伴う神の力の発露のために、もっと多くの地で宣教活動をしようと決意されたとも取れます。ガリラヤ近辺での働きを拡大されていきます。

 

【癒しとは】

 病気の癒しについてさらに考えたいと思います。マルコは個人の癒し(ペトロの姑)をまず記し、ついで、集団の癒しを記します。さらに多くの人の癒しも語られます。福音の宣教の拡大と癒しの数は比例します。宣教がなされるところでこそ神の大きなみわざが行なわれるのです。

 

病気は人間が存在するところではどこでも起きます。なくなることはありません。最近、医療技術が格段に進歩しました。そのために人は長く生きるようになりました。高齢化は医学の進歩の結果であることは間違いありません。かつては、人は40歳代、50歳代亡くなっていましたが、今は80歳、90歳も普通となりました。そのために、私たちは病気が克服されたと錯覚しています。

 

でもそれは誤りです。高齢化して、それだけ多くの病気を経験しなければならなくなりました。今まで聞いたことにない病名に出会います。検査方法が進歩したから、今まで見落とされていた病気が発見されたといえるかもしれませんが、また人は長生きしたために、今までかかる可能性が少なかった病気になるということもありえます。時代はグローバル化しています。すると、今まで地域の病気であったものが世界中に拡大するということも現実になっています。がんについていえばどうでしょうか。かつてはがんは即、死に繋がる病として恐れられました。

 

がんになると死ぬと思われていたのです。ところが今ではがんも克服されつつあります。それでがんは制圧されたのでしょうか。現在、死因の内、がんが第2位を占めています。がんという病気が克服されたということは正しくありません。がんの治療方法は増えましたが、がんで死ぬ人は多くなって来ています。これは何を意味するのか。病気は消滅しないということです.病気はなくなることはありません。

 

 そして、死はあいも変わらず人間に苦しみを与え続けます。肉体の苦痛は残ります。確かに痛みを制御する方法は進歩しました。肉体の苦痛は解決しつつあるかもしれません。かつてこの病の痛みが病人を苦しめました。今はどうか。精神的な苦痛はかつて以上に人を悩まします。不安や恐怖、あるいは不快さ、時間との戦いは決してなくなりはしません。病気が周囲に人々を苦しめる状況は変わりません。経済的な負担もかえって大きくなりつつあります。国家そのものが今や病気のために財政破綻の危機にさえ直面する時代です。病気はなくなってなどしていません。病気は社会的な立場を失わせます。仕事ができなくなることで大きな損失を蒙ります。

 

 そして、病気は死と直結しています。病気は死の予告なのです。人間は必ず死ななければならないということを教えるのが病気です。死は必ずやってきますが、病気はその死の到来を予告するものです。ところがたいていの人はそう思っていません。

 

【死の勝利者キリスト】

 イエス・キリストは病を癒されます。これはキリストが死も克服する救い主であることを示すものです。病気は私たちに死の備えをさせます。人は病みます。そのとき、その病が死をもたらすことを学ばなければなりません。死に直面したものはどうするのか。諦める。死は一切の終わりであると諦観する。死など考えない。いろいろな備え方があります。キリストは私たちに語られます。病を癒す力ある方は究極的な死の勝利者であられる。

 誰もが病みます。病んで、そのときこそキリストが病を癒す救い主であることをおぼえます。だから、病気の癒しを祈り願うのです。キリストはその力を保持しておられます。そして、病気と死が直結している鎖を断ち切ってくださいます。(おわり)

2014年10月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

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