2014年3月2日説教「与えられた恵みを認める」 金田幸男牧師

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2014年3月2日説教「与えられた恵みを認める」 金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙2章6~10

6 おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。

7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。

8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。

9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。

10 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

 

 

(説教要旨)

【3人のおもだった人々】

パウロはガラテヤの信徒への手紙2章1-10で、「おもだった人々」という表現を3度も用いています。これは単にくどい表現というだけはなく、ヘブライ人の世界では、同じ言葉を2度も3度も繰り返すのは強調であったのです。

 

「おもだった人々」とは「影響力のある人々」「何者かと認められている人々」「評価を受けている人々」を意味しています。このおもだった人々とは9節から「ヤコブ、ケファ=ペトロ、ゼベダイの子ヨハネ」であったことが知られます。

 

ヤコブはいわゆる大ヤコブ、つまりゼベダイの子でヨハネの兄弟のことではなく、イエスの兄弟であるヤコブを指します。大ヤコブはすでにヨハネのために殉教の死を遂げていました。彼らが当時のエルサレム教会の重鎮であり、指導者でありました。この「おもだった人々」という表現を3度も用いている理由は何か。

 

ヤコブたちをこのように呼んでいたのは誰であったのか。まず可能性としてはエルサレム教会の会員がこのように3人を呼んでいたと挙げることができます。しかし、パウロが3度もこの言葉を使ったのはこれ以上に特別な思いが含まれていたと思われます。

 

【パウロの敵対者】

すると、このようにヤコブたちをさして呼んでいたのは、パウロの敵対者と考えられます。彼らはヤコブたちを持ち上げていました。そして、当然、パウロはおもだった人とは区別をします。

 

彼らはヤコブやペトロ、ヨハネを「おもだった人たち」とすることでパウロをけなし、軽んじたのです。それは、パウロが語る異邦人への福音否定するためでした。

 

異邦人キリスト者にも割礼は必要であると彼らは主張していました。パウロはおもだった人から認可を受けずに語っている。権威のない人間が語る教えには権威がないと反対者は主張しました。

 

パウロは、その祭り上げている、当のエルサレムの使徒たちから福音に関して何ら修正を受けることはありませんでした。同行しているテトスは彼らから割礼を要求されませんでした。

 

反対者がおもだった人々と呼んでいるそのヤコブ、ペトロ、ヨハネはパウロの教えている福音に関して否定したり、反対したりすることはありませんでした。パウロの反対者がおもだった人々と言っている、当のキリストの弟子たちからパウロはその教えているところを決して反対もされなかったし、否定もされませんでした。パウロはこのことを強調するために「おもだった人たち」と表現したと考えられます。

 

【おもだった人々に対するパウロの尊敬】

むろんパウロ自身もエルサレムの指導者を「おもだった人々」という、つまり尊敬をこめて語っていたと思われます。彼らは地上にいたイエスとしばらく行動を共にしました。おそらく、彼らはイエスと共に野宿をし、その説教を聞き、時には奇跡を目撃しました。

 

ヤコブの場合、イエス・キリストの復活後、教会のメンバーとなったのですが、それでも彼はイエスの幼少時代からよくイエスを知っていたのは容易に推測できます。パウロはそうではありません。その点でパウロはヤコブたちとは違いがあります。パウロはそのようにイエスと一緒に起居を共にしたゆえに彼らを「おもだった人々」と呼んだのではないことは明らかです。

 

それでヤコブやペトロ、ヨハネが重視したわけではないでしょう。しかし、彼らがその目でイエスの言動を目撃していました。イエスの説教を聞き、奇跡を見、とりわけイエスの苦難をその目で見ました。彼らはキリストの十字架の苦難をその目で、耳で見聞しました。このことはパウロには経験できないことでした。ヤコブたちはキリストの目撃証人です。

 

この故に、パウロは彼らを尊敬に値するとも見ていたはずです。自らにないもののゆえに他者を尊敬できたのです。自分にないからねたみを起こすことはありませんでした。これがパウロの態度でした。

 

パウロは決してヤコブ、ペトロ、ヨハネに劣ってはいません。彼らと同様キリストに任命された使徒です。その点で決して区別されることはありません。しかし、パウロは彼らを尊敬します。キリストを臆することなく証しをし、目撃証言を憚らず語ったのです。この点でパウロは自らにないものを認めて、彼らへの尊敬を示します。

 

 【異邦人宣教に召されたパウロ】

パウロは彼らがおもだった人々であり、しかも、彼らはパウロの語る福音を切り捨てることなどせず、むしろ、ケファ=ペトロは割礼のある人々=ユダヤ人への伝道を委ねられ、パウロには異邦人への福音宣教を委ねられたのです。同じ福音を別の領域で宣教することになったのです。パウロはおもだった人たちからその決定を示されたのです。だから、この事実を強調するために「おもだった人々」という言葉を繰り返したのです。

 

