2014年7月6日、説教「キリストは自由にする」金田幸男牧師

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2014年7月6日、説教「キリストは自由にする」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章28~51

28 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。

29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、"霊"によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。

30 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。

31 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。

51 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

 

要旨

【アブラハムの2人の妻とその子】

アブラハムの2人の子ども、イサクとイシュマエルのそれぞれの母が比ゆとして取り上げられています。イサクの母はサラ、イシュマエルの母は奴隷身分であり、エジプト人でもあったハガルでした(創世記16:1)。

 

サラは自由民の身分でした。古代世界では自由民と奴隷の区別が厳然としていました。奴隷は人間扱いされず、物として扱われ、売買の対象でもありました。

 

【シナイ契約】

パウロはこの2人を比ゆとして、つまり、別の意味を見つけようとしています。その意味とはシナイ契約とアブラハム契約でした。

 

シナイ契約は、神がモーセを通してイスラエルに律法を与えられた契約であり、その律法によってイスラエルは民族、国家を形成するはずでした。律法は本来イスラエルが神の民を形成するのに必要な法規で、民法や刑法だけではなく、宗教的な規則も多く含まれています。ところがイスラエルにとって、律法は必ず守らなければならない法であって、神の国に属するためには必須の条件とされます。そこから、律法を持っていること、律法を守っていることが神の民であることの証拠、だから、律法は何とかして厳守しなければならないとされ、律法はイスラエルには拘束するもの、奴隷的に従わせるものとされました。

 

パウロの時代のユダヤ人、それはエルサレムの住民に代表されますが、彼らは律法遵守こそ救いの条件としたのでした。救いは律法を守る者に来る。だから、ユダヤ主義キリスト教といわれている教師は、信仰だけではなく律法の遵守を要求したのでした。

 

【アブラハム契約】

他方、サラの子イサクはアブラハムの契約に属します。神は自由に約束によって祝福を与えられます。イサクとその子孫は天のエルサレムに属します。神の力は彼らに現されます。パウロはここでイザヤ54章1節を用い、崩壊したエルサレムの奇跡的復興を一人の女性に喩えて語ります。

 

旧約聖書イザヤ書54:1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。

 

以前は不妊で、結婚の機会を失っていた、従ってエルサレムでは見下げられていた女性が、バビロンによるエルサレム崩壊の後、彼女は多産の女性になります。そんなことはありえないことですが、神はただ恩寵によって彼女の恥を削いで、もっとも祝福された女性と言われるようにされます。それは奇跡といわざるを得ません。そのようにして破壊され崩壊したエルサレムを神は復興されます。サラは90歳にもなってイサクを生みました。

 

神は恵みによってこの奇跡的はわざを行われます。律法に対して何とかこれを守ろうとしてかえって律法の奴隷となっているユダヤ主義者の言いなりになっている道と、神の恵みにのみ期待している道は決して両立などしないのです。

 

【敵対するガラテヤの教会】

 パウロはさらに比ゆから出てくる結論を語り続けます。あなた方はイサクと同じく約束の子です。あなた方とはいうまでもなく、この手紙の受取人であるガラテヤ人です。彼らは今はパウロの敵対しています。ところが彼らのことをパウロは約束の子であると断言しています。今は離れて行きました。パウロとガラテヤの信徒の間は深刻な亀裂を生じています。

 

しかし、現状がどうであれ、ガラテヤの信徒は約束の子、神の約束を失ってはいない、神から引き離されて滅びに定められているとは見ていないのです。これが驚きです。しかし、パウロはガラテヤの信徒たちを信頼しています。今はパウロから離れているにしても必ず戻ってくると確信しています。教会員というのはこのような人たちです。簡単にすぐさま、敵となってしまった人たちを見過ごしにしません。今はどんなにパウロから離れているにしても必ず彼らは戻ってくる、こういう信念がこのような言葉を語らせたに違いありません。一時に現象だけですぐにもう教会とは関わりのないものだと断定してしまわないのです。

 

【約束の子と奴隷の子】

約束の子と律法遵守のために律法に対して奴隷的になっているものは並存できません。実際、肉によって生まれた子、イシュマエルは霊によって生まれた子であるイサクを迫害したと記されています。

 

この背景は創世記21:9の文章を反映しています。「サラはエジプトの女ハガルがアブラハムとの間に生んだ子がイサクをからかっているのを見」たと記されます。「からかう」を迫害するとパウロは受け止めています。「からかう」といってもイシュマエルとイサクの間はかなりの年齢差があったと思われます。幼児イサクから見ればイシュマエルの行為は単純なからかいを越えていたと思われます。また、からかう方は軽い気持ちでしても、からかわれる方にしてみれば、深刻に心を傷つけられることもあります。いじめとはそういうものです。いじめているものは軽い気持ちだけですが、いじめられているものは死にたくなるほどの苦痛となります。パウロの解釈は過剰な理解というわけではありません。イサクから見れば深刻は迫害と考えてもあながち極端とはいえません。

