2014年4月13日説教「正しい人は信仰によって生きる」金田幸男牧師

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2014年4月13日説教「正しい人は信仰によって生きる」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章8-11

8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。

9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。

11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 

(要旨) 

【旧約聖書と新約聖書の本質は同じ】

私たちは、旧約聖書がユダヤ教の経典であり、またユダヤ人の救いの方法である律法について記されているのであって、新約聖書とは異なると考えている人もいます。

旧約は律法、新約は福音と内容を分けてしまい、旧約聖書の学びを不要とするか、軽視する人もいます。

イエス・キリストは旧約が教える律法の行いによる救いを否定して、新しい宗教を創設したのだという人もいます。しかし、それが間違いだということをパウロは旧約聖書を引用しながら語ります。

 

【創世記12章3「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」】

まず8節―9節において、パウロは創世記12章3を引用しています。ただし、旧約の正確な引用でありません。その理由は、ひとつは当時のキリスト者は一般にギリシヤ語聖書を使用し、それからもうひとつ、パウロは暗記して聖句を用いているからです。当時の聖書は羊皮紙といって羊の皮を薄くなめしたものか、パピルスという葦の一種の草の茎を細く切って乾燥したものを用いていました。当然聖書は分厚いものになります。それは運搬しにくいもので、パウロは年がら年中旅をしている状況でしたから、聖書の言葉を記憶するほかありません。だからといって不正確というのではありません。パウロが恣意的にみ言葉を改変しているわけではありません。内容をきちんと抑えているのは言うまでもありません。

 

創世記12章3「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。

これに似た箇所は創世記18章18です。

12章はアブラハムが神の大きな祝福を受けたことを告げる箇所です。アブラハムは神から大きな祝福を受けると約束されました。アブラハムは子孫であるイスラエルの祝福の根源であると思われています。それはそのとおりなのですが、その直後に神は全世界の民の祝福を宣言されたのです。

 

異邦人はアブラハムの子孫ではないからといって、異邦人をイスラエルの救いから排除することはないのです。アブラハムに対して与えられた祝福は異邦人にも及ぶのです。

その約束は、最近急に明らかになったのではなく、アブラハムのときにすでに神から明らかにされていました。

 

【アブラハムと異邦人(全世界)の救い】

イエス・キリストにある救いは、イエス・キリスト、あるいはパウロの発明ではありません。

神は予め異邦人の救いを語っておられました。

アブラハムは信仰によって神に義と認められました。その義によってアブラハムは祝福されます。祝福は単に地上の子孫の繁栄というものではなく、永遠の命の付与、永遠のみ国の相続権を示しています。なぜならキリストを信じるものはキリストを長子とする神の子とされます。

 

 10-11節では申命記27章26が引用されます。「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」 

【神の呪い】

「呪われる」とはおどろおどろしい言葉です。聖書が「呪い」などと言う言葉を使っていることに驚きを覚える人もいます。呪う神など到底受け入れられないというのです。神が呪うはずがない。

 

「呪い」とは神から忌み嫌われている状態を指しています。神から嫌われ、神から遠ざけられているものが呪われているのです。不幸な経験をし、不運な目にあっている人がすべて呪われているわけではありません。

神に近くあっても私たちはしばしば思いがけない事故に遭ったり、世間では不幸だとされる苦難を避けることはできません。しかし、そういう人が呪われているわけではありません。

 

外見上、あるいは人間的に見れば幸福の絶頂にある人でも、神に捨てられておれば呪われているのです。そして、呪われているものは、その実際はどうなのか分かりませんが、神から厳しい扱いを受けることになります。

 私たちは呪いということを決して軽く評価してはなりません。神から呪われるとは恐ろしいことです。現代人は神の呪いなどといってもあまり深く考えることがありません。そんなものは作り話、人間の創作だと思っています。

また、呪う神などという観念はありません。ですから神が呪うというとそれだけで拒絶反応を示します。

  

私たちが無視しようが嫌悪しようが、神は律法を行わないものを呪うと告げられます。律法は守られなければならず、守らないと呪われるのです。呪いの結果は滅びです。

 

【ファリサイ派の偽善】

ところが、申命記が書かれたころとガラテヤ書が書かれたときの間に、ユダヤ人の考え方に大きな変化が生じます。それがファリサイ派の立場に明白になっているものです。ファリサイ派は律法の厳守を主張し、それによって神の愛顧を蒙ると教えました。

 