【おもだった指導者とパウロは同じ福音を】

パウロもヤコブたちも同じ福音を語っていました。指導者たちの間で相違はありませんでした。教会はその歴史の初めから同じ福音を語っていました。それはパウロがこのガラテヤの信徒への手紙の中で強調しているところです。語る人は異なりますが、福音は同じです。キリストを信じる信仰によって、ただ神の恵みによって人は救われます。この福音において教会は一致していました。

 

おもだった人はパウロを支持していました。他でもない、あの、おもだった人々と誰もが認めている最初の使徒たち、あるいは最高指導者であったヤコブがパウロと信仰を同じくしているのです。

 

他でもない、あのヤコブが、あのペトロが、あのヨハネが、パウロと同じ福音を語っているのでした。そのおもだった人々から、ペトロがユダヤ人への宣教をその責任分野としたように、パウロは異邦人宣教を認められました。

 

【右手を差し出した】

ただ役割分担しただけではありません。彼らは、パウロのその役目を「恵み」と認め、しかも右手を差し出します。右手を差し出す行為は友好のしるしというだけではなく、契約締結の行為だとされます。パウロと彼らは何の契約を結んだのでしょうか。

 

【福音を宣教する恵み】

それは、同じ福音を語るという契約であったと思われます。相手が誰であろうとも同じ福音を語るのだという固い約束を結んだのでした。パウロはこれを、彼ら、つまりおもだった人々が恵みとしたと申します。この指摘は見逃すことはできません。同じ福音を宣教することは神の恩寵なのです。同じ信仰を奉じ、その福音信仰を伝道することができる、それは神の恵みであるといいます。

 

【神の恵みと伝道について】

伝道はキリスト教という宗教団他の布教活動、つまり、信者を増やす働きと見られがちです。伝道は結局人数を増やさないと意味がないと考え、信者獲得に奔走します。入信する人数が少ないと失敗したとか成果が上がっていないとかと評価されます。

 

パウロはこの点に関して、エルサレムの指導者は同じ福音の宣教を指して、恵みだと言ったと申しました。同じ信仰を持っていること、また、その信仰を伝道することは神の恵みなのだといいます。

 

神の恵みは小さくありません。それは神の付与されるよきことです。私たちは神が与えてくださる有形無形のたまものを恵みといいます。とりわけ救いに関して神の恵みが指摘されます。

 

私たちが救われるのは神の恵みである、これが福音です。この恵みにまさる恵みはありません。しかし、恵みはこの救いに関わる部分に限られるのではありません。パウロはさらに拡大して私たちが同じ福音信仰を持って、それをのべ伝えることを恩寵といいます。

 

神は私たちに、伝道という恵みに機会を備えてくださっています。伝道は恵みの機会なのです。ですから、そこからよきことが溢れるばかりに与えられます。

 

伝道に関わるときに、私たちは伝道の結果であるさまざまな幸い、よきことにあずかります。伝道から、私たちは具体的にさまざまな神の働きに触れます。恵みを経験します。伝道を通して神が生きて働いておられることを体験できます。伝道に関わるとき、文字通り、伝道という神の恵みに私たちはあずかりうるのです。伝道を義務、あるいは単なる責任とするだけでは伝道は重荷になります。

 

伝道を神の恵み、したがって伝道を通して神の恵みにあずかると考えるのは、伝道を単に教会員獲得とだけしか考えない立場とは根本的に異なります。キリスト教会の伝道は発想の転換を求められます。

 

【エルサレム使徒会議と異邦人宣教への配慮】

この個所は使徒言行録15章のいわゆるエルサレム使徒会議を並行記事とされています。すると、使徒15章20-21の決議事項とガラテヤ2章10の記事の整合性が問題となります。使徒言行録は四つの禁止事項が記されます。ところが、ガラテヤでは貧しい人たちヘに配慮だけしか記されてされていません。矛盾があるとか、聖書の記事には間違いがあるとか、と指摘されます。しかし、それは表面的な見方に過ぎません。

 

使徒言行録とガラテヤの信徒への手紙が書かれた目的を考えれば分かります。使徒言行録は福音の進展、教会の発展に重点がかかっています。エルサレム会議の決定はユダヤ人を躓かせないためです。ユダヤ人への伝道が妨げられないようにとのエルサレム使徒会議の決定が記録されたのです。

 

ガラテヤの信徒への手紙は、異邦人教会に対する福音の宣教からエルサレム会議の配慮を記します。エルサレム教会は異邦人に対する伝道において、割礼、律法の行いを強制しないこと、これがこの手紙の中心課題です。

 

ですから、異邦人教会には1点だけ要求があったと記すのです。割礼は要求されない。ここに強調があります。エルサレム教会会議ではいくつかの合意事項があったはずです。そのすべてが克明に記録されたのではありません。ただ、ひとつのことは確かです。それは異邦人への福音とユダヤ人キリスト教会の信仰が別個のものだということは決してなかったのです。この点では一致していました。

 

重要なこと、本質的なことでは教会は一致していましたし、その点では、私たちは確かな情報を聖書から得ることが出来ます。聖書は細かなところをすべて書いているわけではありません。だから聖書には間違いあるとするのは早計すぎます。(おわり)M140302001.wav

2014年03月03日

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