 

 同じように、ユダヤ人キリスト教の教師たちはパウロたち、ただ信仰により、恵みに生きようとする者を文字通り迫害していたと容易に想像できます。ときにはパウロの命を狙う陰謀さえ起きました。ガラテヤの異邦人信徒はパウロに敵対していましたが、ユダヤ主義者の策謀はパウロを亡き者にしてしまおうという悪意から出ていたと考えても差し支えないのではないでしょうか。

 

30節は創世記21章10節の引用です。

 

創世記21:10 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」

 

しかし、よくみると創世記ではこれはサラの言葉です。アブラハムに、サラはハガル、イシュマエル母子の追放を願います。その意図は決して慈悲心などから出たのではありません。冷ややかな心から出た言葉です。サラはイサクを溺愛していました。ハガルに対する敵愾心からかもしれません。とても神の言葉とは言えないものです。

 

ところが、パウロは創世記のこの文章を神が語る言葉にしているかのようです。単なる人間の言葉を神の言葉に変えている。これは奇異に感じさせるものです。しかし、しばしば人間の言葉に過ぎない言葉が意外にも神の意志を伝えるものとされます。

 

詩編は人間的な言葉がたくさん記されています。怒り、嘆き、恐怖、不安などを表現しています。しかし、そのような言葉が私たちにとって神の意志を示します。サラには憎しみさえ加わっているような言葉でありました。ところが彼女の言葉は神の意志を表しています。これは驚くべきことです。神の直接的な語りかけだけではなく、人間自身の率直な言葉を通して神が意志を示されます。今でもこのようにして私たちは神の意志を知らされることがあります。思いがけない友人の言葉を通して神の御心を示されるのです。神の語りかけは決して単純ではありません。

 

 サラの言葉はイシュマエルの追放を求める言葉ですが、イシュマエルが表しているもの、律法に対して奴隷状態であることと、神の恵みによって自由に生きる行き方は両立できません。霊によって生きるものは奴隷的な立場をよしとするものを並び立つことができません。信仰によって生きていこうとするものは結局信仰に律法の行ないも必要だというような立場を排除せざるを得ません。どういう場合であれ、律法の行いによっては救われないのです。

 

 イサクは自由民に属する女性から生まれましたが、ただ恵みにより、信仰によって救われるものは自由の子とも言われます。それは律法に対して奴隷的な生き方と対照されます。

 

【霊的自由】

サラの場合、その自由は何よりも身分上の自由です。パウロはその自由の意味を用いて、霊的な意味での自由に転化しています。ここでは自由は何よりもキリストの贖いによる罪からの自由を意味しています。律法を行なって罪から自由になる道は開かれていません。自由は律法遵守義務からの自由です。律法を厳守して救われる可能性はありません。

 

【いろんな奴隷状態】

しかし、自由は単に律法の束縛からの自由だけではありません。私たちはいろいろな束縛の下に置かれています。例えば生きている環境としての地域の慣習に縛られています。地域は農村とは限りません。近代的な組織の中でもまた、私たちは現代社会を縛り付けている金銭の奴隷となっています。今日はお金のために生きるなどというと見下されてしまいます。しかし、それはあくまで建前です。就職することが要するにお金をもらうため。よい職を得るためには弱肉強食の競争社会を勝ち抜くしかありません。そのためには卑怯なことをしても仕方がない、生きていくためにはどうすることもできないといういいわけをして結局はお金の奴隷となっていることも多いのです。

 

ある人は運命に縛られています。全て個人ではどうすることもできないような定め、生まれ育ちだけでは計算できないようなどうしようもない運命に縛り付けられていると思って、あらゆることに諦念に生きている人もいます。死の恐怖に縛られている人、病にがんじがらめにされている人、孤独や不安に奴隷のように支配されている人、私たちは多くの束縛に生きています。

 

【キリスト者の自由は】

キリストはこのような束縛と関わりない自由を与えようとしているのではありません。キリストの自由はわたしたちを束縛している一切の制限から解き放つのです。

 

魂の自由は決して気分ではありません。自由は霊的な束縛、精神的な束縛からの自由です。その自由をキリストは与えられます。この自由は恵みです。そして、人間的にはどうすることもできないような束縛であっても私たちを全く解放する力が働きます。奴隷制度は決して解決できないと思われる制度でした。しかし、福音が浸透していくとき、奴隷所有者と奴隷の関係は一変します。お互いが仕えあうことを教えました。これでは奴隷制度は成り立ちません。このように福音の信仰は制度さえ変えるのです。単なる心の持ち方で終わるような自由ではありません。神はこの自由をキリストを通して信じる者に提供されます。(おわり) 


2014年07月06日

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