律法を厳格に遵守することが清さの源であり、その清さが神の選びの証拠だとされました。

清さがなければ救われないと言っても良いでしょう。聖性こそ救いの必須条件で。そのためには絶対に律法を厳格に守ることが必要とされました。

律法を厳しく守るためにファリサイ派は律法を詳細に解釈し、その解釈された律法の規定を厳しく守ろうとします。

たとえば、穢れたとされる動物の肉を食しないだけではなく、そのような肉を調理した食器は使用しない、そのような肉を食する異邦人とは接触を避けると、規定を拡大解釈し、それを守っていることを誇りとしました。

 

このようにしてファリサイ派は自分たちは律法に忠実で、だから神の国に入れると確信したのです。そうではない人たちを侮蔑し、ファリサイ派ではない人を排斥したのです。異邦人だけではなく、イスラエルであってもファリサイと同等でなければ救いから漏れるとされてしまいました。

 

イエス・キリストはそのようなファリサイ派と対決されたのです。

 律法を形式に守っているだけではなく、文字とおり正確に守っていなければ呪われるとパウロが申命記を引用するとき、ファリサイ派的な考え方も否定しているのです。

 

ファリサイ派は律法を守っていると言いながらそれは相対的なもので、絶対に律法を犯していないとはいえません。

 

イエス・キリストは山上の説教でファリサイ的な善行を偽善としました。他の人よりも厳格に律法を守っているようで実は見かけに過ぎず、律法を形式的に守るだけでその律法において示される神の御心を踏みにじっています。

 

パウロもまた、当時のユダヤ人のエリートであるファリサイ派の生き方を否定していることになります。律法を完璧に守れなければ、たとえユダヤ人であったとしても罪人になってしまいます。そのような人は神の呪いのもとに属します。救いはありません。

 

たとえユダヤ人であっても律法を守らなければ救われず。この点、異邦人を律法から遠いために罪人と呼ぶのですが、ユダヤ人も異邦人も呪われていることになります。だから、ユダヤ人も律法の行いではなく、信仰による義によらなければ救われません。

 

【神に従う人は信仰によって生きる】

 11節では、ハバクク書2章4が引用されます。「神に従う人は信仰によって生きる」

 「従う」というと行いではないかと疑問を感じる人がいるかもしれません。

信仰とは頭の中で信じていることではありません。

信仰とはその生き方と関わります。不信仰とは神を忘れ、神を無視することです。神を信頼せず、神を畏れないことです。ハバククの時代を考えなければなりません。

 

【ハバクク】

ハバククはおそらくバビロンによる滅亡の直前(BC6世紀前半)に預言者の活動をしたと考えられていますが、バビロンによる滅亡の原因はイスラエルの背反、不信仰のゆえでした。神を忘れ、偶像に仕え、社会的不正義が蔓延していました。このような時代、預言者は神に立ち返るように語り続けました。

そこで神殿があり、形式的には犠牲がささげられていました。国家の制度があり、そこでは法律があり、裁判が行われていました。しかし、偶像がひそかに拝まれ、権力者は権力を乱用して、不正な利得をむさぼっていました。それこそ不信仰でありました。

 

神を信じて生きていくこと、それが救いの道であるとハバククはいうのですが、パウロはこれは新約の時代でも変わらないとするのです。

 

 旧約は律法の時代であって、律法によって救われるのではありません。旧約の時代も神を信じ、神により頼み、神から派遣される救い主の救いを信じて救われるのです。

このことは新約とは少しも変わりがありません。とすれば、パウロの敵対者が、異邦人は割礼を受けなければ救われないとか、律法を守らなければ救われないと主張することが彼らの拠り所とする旧約聖書にも反していることになります。

 

【聖書における救いの一貫性、それは神の恵み】

 このように、パウロは、旧約と新約の一貫性を語っています。その一貫性は救いの一貫性でもあります。

 神は神により頼むものを救われます。神を信じると言いながら、さらにその上、自力で救いを補完できるという人もいます。それは現代でも同じです。信仰だけではどうにもならない。不備がある。よき行いで補わなければならないと主張する人がいます。

 

そういう人は自分だけではなく他人にも同じ考えと生き方を要求します。それは結局のところ、自力での救いを自他に要求することになってしまいます。

 救いは徹底的に神を信じ信頼するところからやってきます。それは神の恵みとしてくるものです。神はユダヤ人であれ、異邦人であれ、私たちの救いをこのようにして与えられます。(おわり) 

2014年04月14日

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