2014年6月1日説教「お父さんと呼ぶ霊を受ける」金田幸男牧師

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201461日説教「お父さんを呼ぶ霊を受ける」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙4

1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。

3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。

4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。

5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。

6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 

 

要旨

【モーセ律法は何のために与えられたか】

 アブラハムは神を信じました。その信仰によってアブラハムは神から義と認められ、大きな祝福の約束を与えられました。その後約430年経ってモーセを通してイスラエルは神から律法を与えられます。このことは信仰によってのみ救われるという神の約束が変更されて新たに律法の行いによる救いが付加されたのでもなく、また、救いの道がふたつ並んだというのではありません。

 

それでは何のために律法が与えられたのか。パウロはふたつの律法の役割を語ります。

ひとつは罪の自覚を促すという役目です。律法に違反している事実を指摘します。もうひとつはたとえで言われますが養育掛のような役割です。

 

養育掛は多くの場合奴隷で、主人の命令通り子どもを厳しく躾けます。ときには鞭や棍棒を持って脅しながら主人の子弟の教育をします。律法それ自体は救いでも救いの道を提供するのでもなく、ただ脅迫しながらキリストに導いていくだけです。恐怖心を与え、絶望させてキリストしか救いがないということを明らかにします。

 

この子どもの比ゆを用いながら、さらにキリスト者の姿を言い表します。そのために当時の法律を援用します。ローマ法ではなく、ヘレニズム世界の法律であったそうですが、親は相続人のために遺言をします。それは相続人がある年齢に達したときに遺産を相続させるという遺言です。相続人である子どもは親が定めた年齢に達しなければその相続財産を手にすることができません。ある場合、社会的には成人と見なされる年齢でも、親が死んで直ちにその遺産を引き継げるのではなく、親は定めた年齢に達するまで後見人や財産管理人の監督下に置かれます。彼は相続の権利を持っていても親の遺言にある年齢になるまで奴隷と同じく無産者と同じ扱いを受けます。後見人や管理人が親の奴隷である場合もあって、その年齢に達するまではその奴隷の監督下に置かれる。なんとも不条理な話です。

 

【信仰以前の状態】

これが信仰の現われる以前の状態であったとパウロは明らかにします。つまり、キリストを信じて洗礼を受け、キリストを着るものとなる以前は権利があっても親の財産に指一本触れることができない子どものような有様であったというのです。しかし、キリストを信じ、キリストを愛し、キリストはとなったものはもう権利者でありながら無一物という惨めな状態ではありません。

 

 パウロはこの状態を律法の下での束縛状態、自由の喪失した有様と語ってきましたが、3節では「世を支配する諸霊に奴隷として仕え」ると言います。

 

【諸霊】

この「諸霊」の解釈ですが、いくつかの理解があります。ひとつは当時のギリシヤ人の考え方で人間は肉体と精神=霊からなっている。肉体は劣等で、精神の支配下に置かれることが救済だという考えがありました。諸霊とはこの霊を指すというものです。しかし、ここでは単に肉体を支配する霊のことは何も言われていません。

 

第二はこの世界を構成する要素のこととされます。世界はこの要素に構成され、要素の運動や法則のもとで動いているとされます。しかし、ここでは、諸霊は8-9節から異邦人が仕えていた神々のことで、その神々は、「無力で頼りにならない支配する諸霊」と同義にされています。異邦人だけではなく、ユダヤ人にとってもキリストにおいてご自身を啓示される神ではなく、単なる神としてだけ崇め、律法の行いによって救いを勝ち取る相手としての神はやはり諸霊と同じです。なぜなら、その神は霊的存在と認められていてもまことの神とは言えず、したがって異邦人が信じる宗教の神々と同列なのです。

 

【現代人を支配する霊】

今日はこのような霊の存在は無視されています。そもそも神的な存在を頭から否定することが現代的だと考えられています。この世界は見えるものだけ、あるいは物質的なものだけしか存在せず、霊的なものなどないのだというのです。しかし、神とは言わなくても人間の精神を支配する霊的なものは存在します。例えば運命というものです。

 

これほど科学的なものしか信じない現代人があいも変わらず占いとかまじないの類に依存しています。また、お金という神が跋扈していて、まるで神のように振舞っています。マモンというお金の神が人間世界を支配し、それがあれば唯一人間に幸福をもたらすかのように信じられています。サタンという霊的存在は自分が存在しないと人間が語るとき大いに喜ぶと言われています。

 

霊的なものは一見して否定されているようで実は人間を今日も支配しているのです。パウロの時代の人々とよく似ています。私たちは科学的合理主義の時代に生きていますが、諸霊の支配という点では大きく変化したのではないと思われます。

 

私たちはキリストを信じるまでは相手が律法であろうと、異教宗教の神々であろうと、その下で奴隷状態でした。パウロの時代だけではなく、いつの時代も、キリストを心から救い主として信じない限り、この世界では、モーセ律法であれ、心の内に刻まれた良心という律法であろうとその下で閉じ込められ、聖霊とは全く異なる、ときには神々と呼ばれる霊のもとに置かれ続けます。

 

 【キリスト来臨】

そのような状態はいつまでも続くのではありません。キリストは時が満ちてこられました。時の充満。時間は風船に吹き込まれるようにして膨らみ続け、ついに限界が着ます。そのようにしてキリストは来られました。キリストの来られるときは神が定められたときですが、その時は時間の充満が最高潮に達したときといえるでしょう。女から生まれさせるとは、ここでは処女降誕の教説ではなく、ただ一人の人間としてこの世に来られたと言うことを強調します。キリストは律法のもとに来た。まさしく一人の人間として、つまり、私たちと全く同じ人間性を採って、この世に来て、自ら律法のもとに置かれたのです。それは単にひとりの人間になったということに尽きるのではありません。律法の支配下にあるものをあがない出すためでした。ここではパウロは詳しく語っていませんが、明らかにキリストが律法のもとに置かれ、律法の呪いを一身に引き受け、十字架の上で死なれたことを指しています。そうすることでキリストは私たちをあがない出してくださいました。

 

【神の子】

この目的は私たちを神の子とするためであったとも記されます。十字架はただ身代わりの犠牲というだけではなく、また、私たちの罪の赦しということだけではなく、それと共に私たちを神の子とするためでした。キリストの十字架と私たちが子とされる恵みをここまで明確に記しているところはありません。

 

 【アッバ、神は私たちの父】

私たちが神の子であるとすれば、神は私たちの父であってくださいます。その場合、イエス・キリストがそうされたように(マルコ14:36)、私たちも神をアッバということができます。

 

アッバとはアラム語でしかも幼児語の「お父ちゃん」という意味だといわれます。ちいさな子どもが使うこの言葉を神に使うとは革命的用法だと言っても過言ではありません。神はいと高く、はるかに偉大な神で本来近づきがたい方です。

 

ところがキリストは、この神をアッバと呼ばれたのです。アッバという語はこうして教会に保存されて行きました。今日ではあまり使われることがないようですが、教会では長くアーメンと共にこのアラム語が残されたのです。

 

アッバ、父よと神を呼ぶ、つまり祈るときそれは特別なことが起きています。アッバ、父よと呼ぶとき、それは御子の霊が与えられている証拠なのです。御子の霊とは御子によって私たちのところに遣わされる御霊のことです。御霊は私たちのうちで、神に、アッバ、父よと叫ばせてくださいます。

 

【わたしたちの祈り】

私たちは過酷な状態にしばしば置かれます。神から見捨てられたような有様になることも稀ではありません。悲劇に見舞われることもあります。思いがけない不幸に遭遇して絶望してしまうことも起こります。そのような時、私たちのできることが祈りしかありません。祈るしかないというとなんとも無力な様子と受け止められがちです。苦しんでいる人がいます。嘆いている人がいます。そういう人に向かってただ「お祈りしています」というと無情な響きがします。しかし、私たちがそのような人と共に、アッバ、父よ、憐れんでくださいと祈るときその祈りは空しい行為ではありません。

 

【御子の霊】

アッバ、父よと祈るとき、それは祈るものが神の子であることを示しています。神の御子の霊を授かっている証拠になります。アッバ、父よと祈る事実が何よりも私たちが御子の霊を持っている証拠であり、確証なのです。

 御子の霊が授けられているものが神から見捨てられているはずがありません。これほど明確な証拠はありません。少なくとも私たちが祈れるということ自体、それが神の子としての大きな特権を与えられている証拠です。

 

【神の国の相続人】

神の子は天国を相続します。神によって立てられた相続人です。もはや私たちは後見人や管理人の下で何も持たない奴隷のような存在ではありません。すでに神の国を継承しています。かつて国を相続したのは王子だけでした。私たちはそのような王子のような存在です。これは光栄なことではないでしょうか。

 私たちは心の中で神の子である証拠として祈ります。祈りほどキリスト者にとって素晴らしいわざはありません。間違いなく私たちは神の子です。決して私たちは見捨てられてはいません。神の国を継承するのですから、ここから除外されたり、疎外されたりすることはありません。神の国は私たちのものです。このような希望に生かされることこそ信仰の喜びとなります。(おわり)L140601005.wav ←クリックで説教が聴けます

2014年06月01日

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